第5話

 文月に切り替わったのは、夕食のシーンだった。区民スポーツセンターからの帰り道の記憶はない。

 ただ、昼食の焼きそばは食いっぱぐれた(食べてはいるが食べた気がしていなかった)文月だが、夕食にはありつけるようで、内心ほっとしている。ダイニングにもふもふさんの姿はない。

 テーブルの向かいで笑顔で座っている母親と、その隣に座って頬を膨らませている不機嫌そうな環菜。明と暗で対照的な表情のふたりである。

「本当に作っちゃうなんて、すごいわね」

 どうやらこの夕食を作ったのは文月、ということになっているようだ。正確には文月ではなくもふもふさんだ。しかし、母親にはもふもふさんの姿はおろか、頭に生えてくる特徴的なオオカミの耳も見えていない。

「え、あ、まあ……家庭科の授業で、やったから」

 混ぜ込みごはん、わかめのみそ汁。チンジャオロースに、麻婆春雨。冷や奴とほうれん草のゴマ和え。これらの料理をスポーツセンターから帰ってきて、作った。文月が。とっさに家庭科の授業を理由としたが、調理実習でここまでの料理は作っていない。せいぜいごはんを炊いてみそ汁を作るぐらいだ。

 文月は時計を見る。鏡家の夕食は、だいたい十八時頃。今は十八時。

「パパにも食べさせてあげたかったわ」

「パパ、どうしたの?」

「文月ちゃんが出かけたあとに電話がかかってきてね。急なお仕事で、今日は帰ってこられないらしいのよ。せっかくの文月ちゃんのなのに」

 文月ちゃんの。手料理。否定がのどにつっかえる。

 もふもふさんが見えない状況で、この母親にもふもふさんの話をしても、きっと伝わらない。犬の妖精に身体を乗っ取られている、だなんて、事実だけれども信じてもらえないだろう。

 自分の手柄ということにしておくのは、居心地が悪い。あとでもふもふさんを問い詰めようと思う文月であった。それに、自分に取り分けられているチンジャオロースにだけピーマンが多い(ように見える)。ピーマンの苦みが好きではないのだが、自分で作ったものなのに箸で避けるのは不自然だ。飲み込むしかない。噛まなければいける。

「文月ちゃんもまた作ってくれるわよね。ま、今日はタイミングが悪かったってことで、いただきます」

「「いただきます」」

 三人で両手を合わせて、夕食の時間が始まった。どれも美味しくできていて、母親が褒めてくれる。環菜が発した「いただきます」以外の言葉は「ごちそうさま」だった。瞬く間に完食して、自室に戻っていく。自分の姉が豹変ひょうへんして、自分の得意分野へと踏み込んできたことに静かな怒りを燃やしている様子である。

「環菜ちゃんとなんかあった?」

 環菜の部屋の扉が乱暴に閉じられて、母親は小声で聞いてきた。スポーツセンターで何があったのかは、切り替わっていた文月が知る由もない。文月の直前の記憶は、スポーツセンターの手前の公衆トイレまでで止まっていた。

「わかんない」

「環菜ちゃんも、あんなに頑張っていたプールを辞めて『ダンスをやりたい!』って言うから始めさせたけれど、大変よね。お友だち付き合いも」

「うん……」

「見に行って、どうだった? 文月ちゃんもやりたい?」

 見てはいない。見たのは文月ではなくもふもふさんだ。が、運動は苦手なので、体育の授業以外で運動したくはない。授業は授業だから諦めもつくが、それ以外でまで運動しようとする人の気持ちがわからない文月である。

「わたしは、いいかな」

「あら、そう」

 このような会話をして、夕食を終える。自室に戻れば、もふもふさんはベッドの上に寝そべっていた。

「……いる」

 尻尾をピンと立てて、頭を持ち上げて文月に向けてくる。ベッドが占領されそうな大きさだ。

『いなくはならないすよ』

「そうなんだ」

『文月の幸せは、オレの目的。いなくなったら、叶わなくなる』

 学習机に向かい、ランドセルからクリアファイルを取り出した。配布された今年の時間割を確認して、明日の授業の教科書やらノートやらをランドセルに詰めていく。

「なんでわたしなんだろう?」

『さあ?』

「理由は、聞いてないんだ」

『誰であろうとオレのやることは変わらない。でも、オレは文月でよかったと思っているよ。文月となら“ヒーロー”になれる』

 一通り準備は終わり、イスに座ってもふもふさんと向かい合う。

「スポセンで、何をしたの?」

『環菜ちゃんのダンスを見た』

「見ただけ?」

『ちょっぴり、参加した。見てたら、身体を動かしたくなったんすよね』

「……それで、環菜がむすっとしてたんだ」

 環菜は昔から、姉の文月を目のかたきにしていた。姉が勉強も運動も不出来なことを知っている。姉よりも優秀な妹として、両親から愛されている環菜の目の前であのような行動を取ってしまえば、好感度は下がってしまう。

 さらには先ほどの、普段の夕食よりも少しだけ豪華な食卓が環菜のプライドに追撃を加えた。今朝までとの違いから、怪しんでいるに違いないが、直接は聞いてこないか。

『普段の文月とは違うんすか?』

「わたしは、運動苦手だから」

 その証拠にと、年度末に渡される通知表をもふもふさんに見せる。見返すことはあまりないが、先生から「保管しておくように」と言われているので、学習机の中に第一学年から昨年度の第五学年までのぶんが収納されていた。

『わざとすか?』

「クラスでわたしだけ逆上がりできなかったし、徒競走はいっつもビリだし」

 例をあげようとすればいくらでも出てくる。わざとなはずがない。文月なりに頑張っても「がんばりましょう」の評価を下されていた。

『よくって言うんすけど、悪いんじゃなくて、筋肉の動かし方を知らないだけなんすよね。そもそも、同じ両親から生まれている妹があれだけ動けているのに、姉ができないわけがない』

「そうなの?」

『意識の問題すよ。できないと思い込んでいたら、一生できない。イメージトレーニングは大事なんすよ。逆上がりができないのは、コツを掴んでいないだけ。実際、スポセンでオレは文月の身体でも何の支障もなく動けたんで、身体のどこかが悪いんじゃない』

「そうなの……?」

『徒競走は、走っているときの姿勢の問題すね。もちろん、オリンピック選手と比べたら、体格とか筋肉量とかで違いがあるんで、あそこまで速くは走れないんすけど。まだ小学生っすから、フォームを直せばクラスで一番足の速い子と同じぐらいになるんじゃないすか?』

 体育は、他の子と比べられやすい教科だ。他の教科よりも、圧倒的に、できないことが可視化されてしまう。こうして周りと比較されていくうちに、人は運動が嫌いになっていく。

 しかし、その反面、これまで“できなかったこと”が“できるようになる”ことでの成長を、もっとも感じられる教科でもある。

「なら、さっそく!」

『これからだと暗くなってくるんで、風呂に入って、さっさと寝て、早起きするのはどうすか?』

 言われて気付く。文月は窓の外を見やって、カーテンを閉めた。四月。これから日はのびてくる。

「寝るには早すぎない?」

『小六なら最低九時間は寝たいんすよね。身支度して、朝ご飯をきちんと食べて、朝から身体を動かして、登校の時間に間に合わせるとなると』

「うわあ……健康的……」

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