第11話

 エントランスで部屋番号を入力し、通話ボタンを押すとその部屋のインターホンが鳴る。住人がインターホンに応答して解錠ボタンを押せば、解錠されてエレベーターホールに行けるようになる仕組みだ。万全のセキュリティだが、欠点としては、エレベーターホールから人が出て行くときには扉が開いてしまう。このときは、インターホンでのやりとりが必要なくなるのだ。カギを忘れてしまった住人が、たまに向こう側から開くのを待っている。

 文月のようにカギを持っていれば、センサーにかざして解錠できるのだが、今回は住人である母親と会話する必要があった。在宅を祈りながら部屋番号を入力し、通話ボタンを押す。

『文月ちゃんじゃない』

 十中八九宅急便と思い込んでいたのだろう。インターホンのモニターに長女の姿が映ったのを見て、母親は変な表情になった。

『カギ、持っているわよね?』

 前の家の時には紛失してしまった。未だ根に持たれている。所持しているのをアピールするべく、文月はランドセルからカギを取り出して、見せた。

「おばさん、こんにちは!」

『?』

「おれ、鏡さんの同級生の桐生貴虎です!」

 またもや割り込んでくる貴虎。待っていられない性質タチである。

『あ、ああー! ……はいはい、初めまして!』

 例の自由研究の成果もあって、名乗ればわかってもらえるぐらいには有名だ。運動会や学芸会でも、それなりに目立っていた。直接話をする機会はなかったので『初めまして』になる。

「へへっ。ちょっとおじゃまさせてもらっても、いいですか?」

『どうぞどうぞ!』

 解錠ボタンが押されたらしく、エントランスの扉が開いた。こう上手くいくとは思っていなかったので、文月は首を傾げる。

「環菜の友だちは入れてもらえなかったのに」

 通話は向こうから切られていて、文月のこのつぶやきは届いていない。母親にしてみれば『友だちの少なさを心配していた娘が家に男の子を連れてきた』ので大事件である。いそいで片付けをして、お茶菓子を用意しようとしている。

「ふーっ……門前払いされなくてよかったぜ」

 内心びくびくしていた貴虎は、安堵の息を吐く。こう見えて、他人の家に上がらせてもらうのは初めてである。祖父の家や、親戚の家とは緊張感が違う。

「ほんとにね」

 エレベーターの上のボタンを押して、一階で止まっていた右側のエレベーターの扉が開いた。ふたりが乗り込んで、文月は九階を押す。

「十二階建てかぁ」

「桐生くんのおうちは?」

「うちは三階。というか、最近、駅前にタワーマンションできたよな。上のほうに住んでいる人って、地震起きたらどうするんだろう?」

「緊急避難のときだけ使える、長い滑り台があるとか?」

「それ面白そう! やりたいぜ! ウォータースライダーみたいな感じ?」

「いや……わからない……」

「今年もあのプール行きたいな。じいちゃんに連れて行ってもらった、すごく長いウォータースライダーのあるプールがあってさ。鏡も行く?」

「わたし、泳げないから、プール好きじゃない」

 妹の環菜は入賞するほど泳げるが、姉の文月は泳ぎが苦手である。プール教室に通わされていた時期もあるけれども、一ヶ月で辞めてしまった。その、姉が辞めてしまったプール教室で泳ぎを上達させたのが妹だ。

「泳げなくても、ウォータースライダーは楽しいぜ!」

「……もふもふさんなら、行きたいって言うかも」

「犬は入れないぜ?」

「あとでもふもふさんが入れる方法を見せるね」

「お、おう」

 九階に着いた。鏡家は角部屋である。昨日とは違い、もふもふさんは扉の前で待っているわけではない。文月の後ろを追いかけるようにして廊下を歩きながら、貴虎は九階からの景色を眺めている。

「いやあ、いい眺めですな」

「そうかな……?」

「毎日見ていると見慣れるってこと?」

「って、あれ」

 などとおしゃべりしながら、家の前にたどり着く。鍵穴にカギを入れて回したら、カギがかかってしまった。母親が開けてくれていたようだ。もう一度回して、カギを開ける。

「ただいま」

「おじゃまします!」

 玄関にはスリッパが用意されていた。先生の家庭訪問の時しか出番のない、来客用のスリッパが丁寧に並べられている。

「いらっしゃい!」

 よそ行きの服をお召しの母親が出迎えてくれた。普段より顔が明るく見えるのは化粧の効果か。先ほどのエントランスでのやりとりの時より、声のトーンが明るい。

「いきなり来てしまってすみません!」

 勢いよく頭を下げる貴虎に対して、母親は「いいのいいの! ゆっくりしていってね!」と笑顔を崩さない。想定していた展開との違いに、文月は困惑している。想像上の母親は、エントランスで貴虎を追い返していた。文月だけが九階に上がり、いったん家に帰り、もふもふさんを連れて家を出て、タコさん公園まで行くつもりでいたが、現実はそうなっていない。

「じゃあ、わたしの部屋に」

「おう!」

 文月はスニーカーを脱いで靴下で、貴虎はスリッパを履いて、文月の部屋へと移動する。後ろから母親が「あとでジュースとお菓子持って行くわね!」と声をかけるも、貴虎は「いえ! お気になさらず! 飲み物はあるんで!」と返していた。水筒にお茶が残っている。

『わおん』

 文月と貴虎が家に入ってきてからの母親とのやりとりに、もふもふさんは耳を傾けていた。それ以前に、母親が妙にパタパタとせわしなく動き回っている物音が耳障りで、身体を丸めての昼寝から起こされてしまっている。腹いせに犬のふりをした。

「でっかい犬! でっかい犬!」

 人は興奮すると語彙力が著しく低下するようで、もふもふさんを間近に見ての貴虎の第一声がコレだった。白くてもふもふの大きな犬である。

「抱きついていいか!?」

 文月に聞いているが、文月に抱きつくのではなくてもふもふさんに、だ。貴虎はもふもふさんを文月の飼い犬と認識している。

「もふもふさん、いい?」

『くぅーん……』

「それ、どっち?」

『わんっ』

 もふもふさんは吠えて、全身をぶるぶると震わせた。白い毛がもさもさと動く。

「うおおおおお、犬だあ」

「もふもふさん、しゃべれるんだからしゃべって。桐生くんには、喋れるって話をしてあるよ」

『……なんだ。つまらないすね』

「すげー! しゃべったあ!」

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