第22話
運動会は滞りなく進行し、やがて六年生の徒競走の順番が来た。五年生が退場したら、六年生が入場門から入場し、校庭を半周して、トラックの中心部に待機列を形成する。
「やっほう」
「わあ!」
先に男子が走るため、女子はしばらく待たされる。待機列に体育座りをして、何も考えずに空を見上げていた文月に、急に話しかけてくる女の子がいた。紅白帽をかぶらずにゴムを首に引っかけている。
「なあに、UFOでも飛んでた?」
手で口を隠してくすくすと笑われ、文月は少し赤くなった。二組の児玉ひかりである。転校生も転入生も滅多に来ない天助小学校だから、徒競走の隣のレーンで走るのも一年生の頃から数えて六回目となる。
「なんだか、最近練習しているらしいじゃない?」
「えっ」
「ウワサに聞いただけよ。タコさん公園で、走っている女の子がいるってね。それって、鏡さんじゃない? って」
「へ、へえ、そうだったんだ……」
文月はますます赤くなって縮こまる。この一ヶ月間、学校では特に誰からも言われていなかったものの、ウワサにはなっていたようだ。友だちの少ない文月は、この手のウワサ話や流行りにはめっぽう弱い。妹から教えてもらったり、ブームが去ってから知ったりするパターンが多い。
「ちょこっと練習したぐらいで速くなるのなら、記録会が新記録だらけのバケモノ揃いになってしまうわ」
ひかりは、この五月という早い段階ではあるが私立の中学校への進学をすでに決めている。五年生の頃から短距離走で好成績を収めてきた。六年生で足のケガやトラブルに見舞われなければの話ではあるが、これからも陸上選手への道を走り続けるのだろう。
「う、うん。そうだね」
練習すればするほど速くなる。それは、この短期間で文月が体感した。
人生の中でより長くの練習時間を割いてきたひかりには、絶対の自信がある。同じ小学生同士の争いではあるが、いろいろな小学校の速い児童を集めた記録会と、小学校内の徒競走とではレベルが違いすぎる。
しかも、隣で走るのは運動神経の悪さで有名な鏡文月。今年もまた軽く流して大差で勝つに決まっている。相手がいくら練習してきていようとも、運動のプロフェッショナルのコーチがついているひかりには負ける要素がない。
運動会は休んでもよかったのだが、中学の内申に響くといけないので仕方なく出席している。
「やや、ひかりが鏡さんにプレッシャーをかけている!」
このふたりのやりとりを見かねて、文月の後ろに座っていた響子が口を挟んできた。ひかりとは保育園以来の腐れ縁である。小学校に上がってから、ひかりが親の影響で陸上の道を選んでしまい、仲良しグループとしても離れてしまったものの、全く会話しないわけではない。
「そんなせこいことしないわよ!」
「そうでござるか? なんだか、ひかりが鏡さんをいじめているように見えたでござるよ?」
「何よその『ござる』って!」
響子が茶化してくれたおかげで、文月の緊張はほぐれた。体育の授業で、響子は文月の成長を目の当たりにしている。今の文月ならば“韋駄天”に勝てるかもしれない。
「手を抜いたら恥をかくわよ、ひかり。ほら、鏡さんから、ライバルに一言」
ぽん、と両肩に手を置かれる。そんなことを言われても、もふもふさんじゃあるまいし、カッコイイセリフはすぐに出てこない。
「うぇ、え?」
「翻訳すると『絶対に勝つ』でござるね」
「うぇえ!?」
一組の他の女子が、拍手したり「よく言った!」「がんばれ!」とヤジを飛ばしたりして文月を応援する。ひかりも言われっぱなしではいられない。
「いいじゃない。本気モードで行かせてもらうわ」
「う、うん!」
こんなやりとりをしているうちに、男子が走り終えた。集計してから、いったん退場する。貴虎の走りは見られなかったが、一位を示す金色のリボンを左肩につけていた。
『続いて、100メートル走、女子』
放送委員の声に従って、待機列の女子が立ち上がる。第一レースの参加者がそれぞれのレーンに移動した。各クラス二名ずつの参加で、内側のレーンから一組と二組が交互に並ぶ。
『位置について、用意、ドン!』
第一レースの参加者がスタートして、文月はトラックの一番内側のコースのスタートラインに立った。コーナーがあるぶん、レーンによってスタートラインが異なる。リレーとは違い、内側のコースに割り込んではいけない。文月は、隣のレーンのひかりを前方に見ながらのスタートになる。
(もふもふさんの作戦通りに)
まぶたを閉じて、身体を低くし、クラウチングスタートの構えをとる。短距離走ではスタンディングスタートよりクラウチングスタートのほうが向いている、のだが、スターター役の四年生の体育委員がこちらに近付いてきた。
「鏡さん」
「え、はい」
「徒競走では、みんな、おなじスタート姿勢でないといけないので」
「あ……わかりました……」
もふもふさんによる本番の秘策だったが、こう言われてしまっては従うしかない。文月はひざについた砂を払って、スタンディングスタートの構えになった。
「何やってんだか」
いつの間にかちゃんと紅白帽をかぶっていたひかりが呆れ混じりの声を出した。スタートが遅れて、悪い形で目立ってしまっている。だが、今の文月に、周囲の失笑は気にならなかった。作戦は第一段階で出鼻をくじかれてしまったが、本番はこのあとだ。
『位置について、用意、ドン!』
スタートした。スタートからコーナーまでの直線は、つま先で走る。前のめりになって、脇目も振らずに全力前進。前傾姿勢は空気抵抗を減らす。同じクラス、第三レーンの
(コーナーは、かかとから!)
もふもふさんの作戦は、二つの走法を使い分けること。半時計回りのコーナーに差しかかった文月は、上体を起こす。右足を踏み切って、その起こした上体を内側に傾けた。身体の重心を意識しつつ、遠心力を活用し、コーナーで差を付ける。第四レーン、大外を走っていた二組の
コーナーを曲がりきってからはつま先走りに切り替える。文月がふたたび前のめりになった瞬間、ちらりと見えたのは、観客たちの歓声が自分ではなく、自分の背後で激走している文月に対しての声援であると気付き、その位置関係を確認しようと後ろを振り返らんとするひかりの顔だった。
(そんなに、びっくりしちゃうかな)
歯を食いしばって駆けている文月は、その表情とは真逆で、非常に冷静だった。ゴールテープに向かって突っ走る。あの“韋駄天”よりも速く駆け抜けなければならない。これまでの五年間では見られなかった、見られるはずもなかった、初めての一位へ向かって、ひかりを
「だあああああああああああああああああああああああ!」
音が背中に飛んでくる。このまま負けるわけにはいかない、ひかりの叫び。文月の耳には届かない。
「ああああああああああああああああああああ!」
その気迫は、ゴールテープを持つ担当の三年生の体育委員を震え上がらせるほどだった。しかし、先にゴールテープにたどり着いたのは文月である。ひかりがゴールラインを越えたのは、文月がゴールした直後。コンマ一秒差。
「わあ、あああ……」
ひかりはそれでも、スポーツマンらしく、その場で座り込むようなことはしなかった。次のレースがある。言葉にならない声を発しながらも、二位の列に並んだ。続けて、三位に莉音、四位に由紀がゴールにたどり着き、それぞれの順位の列に並ぶ。
(一位、だったんだ)
前のめりに走っていて、ゴールテープに気付いていなかった文月は、教師に追いかけられて一位の金のリボンを手渡される。体育の授業での練習では、ゴールテープまでは用意していなかった。
列に誘導されて、ようやく一位であると気付く。もふもふさんによる特訓が、こうして結果をもたらしてくれた。素直に嬉しい。
「あの、鏡さん」
「わ」
隣から話しかけられた。その顔があまりにもぐしょぐしょだったので、文月はポケットからハンカチを取り出す。
「児玉さん、よかったらこれ、使って。まだ使ってないし、替えも持っているから気にしないで」
「あ、ありがと……」
「うん!」
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