第3話

 昼食を終えた文月は、深川区民スポーツセンターに向かっている。食べた記憶はないのに、おなかが膨れているのが不思議で仕方なく、痛いわけでもないのにおなかをさすってしまう。

『名前、決めた?』

 何故このタイミングで深川区民スポーツセンターに向かっているかといえば、文月の半歩後ろをついてきている白い犬が『深川区民スポーツセンター、に行きたいんすけど、オレ、場所わからないんすよね』と言い出したからだ。

 この辺に住んでいれば知らない人はいない。秋には区民スポーツフェスタが開催されている。昨年は環菜が「友だちと参加する!」と言うので家族で応援しに来たのが、文月にとっては最後の来訪だ。

 バスケットコートを二面取れる広さの体育館と、ボルダリングの練習ができる壁を含む室内アスレチック施設を、区民は格安で利用できる。平日、休日問わず賑わっている施設である。

「名前……あなたの?」

『さっきはオレが何者なのかって話になっちゃったじゃないすか』

「うん、そうだった。だって、ママには見えてないっぽいし、おかしいもん」

『妖精ってことで納得しといてもらえないすか。それで、妖精としての名前を、文月につけてほしいな』

「……どうして犬の姿の妖精になっちゃったの?」

『いろいろとワケありでね。でも、善行――イイコトをたくさんすれば、元の身体に戻してもらえる、とオレをこの身体にした神サマと約束している』

「それで“ヒーロー”になる、ってことか」

『そういうこと』

 鏡家が今の家に引っ越してきたのは一月であるが、引っ越す前も同じ深川区に住んでいた。文月は引っ越しの話を聞いた時には「あれ、転校?」と不安がったものだが、引っ越してからはむしろ小学校は近くになった。

 そして、第一希望として校名を書こうとしている深川南中学校は、小学校から徒歩五分ほどしか離れていない。文月が小学校の一年生だった頃に、まだ校舎の建て替え工事が完了していなかったため、体育の授業や運動会で深川南中学校の設備を使わせてもらっていたぐらいには近い。

「名前ねえ……責任重大だなあ……」

『呼びやすい名前でいいすよ』

「元のお名前は、なんて言ったっけ?」

『香春隆文』

「犬っぽい名前だと、うーん」

 歩きながらうーんうーんと悩みつつ、横断歩道の赤信号には立ち止まる。大人からは視認できず、触れられもしないので身体がすり抜けるものの、物体を通り抜けることはできない。通り抜けられるのであれば、家の扉を無視して鏡家に不法侵入できていた。文月が止まるのに合わせて、犬もその場でおすわりする。

 テレビ番組でかわいい動物を見るたびに『ペットを飼ってみたい』という気持ちは芽生えてくる文月だったが、両親に伝えたことはない。どうせ却下される。今の状況は、願いが叶ったようで、なんだか嬉しい。

『正確には犬じゃなくてオオカミなんすけど、犬でいいや。細かいことを気にするタイプじゃないんで、文月の呼びやすいような名前で、好きに決めていいすよ』

「なら、白くてもふもふで大きな犬だから、もふもふさん」

 気にしないと言ったくせに『えぇ……』となんだか納得していないような声を出した。

「ダメ?」

『文月が呼びやすいなら、いいすけど』

「なら、もふもふさんで決定!」

 犬っぽい名前かどうかはさておき、文月が気に入っているようなので何も言い返さない。好きに決めていいと言ったのはもふもふさんのほうである。歩行者用の信号が青に切り替わる。

「それで、もふもふさんは、なんでスポセンに行きたいの?」

 文月はさっそくもふもふさんとして呼びかけた。知っている場所なので、道案内するのはいいが、目的を聞いていない。

『あれがその、深川区民スポーツセンターすか?』

 横断歩道を渡りきった先、地下鉄の出入り口からも近いところにある白っぽい建物がお目当ての深川区民スポーツセンターだ。広場には大きめのエナメルバッグを持った少年たちが集まっていた。バスケットボールを持ったサルのマークのついたウインドブレーカーを羽織っていたり、ズボンをはいていたりするので、チームでの練習のためにこの施設を利用しようとしている集団と思われる。

「そうだけど……」

『よし。道案内ありがとう。また身体を』

「ちょっと待った!」

 少年たちがじろじろとこちらを見て、何やらおしゃべりしている。年齢は文月と同じか、年下だ。なので、もふもふさんの姿は見えている。漏れ聞こえてくる会話の内容から、飼い犬にリードを付けずに散歩させている飼い主、と勘違いされているようだ。もふもふさんが大きくて目立ってしまうぶん、非常識な飼い主だと思われてしまっている。

『なんすか』

 文月はしゃがんで「あの子たちにももふもふさんが見えているみたいだから、今ここでもふもふさんが消えたらびっくりされちゃう」ともふもふさんのその大きな耳に耳打ちした。

『ああ。そうすね。じゃあ……』

 もふもふさんはきょろきょろと辺りを見渡して、黒い鼻先で公衆トイレを指し『見えないようにするか』と、そちらに向かっていく。女の子の身体に犬が吸い込まれていく光景を子どもたちに見せない、という点はクリアできる。

「で、どうしてスポセンまで来たのよ」

『妹の環菜ちゃんがダンスクラブに入ってるって、文月のママから聞いてね。踊っている姿を見たくて』

 ようやく答えてくれた。その答えは、文月の表情をくもらせる。

「環菜は、わたしが行ったら迷惑だと思う……」

『なるほどなるほど。姉妹仲、よくないタイプか』

「仲悪いってほどじゃ、ないけど」

『オレは一人っ子だから上も下もいないんすけど、普通は兄弟が来ても迷惑にはならないんじゃないすか?』

「……だとすると、仲悪いのかも」

『まあ、オレがうまくやるんで、文月は気にせず休んでてもらって』

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