第15話
文月はもふもふさんお手製の一汁一菜の朝食をよく噛んで食べ、食器を洗い、歯を磨く。父親から借りたままになってしまっているデジカメを持って、一人と一匹はタコさん公園へと向かった。
「よーし」
右腕と左腕を順番にぐるぐると回して、首を上下に動かす。その場でぴょんぴょんと跳んで、文月は気合い十分といった様子。
『静かすね』
もふもふさんは手頃な高さのベンチを見つけて、ぴょいと乗っかる。公園というと平日ならばご老人たちの憩いの場だったり、休日ならば親が子どもを連れてきて遊ばせていたりしそうなものだが、
「スポーツセンターの裏手に大きな公園ができたからかな。あちらのほうが、ブランコやアスレチックがあったり、サッカーができるぐらいの広いグラウンドがあったりするから」
『にしても、じゃないすか?』
うーん、と文月は人差し指をアゴに添えて空を見上げる。人の形をした雲が流れていく。
「変な人が出るってウワサになっていたからかな?」
『ああ、暖かくなると出現率が上がる』
「環菜から聞いた話だけど、塾が終わって家に帰ろうとしていた子が、タコさん公園の近くで“腕が六本ある人”に『そこのおにいさん、待って』って話しかけられたとかなんとか」
『見間違いじゃないすか?』
通常、人間の腕は二本だ。六本もあるはずがない。何らかの能力者じゃあるまいし、ともふもふさんは目撃者を疑った。
「で、でも、その子以外にも“腕が六本ある人”に話しかけられた子がいるんだって!」
『見間違いじゃないすかね?』
「桐生くんもそう言ってたなあ。もし自分が会ってしまったら『じいちゃんの作った武器でやっつけるぜ!』って」
『今出てきたらどうするんすか?』
「そのときはもふもふさんにバトンタッチする」
『まあ、それでいいすけど……そんな悪いウワサのあるタコさん公園を練習場所に選んだのは?』
「あんまり、知っている人に見られたくないからかな。頑張って練習しているところを見られるのって、はずかしいし」
土曜日はできるだけ家にひきこもっていたい文月である。仮面バトラーフォワードが始まりまでは日曜日も家でゲームをしていた。たまに母親に付き添ってスーパーまで行っても、なるべく顔見知りに会わないよう、天に祈っている。学校以外での交流を持ちたくない。
『はずかしい?』
「うん。わたしなんて、体育ぜんぜんダメだもん。どうせまたビリになると思われている」
『貴虎とプールに行かせるためにも、オレがビリにはさせない』
「誰かに見られたら笑われちゃうよ」
『人の努力を笑ってくるヤツは、ろくな目にあわないので……と言われただけでは実感がわかないすよね』
「うん……」
『努力しようと思って、公園まで来たってだけでも、努力しないヤツより文月のほうが偉い。成長している』
「そうかな……」
『まずは準備運動としてラジオ体操と、ストレッチ』
「えっ?」
『朝食を食べたばかりで動くとおなかが痛くなるし、走るのは十分に身体を温めてから。肉離れを起こしたりアキレス腱を断裂したりしたらどうする』
具体的な症状名を出されると不安が増す。さっそく走ろうとしていた文月だが、無音でラジオ体操を始めた。夏休み期間中に地域で開催されている集いがあるのと、体育の授業の準備体操に『ラジオ体操第一』が採用されているため、なんとなくではあるが順序を覚えている。
「第二も?」
『第二はいいや。屈伸して』
もふもふさんの指示に従い、屈伸した。回数は言われていないので次の指示が出るまで繰り返す。
『あと足を前後に開いて筋を伸ばす』
「こう?」
『そうそう』
「逆も、か」
『片方しかやらないってことはない』
「うん。そうだよね」
肉体の限界を超えれば、人はケガをする。運動する前にケガの予防ができるのなら、したほうがいい。万全な準備ができていたとしても不測の事態は起こりうる。被害を少なくするためにも、やれることはやっておく。
『まずは何も意識せずに、普段通りで走ってみて。スタート地点は、』
もふもふさんはベンチから降りて、白いブロックの埋められている位置に立つ。
『ここから』
まっすぐ進んで、自分の座っていたベンチの前を横切り、水飲み場の手前で止まった。
『ここがゴール地点で』
距離にしてだいたい20メートルほど。
「わかった」
文月がスタート地点とされた場所に移動し、もふもふさんはベンチの上に戻る。もふもふさんからは『普段通り』と頼まれているが、こうしてスタート地点に立つといつもより速く走れそうな気がした。
『よーい、どん』
スタートの合図が出て、文月なりの走法で駆け出す。体育の授業と違い、クラスメイトの視線はない。笑われる心配をせず、思いのままに走れる。そう思うと、なんだか自分の肉体が軽くなったようにも思えてくる。だから、いつもより速く走れそうな気がしたのだが、気がしただけだった。
『あー、えー?』
口からあふれ出そうになる暴言をなんとか諫めようとして、ごまかすような音を出してしまう。そのまま伝えてしまうのはどう考えてもよくないので、もふもふさんは必死にオブラートに包もうとしていた。棒立ちでスタートした段階で期待できなかったのだが、芸術的なまでに遅く走れる要素しかない。
「どうだった?」
ゴール地点にたどり着いて息を整えてから、文月はもふもふさんのいるベンチまで歩いてくる。やりきった表情をしていた。
『文月さ、このデジカメをビデオモードにしてくれない?』
「どうだった!」
『コメントに困る』
「それは、どちら?」
文月はデジカメを掴んだまま、操作してくれそうにない。もふもふさんの感想が先である。
『正直に言っていい?』
「うん」
『傷つかない?』
「え……そんなに……」
この確認があるときは、続く言葉を聞かなくとも『悪かった』のだとわかってしまう文月である。だてに十二年生きていない。
『走るときは、腕を前後に振ったほうがいい。腿が上がっていない』
「う、うん」
体育の教師に何度か言われたセリフと同じ。何年経っても身につかない。ラジオ体操は肉体が覚えているのに、走り方は繰り返しの頻度が低いからか、直そうとしても元に戻ってしまう。運動系のクラブにでも入っていれば走り込みをするが、特にそのような活動をしていない文月には変えるチャンスがない。
『どれだけできてないか自分でもわかったほうがいいから、走っている様子を録画しよう。フォームの改善点を言いやすい』
「それでデジカメを持ってきたんだ」
『速く走れるようになったとわかれば、モチベーションアップにつながる』
「うんうん!」
納得した文月はデジカメをカメラモードからビデオモードに切り替えて、ベンチの上に置いた。録画ボタンを押すと録画が始まり、もう一度押すと止まる。
『小六だと、徒競走の距離は100メートル?』
「そう。よく知っているね」
『オレの時と同じか。……で、たぶん直線だと100メートルのコースが取れないからって、リレーみたいにコーナーを曲がるよな?』
「うん」
『……スタートからの何歩かで加速できるかどうかか……コーナーはそのあとだな……』
遠心力の話をしようとして、手前の課題を思い出す。わざとやっているのかと勘繰りたくなるほどに遅いのをどうにかしてからだ。
「なんか……ごめんね……」
『いや。いいんすよ。文月が謝らなくていい』
と言われても、文月は萎縮してしまう。怒っているようには見えないが、これはもふもふさんがもふもふさんの姿をしているからであって、人間の――それこそ、夢に出てきたあの男の人なら、不機嫌な顔をしているかもしれない。
『最初の修正点としては、足の裏を地面に付けないようにしよう』
そんな不機嫌な顔からは出てこなさそうな修正点の提示である。もちろん、もふもふさんはあまりにも不出来な文月に対して怒っているのではない。
「それって、どうやって走るの?」
『つま先で走る。接地面は少ないほうがいい。足の裏全体を地面にくっつけてドタドタと走っているのをやめるだけでもだいぶ速くなると思う』
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