第10話

 放課後。鏡家に貴虎が来ることになった。彼の中で鏡家への来訪が決定的になったのは、文月がぽろっと『もふもふさんとは会話が出来る』と言ってしまってからだ。

「しゃべる犬、楽しみだぜ。おやつ買っていったほうがいい?」

 今年度もクラス委員長としての続投が決まった貴虎は、帰りの会が終わるなりすぐ、自分の荷物を黒いランドセルに突っ込んだ。帰り支度はこれにて完了である。

「おやつって?」

「犬のおやつ。会うからには、仲良くしたいぜ」

 文月はもふもふさんが骨をがぶがぶと噛んでいる姿を想像した。犬だけに似合っている。機嫌良く尻尾を振っていてかわいい。でも、本人が食べたいのなら、文月と切り替わっているときに買えるだろう。わざわざ貴虎に気を遣わせて、結局いらないとなったら困る。

「ママが、いいって言うかな……」

 これまで何度か環菜が友だちを家に連れ込もうとしていたが、母親に断られている。環菜曰く、他の友だちの家には上がらせてもらえるらしい。鏡家で遊ぶのがどうしてダメなのかといえば『引っ越しの荷物がまだあって、片付いていないから』が母親の弁である。引っ越し前も『掃除していないから、また今度ね』と言われていた覚えがある。

「ダメだったら、タコさん公園まで連れてこれない?」

 タコさん公園は、タコの形状をした滑り台のある公園だ。文月の家からみて、区民スポーツセンターとは反対方向に歩いて行った場所にある。低学年の頃は課外学習で出かけていたが、高学年になってからはめっきり行かなくなった。

「うん、わかった。下のインターホンで聞いてみてから決めよう」

 文月も教科書やノート、配られたプリント類を赤いランドセルに押し込んだ。明日は土曜日だ。靴箱でスニーカーに履き替え、上履きは上履き入れに入れて持ち帰る。

「毎週持ち帰っているの?」

「うん」

「おれ、春休み中も置きっぱなしだったぜ」

「持ち帰ったほうがいいよ。ちゃんと洗って乾かさないと、水虫になっちゃうって、ほけんだよりに書いてあったよ?」

 月に一度、保健室の養護教諭が発行して全校の児童に配布される『ほけんだより』を引き合いに出されて、貴虎は青ざめた。だいたいの児童が読まずに親へ提出しているが、書かれている雑学が面白いので文月は読むようにしている。

「水虫にはなりたくないぜ……」

 ランドセルを一回床におろして、すき間に上履きを突っ込んだ。ギチギチである。

「よし。入った入った」

「入ったというか、詰め込んだって感じだね」

 無理矢理、勢いよく閉じ込めた。六年間こうしてきたのだろう。貴虎のランドセルには年季が入っている。

「教科書、宿題が出ている教科以外はロッカーに置かせてほしいよな。持ち帰っても勉強しないぜ?」

「そうかも」

「週明け、先生に言ってみるか。言うだけ言ってみないと変わらないもんな。よいしょっと」

 ランドセルを背負って、貴虎もスニーカーを履く。一人ではなく、こうして二人で会話しながら下校するのは初めてで、文月の足取りは昨日よりも軽かった。昨日は、そう、進路希望のプリントのことで頭がいっぱいだったから。

「あっ……」

「どうした? 忘れ物?」

「週明けといえば『進路希望調査票』を出さないといけないじゃない。まだ書いていないなって」

 月曜日には提出しなくてはならない。この『調査票』のあとは、個人面談の日時の希望を出す。

「鏡は、どこか行きたい中学校あるの?」

「いや……特には……」

「おれもまだ考え中」

 貴虎の答えを聞いて安心する。誰もがみんな、すでに進学先を決めているわけではないのだと。今年中には決めていないといけないが、まだ四月も六日だ。

「じいちゃんの家の近くの中学校も候補に入れていて、そっちに進学するとしたらじいちゃんの家から通おうと思っているぜ」

 貴虎の祖父は言わずと知れた有名人だ。発明家として活動しており、さまざまな特許を取得している。

 貴虎は毎年、夏休みの自由研究で力作を発表していた。この作品作りに、祖父が関わっている。貴虎がアイディアを閃いて、祖父はそのアイディアの具現化に協力し、素材集めや組み立ては貴虎がおこなっているので、祖父が作ったものではないにせよ、宿題として受理していいものか、学校側は頭を悩ませていた。ちなみに昨年は『なぞると液晶画面に答えが表示されるペン』を提出している。

「おじいちゃん家、遠いんだっけ?」

「家からだと、電車とバスを乗り継がないと行けない。だから、家からそっちの中学校に毎日通うってなると、現実味ないぜ」

「確かに……」

「ここから近いところとなると、南中なんちゅうだよな」

「うん。だから、一応、深川南中学校を第一希望で書くかも」

 学区制が撤廃され、公立校でも進学先として好きな中学校を選べるようになった学校選択制のこの時代、としによってはあちらは6クラスなのにこちらは2クラス、といったように『人気があって生徒を集める学校』と『何らかの理由で集められなかった学校』で人数差が生まれるようになった。

 前者には「部活動が公式大会で優秀な成績を残している」パターンや「進学実績がよい」パターンが挙げられる。小学校は六年間あるが、中学校は三年間しかない。どれだけの強豪校だとしてもメンバーの入れ替えは発生してしまう。もちろん素質として『強い』メンバーは必要だが、その強さをより伸ばしていくためのノウハウが脈々と受け継がれていくものだ。偏差値の高い、一般的に『賢い』とされる高校に入学するにも、やはり情報が肝心である。推薦入試の面接練習であったり、小論文の書き方であったり、他の中学校との差異をアピールできる学校は生徒のみならず、大人たちからの評判も良くなる。優秀な生徒を集めやすい。

 地域によっては、私立の中学校のように試験を設けることにした。鏡家から二番目に近い中学校、深川北中学校が当てはまる。毎年4クラスぶんの定員を超えてしまうので、入学希望者を集めて国語と算数のテストを実施するのだとか。そこで落とされてしまった人が後者の学校へ進学するので、学校としてのレベルに差がついてしまう。

 最初から私立への進学を目指していて試験に落ちてしまった人も、同様に後者の人数割れした学校へ通わざるを得なくなる。中学校で浪人するようなガッツあふれるご家庭はない。それならば公立校に通って途中で編入学する。

 有象無象が不人気校に集まってきて、評判が上がるはずもない。自由は、意図していない負のスパイラルを生み出した。

「おれも南中にしよっかなぁ……」

「そうなの?」

「じいちゃんの家に住めるのは嬉しいけれども、学校に行ったらぜんぜん知らないやつらしかいないのはさみしいぜ」

「桐生くんなら、すぐにお友だちができると思うよ」

 六年間同じクラスで貴虎を見ていた文月なりの励ましの言葉だったが、貴虎には響かなかったようで、しぶい顔をされてしまった。

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