第2話

 個室の扉は案外分厚くできていて、台所で焼きそばを調理している音は入ってこない。外からの音が聞こえないということは、内側の会話が漏れ聞こえる心配もない。


「あなたは、何者?」


 勝手に上がり込んできた白い犬は、香春隆文と名乗った。犬の名前とは思えない。母親には見えていない上に、その身体もすり抜けた。


「幽霊?」

『現状、それがいちばん近いっすかね。大人には見えない、映画の――ほら、ジブリ映画の、トトロみたいな。の一種、って言ったほうが、ファンタジックでよくないすか?』

「トトロ」

『あれよりも無害で優しい存在なんで、そんなびびる必要ないすよ。びびられるほうが傷つく』

「う、うん」


 声は成人男性のものでも、見た目はもふもふの犬だ。文月と向かい合ってラグの上におすわりしている。文月は“妖精”という自称を信じて、肩の力を抜いた。


『これからオレは文月と二人で“ヒーロー”になる』

「わたしと!?」


 抜いたばかりの肩の力が再度入って、大きな声を出してしまった。ここまでの音量を出すと貫通するらしく、扉の向こう側から「どうしたのー?」と文月を心配する声がかけられる。


「なんでもない!」


 扉を少し開けて、母親に返事をして、閉じる。


「ヒーローって、それって」


 学習机の引き出しから『仮面バトラーフォワード』のA3ポスターを取り出して、ばっと広げた。これは、児童向けの月刊ヒーロー雑誌の付録だ。


「こういう感じの?」


 文月はサムライブルー色の執事バトラー『仮面バトラーフォワード』の大ファンである。三月に放送を開始して、次の日曜日に第五話が放送される。文月のおこづかいは関連グッズの購入費とされているが、のどから手が出るほどほしい変身ベルトは購入できていない。今後、おこづかいを少しずつ貯めて買う予定はある。――買ったところで、ポスターと同じく、家族に見つからない場所にしまいこんでしまうだろう。


『オレ、あんまりこういうの詳しくないっすけど、たぶんこういう感じ。この世にはびこる悪いやつらをざっくばらんにやっつける』


 隆文には一つの目的があって、血縁関係にもない鏡家の前に現れた。詳しく説明しても、今の文月には理解していただけないと感じて、一言で簡潔にまとめて“ヒーロー”になると伝えている。変身ヒーローのポスターを見せつけられたのは予想外の出来事ではあったが、そう伝えたほうが伝わりやすいのならと瞬時に切り替えた。


「お、おお? わたしは何をすればいいの?」

『文月はオレに身体を貸してくれるだけでいいんすよね』

「お?」


 犬の身体がふわりと浮かんで、文月の身体にめり込んでいく。痛みはないが、文月の意識が強制的にシャットダウンされた。


「……こんな感じか」


 文月の部屋に姿見や鏡はない。文月は手にしていたポスターを学習机の上に放り投げて、扉を開け、勇み足で洗面台へと向かった。そして自らの姿を見て、頭にオオカミの耳が一対生えていることに気付く。


「なるほどなるほど。が借りると、こうやって耳が生えてくると」


 その右耳をなでて感触を確かめて、ひくひくと動かして「こういうアクセサリーみたいなもんっすね」と自らを納得させた。人間の耳も、正しく両側にある。


「いいタイミング」


 ソースの香りにつられてダイニングへと移動すれば、母親が昼食の焼きそばを完成させたところだった。娘の中身が変わっていることに気付いていない様子で「長期休みだと、お昼のメニューが偏っちゃってよくないわね。明日から給食が始まってくれて助かるわ」と、長期休みのたびに出てくる愚痴を毎度のごとくこぼす。どうやらこの耳も、大人には見えない仕組みになっているようだ。


「わあ、美味しそう」

「そう?」


 普段と変わらない、スーパーで買ってきた蒸し麺とカット野菜をいためたものだ。手軽に作れるので、約二週間の春休み中の昼食としては九回登板している。それ以外の日はレトルトのカレーだったり、チャーハンだったりと、手間のかからない料理が多い。


「いつも作ってくれてありがとう。今度、わたしが作るね」

「え、文月が? どういう風の吹き回し?」

「そんなそんな。家族のために働いてくれているに、ちょっとでも楽をしてもらいたくて。お買い物や、お掃除、お洗濯、なんでもやるよ」


 文句も言わずに出された料理を食べて、あとはほとんど自室にこもって買ってもらったゲーム機で遊んでいる娘が、感謝の言葉を述べ、さらには家事を進んで手伝おうとしている。母親は目をぱちくりさせて、カレンダーを見た。母の日はまだ先だ。自分の誕生日でもない。


「ダメ?」

「い、いいえ。文月ちゃんがお手伝いしてくれるっていうのなら、助かるわよ?」

「さっそく今日の夕飯から作っちゃおっかな。ママ、何食べたい?」

「何食べたいって。文月ちゃん、おうちでお料理したことないじゃない」

「平気平気。今のは、とってもすごいので。……いっただきまーす」


 母親の困惑から、文月の家庭内での立ち位置を考える。この家に入る前、入った後の、母と娘のやりとり。箸の本数、茶碗の個数から、四人家族と割り出した。


「うんうん、家で作る焼きそばの味。カレー粉を入れるとさらに美味しくなりそう」

「……どうしたの文月ちゃん。さっきも、お部屋で騒いでたわよね?」

「イスの角に小指をぶつけちゃって」


 流れるようにそれっぽいウソをついておく。それから、視線を壁に向ける。


 図画工作の授業で作ったとおぼしきアートたちが飾られていた。それと、額縁に収められた賞状が壁掛け時計と同じ高さに並んでいる。しかし、鏡文月の名前のものはなく、鏡環菜と書かれているものばかりだ。去年の日付で学年は二年生と表記されているので、今年は三年生。


「環菜は?」


 六年生の文月がこの時間に帰宅しているのだから、三年生の環菜も帰宅してきていないとおかしい。文月隆文は問いかける。焼きそばは二人前しか用意されていない。


「ダンスのレッスンよ。お昼は、お友だちとコンビニに行って、買って食べるって言っていたわね。何を食べているんだか」

「ダンス……」


 賞状はダンスではなく水泳のものだ。腑に落ちない顔をして焼きそばを咀嚼していると「お友だちに誘われて、今日からダンス教室に通うようになったのよ。去年までは水泳一筋だったのにね。先週、申し込みに行ったけど、先生がみんな若くてね」と母親が解説してくれた。


「見てこようかな。どこでやっているの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る