第9話

 選んでもらった服を着て、寝間着のズボンからスカートに履き替える。靴下も履いて、ランドセルを背負った。今日は体育の授業はないので、体操着はいらない。体操着を持って行く時にはサブバッグを使う。少し扉を開けると、廊下に待避していたもふもふさんが自室に入ってきた。

『いいんじゃないすか?』

 上から下までを首を動かして、全体を見てから答える。文月は、普段との違いがわからずに首を傾げた。

「そう?」

『追加の服は、土曜か日曜、近所に買いに行こう。それまでは持ち合わせの服で考えるしかないすね』

「それなら、日曜がいいかな。朝からおじいちゃん家に行くから」

『できるかぎり文月の出費が減らせるようには考えておく』

「それは、お願いしたいな。わたしも、お金持ちじゃないし」

『そうすね。――じゃ、いってらっしゃい。文月』

「うん。いってきます」

 こうして部屋にもふもふさんを残して、文月は家を出た。このようにもふもふさんには何でも話せてしまっている文月だが、一つ、言えなかったことがある。昨晩見た夢の話だ。


 *


 夢の中で(明確に“夢の中”だという自覚があった)もふもふさんの声がした。場所は去年の移動教室で泊まった宿泊施設。だから、もふもふさんの声が聞こえてくるのはおかしい。もふもふさんの声は、すっかり聞き慣れてしまった優しい声で、少し遠くから「文月」と呼びかけてくる。声のするほうへ向かうと、そこにはもふもふさんではなく、男の人が立っていた。

「あなたは、誰?」

 目が合う。はっとするような、キレイな顔の人だ。見た感じ、仮面バトラーフォワードの主人公と同じぐらいの年齢。身長が高くて、文月の目線の高さにその人の腰の骨がある。

「誰って、さみしいことを言うじゃないすか。うまいものを食べさせて、適度に運動させて、おいしくなるように育ててやったのに」

 そう言われても、文月の顔見知りに若い男性はいない。しいていえば三年生の時の担任か。ドラマの主人公として出演していてもおかしくないような、カッコイイ人はいない。これだけの人を忘れてしまっているのはなんだか申し訳ないので、文月は自らの記憶をたどって思い出そうとする。

「別に、無理に思い出そうとしなくていいすよ。これからんすから」

 舌なめずりすると、人間の頭部がぐずぐずに崩れて、その塊の形が変わっていく。やがて、オオカミの顔になった。人間の胴体に、首から上はオオカミ。もふもふさんのようで、もふもふさんではない。もふもふさんはこんなに凶悪な面構えをしてはいない。

「オオカミ男!?」

 文月が叫ぶと、オオカミが返事をするように吠えた。大きく開いた口には、鋭い牙が生え揃っている。噛まれたらひとたまりもない。

「い、いや!」

 恐怖を感じて、文月は逃げ出した。逃げて逃げて、後ろを振り返る。両手を地面について、四足歩行で追ってきているのに気付いた。泣き叫んでも、助けに来てくれる人がいない。逃げても逃げても、オオカミ男は追いかけてくる――。


 *


「……まさかね」

 夢には“深層心理”が現れているのだと、いつかのバラエティー番組で見た。文月と文月の家族を手助けしてくれているもふもふさんが、オオカミ男となって文月を追いかけ回すはずがない。オオカミ男は、もふもふさんの声をした別の生き物だろう。こんな夢を見てしまった理由は、心のどこかでもふもふさんを信用しきれていないからじゃないか。もふもふさんは文月のために尽くしてくれているのに、疑うなんてとんでもない。

「おはようご」

 天助小学校に到着し、スニーカーから上履きに履き替えて、六年一組の教室に入る。そして、朝のあいさつを言い終えるよりも先に、文月は自分に降りかかってきている視線を気にした。

 小学校生活も六年目、これまで髪型をアレンジしたことはない。いつも寝ぐせがついたままだ。ファッションに気を遣ったこともない。タンスから何も考えずに服を取り出して着ている。

「ざいます……」

 自分の席まで移動した。ランドセルを置いて、教科書やノートを机の引き出しへと押し込む。全部収まった。まるで転校生を見るかのようなまなざしを全身に浴びつつ、席を立って、ランドセルは教室の黒板側とは反対の壁にあるロッカーへと片付ける。

「あのさ、鏡」

「はい?」

 クラスメイトに囲まれた。男の子、三人組。昨日、区民スポーツセンターに入る前に無視した連中である。ミニバスケットボールクラブに所属している。

「犬の散歩をしていたのを、見かけたんだけど」

 さて、どうしようか。答えによっては厄介なことになりそうだから、文月は目をそらして少し考える。

「あんなでかい犬、この辺だと見たことないよな」

「うんうん。バイクぐらいありそうだった」

「バイクぐらいはないだろ」

 あはははは、と笑い出す三人。その笑い声につられてか、文月とはあまり関わりのないグループの女子が二人、こちらに近付いてくる。

「鏡さんさ、昨日、ウチらのダンスチームの練習に来たよね?」

 お団子頭の響子は、同じクラスだ。もう一人の女子、サイドテールの沙織も同じクラスで、ダンスチームではサブリーダーを務めている。

「あのときは『まだ考え中』って答えていたけど、チーム入るの?」

「環菜ちゃんいるし、鏡さんも歓迎だよ?」

「メンバーは多いほうがいいしねー」

「ねー」

 環菜とは違う。もふもふさんの言葉を、心の中で復唱した。もふもふさんを見られてしまった件は保留としても、ダンスチームに加入するかどうかははっきりと断れる。文月は深呼吸した。それから、

「はいはいはいはいはーい!」

 外側から一人の男の子が割り込んできて、文月の隣に立つ。文月は口から出かけていた言葉を飲み込んだ。

「そろそろ先生が来るから、みんな席に戻ろうぜ!」

 昨年度のクラス委員長の桐生きりゅう貴虎きとらである。あとで委員決めがあるのだが、他に立候補するようなキャラクターの人物はいないので、今年度もクラス委員長に選ばれるだろう。

 文月が五人に囲まれていたから、乱入してきた。はたから見ているとイジメのように見えてしまっていたようだ。

「はぁーい」

「犬! 犬の話は!」

「はいはいはい、犬ね、犬」

 文月としては助かったが半分、自己の力で解決しようとしていたのにが半分。余計なことを、とは言えない。

「大丈夫か、鏡」

「うん、まあ……」

 貴虎とは、一年生からずっと同じクラスである。天助小学校では奇数の学年になるとクラス替えがあるのだが、離れることはなかった。鏡文月と桐生貴虎で、名簿順での座席が近く、席替えするまでは隣の席であることが多い。

「犬の話、おれも詳しく聞きたいぜ!」

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