第4話

 一階のホワイトボードには日付と体育館を貸し切っている団体の名前が書かれている。ダンスクラブのレッスンは十五時までとなっており、次の枠にはミニバスケットボールクラブの名前が記載されていた。先ほど広場に集まっていた少年たちだろう。

「バスケもいいんすけど」

 少年たちのうちの三人が集団から離れて、耳を生やした文月に「鏡!」と声をかけてきたのだが、今は環菜に会いに行く目的で区民スポーツセンターを訪れている。返事もせずに無視してしまった。この三人は文月のクラスメイトなのだが、今の文月の肉体はもふもふさんが操っているので、気付けなかったのである。

 案内図を見て、階段で三階まで移動した。一階が室内アスレチックとなっていて、二階が体育館。三階は、二階のフロアが一周ぐるりと見渡せるような観客席となっている。区民スポーツフェスタの際には、こちらの席から見下ろすような形で環菜たちを応援していた。

「お。みんな頑張っている」

 姉という立場ではあるが、練習の途中で割り込むようなマネはせず、まずは上から見学する。先ほどの文月との会話から考えるに、姉妹仲は良好とは言えなさそうだ。そんな姉が空気を読まずにレッスンの邪魔をしにいけば、より険悪なものにしてしまうのは想像に難くない。

 もふもふさんとしては、文月とはうまく付き合っていきたい。文月だけでなく、その周りともだ。

 母親とはうまくうまくいっていなさそうな雰囲気を、家に上がり込むまでのやりとりで感じ取っていた。だから、母親の手助けを申し出て、好感度が上がるように仕向けた。文月の家族関係に積極的に関与していき、悪い部分を改善していけば、それは『善行』と言えるのではなかろうか。文月を取り巻く環境をよりよくしていくことで『人間の姿に戻る』という自らの目標に近付く。一石二鳥である。

「……アレすかね」

 メダルを首から提げて笑顔で撮られている写真が、賞状に添えられていた。その競泳水着姿の女の子と、十何人かのグループの左端で踊っているベリーショートの女の子がそっくりだ。鏡環菜。文月が六年生で、あちらが三年生だから、三学年下の妹。

 グループと向かい合っているジャージ姿の女性が、左手に握ったリモコンでたまに音楽を止めながら檄を飛ばしている。あともう一人、似たようなジャージを着た女性が、グループの周囲をうろうろしながら、気になった人に近付いていき、フォームの矯正をしていた。この二人がコーチ的な立場なのだろう。

 全員真剣そのもので、レッスンに励んでいる。三階からの見学者には見向きもしない。見たところ、環菜がいちばん小さい。大きい子でも文月ぐらいの背丈なので、小学生のダンスグループなのだろう。教えているコーチは三十代か。音楽はたびたび止められて、同じ小節を繰り返したり、最初からになったりと、なんだかせわしない。

「……」

 文月は靴ひもを結びなおした。それから、ストレッチを始める。今は自分香春隆文の肉体ではなく文月の身体だから、いきなり動いてはいけないし無茶もできない。時間をかけて念入りにほぐしておく。

「よっと」

 ひな壇のようになっている座席を駆け下りて勢いをつけた。欄干に両手をつき、跳び箱を跳ぶようにして飛び越えて、体育館のフロアへと両足で着地する。

「見てたら踊りたくなってきたんすよねっ!」

 準備運動とばかりにロンダートを披露した。コーチのうちの一人が気付いて「ストップ!」と音楽を止める。

「おねえ!?」

 突然現れた少女の妹が目を丸くして驚いた。文月の体育の成績は一年生の頃から『がんばりましょう』である。三段階評価の一番下。逆上がりができない。二重跳びは足が絡まり、前後の人とタイミングを合わせられないので大縄跳びではいつも縄を回すほう。そんな少女がアクロバットな動きをしているのだから、この場にいる誰よりも身近な存在の妹としては声も大きくなってしまう。

「どうも。環菜がお世話になっています」

 今度はハンドスプリングをして移動し、涼しい顔をしてグループの前に立っているコーチに挨拶する。環菜からの「おねえ」とこの挨拶から、この少女が鏡環菜の姉であり、決して怪しい人物ではないと判断してくれたらしく、コーチは「君も、うちに入るの?」と勧誘してきた。

「まだ考え中です」

 入るかどうかは文月が決めたほうがいい。ここで「入ります!」と答えて、あとで文月に文句を言われたくもないので、保留にしておくのが無難だ。

「何しにきたのよ!」

 環菜がコーチと文月のあいだに入ってきた。顔が真っ赤になっている。

「妹のダンスを見に」

「見るだけなら、あっちで見ていればいいでしょっ!」

 あっち、と三階を指さした。まったくもってその通りである。

「見てたら、わたしも踊りたくなっちゃった」

 照れくさそうにしてから、コーチの目を見て「初めて見たんですが、すごくいいですね。全員ばっちり揃ってたらかっこいいと思います」と感想を伝えた。

「あんまり詳しくないんで、専門的なことは言えないすけど、サビのダイナミックな動きとか、一列ずつズレてポーズしていく辺りとか、めっちゃいいです」

「響子!」

「はいっ!」

 コーチが呼びかけると、レッスンの中断に戸惑っていた女の子たちがびしっと背筋を伸ばす。

「おいで」

 お団子頭の女の子がこちらまで走ってくる。なにかやらかしたかと、少し首を傾げながらだが。

「振り付けは、響子が考えたものなんだ。――響子、この子が褒めていたぞ」

「めっちゃかっこいいです! 練習、頑張ってください!」

 想定とは真逆の褒め言葉を受け取って、響子は面食らった様子だった。少し間があって、褒められたことに実感が湧いてきたのか「あ、ありがとうございます!」と頭を下げる。

「君は『専門的なことは』と謙遜していたが、まったくダンスに興味のない人が見て『かっこいい!』と思えるかを大事にしている。だから、響子は百点満点」

「嬉しいです……!」

「あとは、みんなが揃うかどうかだな。本番まで、気合い入れていくぞ!」

「はいっ!」

 響子は嬉しそうに返事をしたが、環菜は複雑な表情を浮かべている。環菜も正式なグループのメンバーとして、練習に励むべきなのではなかろうか。

「体験レッスンってことで、隅っこで踊らせてもらえませんか?」

「だめっ!」

 文月がコーチに申し出たのに、環菜に取り下げられてしまった。握られた拳がぷるぷると震えている。

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