BLOOD ON FIRE

第14話

 夕食の席では母親と妹のふたりから「なぜ桐生くんからの誘いを断ってしまったのか」を問い詰められ、美味しいはずの宅配ピザが妙に塩っぽく感じられた文月は、一度断ってしまったものを撤回して貴虎と『ウォータースライダーのあるプール』へ行く約束を交わすための条件として『徒競走での一位』を提案した。

 泳ぎは苦手だが、ウォータースライダーには興味がある。環菜が泳ぎを教えてくれるのなら、それはそれでとても嬉しい。泳げるようになれば、プールは楽しめること間違いなしだ。

 人が多くて騒がしい場所は苦手だから、夏のプールなどもってのほか。一人でならプールになんて行きたいとは思えない。だが、大好きな『仮面バトラーフォワード』の話が出来る貴虎となら行きたい。

 これまでならば『徒競走の一位』は、諦めるための理由付けにしかならなかった。文月は運動の全般が苦手である。陸上競技ももちろんからきしだ。だから、母親には『徒競走の一位』が「文月が達成できるはずのない目標を掲げている」ように聞こえてしまって、深いため息をつかれた。無理に決まっている。

 妹としては姉と貴虎とが仲良くなってほしいぶん、全力でサポートしようと心の中で強くうなずいた。妹の視点では、貴虎が姉を好いている(とまではいかなくとも、気になっている)のは疑いようがない。姉の性格はそばで見ていたぶん誰よりもわかっている。姉はびっくりするほど鈍感で、貴虎の好意にはちっとも気付けていない。けれどもその姉が、自分の意志で、困難を乗り越えて、貴虎との距離を縮めようとしている。応援したい。

 天助小学校の運動会は五月の第二週の土曜日だ。猶予は、約四週間。かつては無謀でも、今は違う。挑戦しようとも思わなかった。勝てるわけがない。なんせ、文月の隣のレーンを走るのは“韋駄天”の異名を持つ児玉こだまひかり。走る順番は出席番号順で決まっているために、毎年ひかりがぶっちぎりでゴールテープを切る。文月はひかりとクラスが被ったことはなく、授業中だったり休み時間の様子だったりなどの普段の人となりはわからないものの、運動会のこの徒競走のたびに鼻で笑われてしまっており、好きにはなれない人物だった。

 しかし、今年度の文月はひと味違う。一泡吹かせる準備ができる。心強い専属コーチのもふもふさんがいるのだ。早起きして運動する、というのは貴虎と話す前から新しい日課として考えられていたが、この『徒競走の一位』という短期的な目標ができてやる気も出る。

 はずだ。

『起きろ』

「んー……まだ寝る……」

『昨日の今日で?』

「だって、土曜日だから」

『土曜日だから走る特訓をたくさんしたい、と寝る前に話していたのはどこの誰すか。昨日は貴虎が来ていたからしょうがないとしても、今日は昼飯と夜飯を作って、――こら、二度寝するな!』

「ほぎゃっ!」

 もふもふさんにのしかかられた文月は、ようやくベッドから降りようと決心した。環菜はすでにダンスクラブの練習に向かっていて、今日は母親も同行している。家には文月ともふもふさんしかいない。

 鏡家の大黒柱、父親は職場に泊まり込みになっている。文月と環菜が学校で授業を受けている時間帯に、会社から家に連絡が来た。そのあと、一度父親は帰宅して、荷物をひとまとめにしてまた出勤している。大がかりなプロジェクトが動いており、しばらくは家を留守にするそうな。

『これがピザの入ったおなか』

 もふもふさんは文月のへその周りを前足で交互にもんでいる。くすぐったくなって身をよじりながら「三枚だけしか食べていないよお」と言い訳した。十二等分されているピザを母親と文月と環菜の三人で分けているので正しくは四枚だ。

『運動で消費されるカロリーなんて微々たるものなのに、なんで高カロリーなものを食べて肉付きをよくしようとするのか』

 文月は上体を起こして、自分の脇腹をつまんだ。気にしなくてはならないような量ではないが、スポーツ万能の環菜は三年生ながらも引き締まっているので、比べると気になる。

 それに、もふもふさんの声で『肉付き』と言われると、もふもふさんと出会った日の夜に見た夢を思い出してしまう。あの、オオカミ頭の男に追いかけ回される夢。

「もふもふさんは、何が好き?」

『何が好きって、食べ物の話? でいいんすか? 誰が好きって話なら文月のことが好き』

「そう。食べ物のほう。オオカミだから、もしかして、人間を襲って食べちゃうのかなって」

 童話では、オオカミが人間を丸飲みして人間のフリをしていた。もふもふさんの大きな口には、鋭いキバが生え揃っている。大人はすり抜けて、環菜や貴虎は触れなかった。だが、文月は。

『子どもはやわらかすぎてフニャフニャで食べた気にならないし、男は筋肉があるぶんカタすぎて食えたものじゃなかった。男よりも脂肪のついている女がいちばんおいしいけれど、脂肪がありすぎるのもしつこくて、やっぱりバランスは大事、なんて、冗談すよ文月』

「……ほんとう?」

『ほんとほんと。今の状態で、俺が文月を失ったら、その辺にいるかもしれない幽霊と変わらなくなっちゃうじゃないすか。そんな、真っ青な顔をしないでほしい。元に戻るには“善行”をしないといけないのに、触れないから何にも関われなくなる。オトナには、声も聞こえないすからね。ただ見ているだけでは人助けはできない』

「う、うん」

『怖がらせて悪かった。ごめん。女神サマに誓って、俺が文月を襲うことはない』

「変な夢を見て、そのせいで、もふもふさんのことを疑いたくなっちゃって」

『夢。ああ、寝るときの夢か。どんな夢すか?』

 文月は出会った日の夜に見た夢の内容を話した。夢だったからよかったものの、追いつかれていたらどうなっていたか。起こしてくれたのはもふもふさんだった。

『なるほどなるほど』

「もふもふさんはこんなにいい人、犬? なのに……」

『改めて、さっきの話はよくなかったすね。ごめんなさい』

「わたしこそ、早く相談しておけばよかった。そうすれば、もふもふさんも言わなくて済んで、わたしも怖がらなくてよかった。怖がり損だよ」

『よし。目もばっちり覚めたところで、朝食にしようか』

「うん!」

 着替えは寝る前に準備してある。そう、寝る前の文月はやる気十分だった。通気性のよいジャージを上下セットで畳んで置いてある。

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