CAN CAN WORLD
運動会の日が来てしまいました
運動会、当日の朝。今朝は、目覚まし時計をセットしていない。それでも、文月はこの一ヶ月間の朝練習をするための時刻に起きた。習慣づけが成功した証左である。
『二度寝しなくていいのか?』
目覚まし時計をセットしなかったのは、もふもふさんの指示だった。本番に最高のパフォーマンスを発揮するべく熟睡しようとしていたのに、肉体はそううまくいかなかったらしい。
「目がさえちゃった」
『緊張している?』
「ううん。小学校六年間の中で、いちばん楽しみな運動会かも。むしろ、去年までのほうが『リレーでみんなに迷惑かけちゃうかも』って、寝る前にうじうじ悩んじゃって、こんなにすっきり起きられなかった」
『そうかそうか。それはよかった。文月が成長してくれて、オレは嬉しい』
文月はベッドの上からおりて、自室を出て、洗面台に向かう。最初はもふもふさんが作ってくれたハーフツインだが、何度も結んでいるうちに、一人でもきれいに作れるようになった。今となっては、文月のトレードマークとなっている。
『もし自信がないのなら、当日にオレが代わろうと思っていたんすけど、
戻ってきた文月の表情を見て、もふもふさんは口角を上げた。犬もこうしていると微笑んでいるように見える。
「ここまでやってきたのに、もふもふさんに代わってもらったら、ここまでの早起きして頑張ってきた意味がなくなっちゃうよ」
『言うようになったな、文月。余程貴虎とプールに行きたいんすね』
「桐生くんとプール?」
『よもや、忘れたと言うまいな』
「ああ、そうだったそうだった」
もふもふさんに指摘されるまで、文月はすっかり忘れていた。鈍足の文月が、どうしてこの『小学校最後の運動会で一位を獲ろう』という話になったのかといえば、一位になってから、一度は断ってしまったウォータースライダーのあるプールへのお誘いを「断っちゃってごめんなさい」をして「やっぱりプールに行きたいな?」とお願いするため。無条件で撤回してしまうのは、文月の気持ちが落ち着かなかった。わざわざ徒競走で一位の条件をつけて、折り合いを付けたのである。
『週一で環菜ちゃんとプールに通うようになって、そちらの進捗はどう?』
「ばっちりばっちり。プールサイドから、向こう岸まで泳げるようになった!」
『それって、縦じゃなくて横だよな?』
話だけ聞いていると、長いコースを泳げるようになったような口ぶりだが、実際は違う。長方形のプールの短辺に、一回も足を付けずに泳ぎ切れるようになった。
「うん! 大成長!」
本人は得意げにピースサインをしている。スタート直後に溺れそうになっていたことを鑑みれば、本人の言うとおりの『大成長』だった。
『水着と、浮き輪を買わないとな』
徒競走のための朝練習で体力がついたとはいえ、一般的な小学校六年生の女の子と比べるとまだスタミナは不足している。貴虎と丸一日プールで遊ぶことを想定すると、泳がずに水に流されて休む時間も必要だろう。
「水着はあるよ?」
『スクール水着で行くつもり?』
「え、ダメ?」
『こういうときは、新しくかわいい水着を用意しないと』
「そうなの?」
『ママや環菜ちゃんもそう言うよ、絶対にな』
「ふーん?」
『いいなあ。夏休み……プール、花火大会に夏祭りと縁日……』
もふもふさんは尻尾を振りながら、ラグの上に横たわる。文月はもふもふさんの、白くて大きなもふもふの犬(オオカミ)の姿しか知らないので、日本の夏のイベントごとがすらすらと出てくるのに違和感を感じた。
「もふもふさんにも、誰かと遊びに行った思い出があるの?」
『ある。この、もふもふさんの姿ではなくて、
「うん! もふもふさんは器用だから、夏祭りの屋台でなんでもできちゃいそう」
『この辺だと、どこで夏祭りを開催するんすか? スポセン?』
「毎年、地域の子ども向けにタコさん公園で開催しているのがある。子どもは、前もって『チケット』が七枚配られて、その『チケット』を出すと、射的やヨーヨーすくいができる」
射的もヨーヨーすくいも、文月は苦手である。いつも参加賞で一個もらっておしまい。もふもふさんといっしょならば、景品の大量獲得と豊漁が期待できる。
『タコさん公園というと、あの例の腕がたくさんある不審者の話を聞かなくなったな』
「うん」
『貴虎と貴虎のじいちゃんが退治したんすかね。学校で何か聞いてないすか?』
「桐生くんたちが?」
なんだか不思議な武器を持っている貴虎と貴虎の祖父に出会ったのは、土曜日の午後。もふもふさんに交代している時だった。なので、文月にはふたりに出会った記憶がない。
『あの、最初にタコさん公園で練習した日、あるじゃないすか』
「フォワードソーセージを勝手に買った日」
『根に持つな……』
「えへへ」
『あの日の帰りにタコさん公園に寄ったら、貴虎と貴虎のじいちゃんがいたんすよ。不審者を倒そうと張り切っていて。そのあとの話を聞いていないなと、ふと』
「そうなんだ。退治したっていう話、聞いていないな……それに、わたし、桐生くんのおじいちゃんには会ったことがないかも。すごいっていうウワサは知っているけれど、ご本人にはお会いしたことがない」
『貴虎と結構仲よさそうだったな。文月も文月のおじいさんからかわいがられているけれども、あのふたりはおじいさんと孫というより友だち同士のような距離感だった』
「……だから、桐生くんは、おじいちゃんの住んでいるところの近くにある中学校に行きたいのかな?」
鏡家に遊びに来た日。進路希望で、深川南中学校ではなくて遠い中学校に進学するかもしれないと語っていた貴虎を思い出す。そのときの文月は、貴虎の社交性から、背中を押すような言葉を言ってしまった。
「わたし、桐生くんにはわたしと同じ中学校に行ってほしい」
『というと、小学校の隣の深川南? いいんじゃないすか?』
「もしくは、わたしがそちらの遠い中学校に行けばいいの?」
『男子校だったらどうするんすか』
「それだと無理かなあ……今すぐに男の子にはなれないものね」
『それはさておき、一位になってこいよ。これまでやってきた自分を信じろ』
「うん」
『あとは作戦通り行けば勝てる』
「うん!」
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