ふしぎのオオカミちゃん!

秋乃晃

Go forward‼︎

ふしぎなオオカミとの出会い

「鏡! また来週だぜ!」

「うん……」


 かがみ文月ふづきが住んでいるのはペット禁止のマンションなのに、鏡家の前にが見えた。


「んー……?」


 頭の中はいっぱいいっぱいになっていた文月だが、異質な光景が視界に飛び込んできたので足を止めて首を傾げる。はて、建物を間違えたかしら。――いや、集合玄関のロックを家のカギでピピッと開けて入っているから、間違ってはいない。


(いや、九階だなあ)


 振り返って、階数の表示を確認する。エレベーターの違う階数のボタンを押していて、九階で降りていないのかもしれない、と疑ってみたが、ちゃんと九階だ。鏡家は九階の突き当たり、日当たり良好な角部屋。今年の一月に引っ越してきたばかりである。


 迷子の犬、だとしても、十二階建ての九階まで上がってくるだろうか。自分の家に帰りたいだけなのに、おそるおそる近付いていく。だんだんとその犬の図体の大きさが判明してきた。身長140センチメートルの文月よりも大きい。


 それだけ大きな犬を隠して育てているなんて、見上げた根性の持ち主だ。この並びの、鏡家以外の十戸のどれかに住んでいるのかと思うとなんとも言えない気持ちにさせられる。犬のほうが階数を間違えている可能性もある。いずれにせよ、ルールは守るべきだと思う。ペットに罪はない。


(うぅ……ママ、家にいるかなあ……)


 時折「すぴー」という鼻息が聞こえてくるぐらいの距離まで近付いた。丸くなって寝ている。真っ白な毛むくじゃらが、呼吸に合わせて上下していた。


 飼い主を探したいが、ごく普通の小学六年生に各部屋を訪問していくような勇気はなく、できれば大人の力を借りたい。買い物に出かけていなければ在宅であろう母親は、住居の前に犬が寝ていることに気付けていないだろう。気付いていればとっくのとうに対処している。


(むむむ)


 インターホンを押したい。


 一階の集合玄関のロックを解除できたように、センサー付きの自室のカギは持っているものの、犬の位置が邪魔でカギ穴にカギを入れられない。家の前に犬がいるのだとわかっていれば、集合玄関の段階でインターホンを鳴らして母親が家にいるかどうかを確認できたのに、もう遅い。


(そうだ)


 文月はランドセルをおろし、中から定規を取り出した。定規の長さがあれば、犬を起こすことなくインターホンを押せる。母親にドアを開けてもらって、犬の存在に気付いてもらおう。


「……どうしたの?」

「わあっ!」


 ピンポーン、と押してから、インターホン越しにではなく背後から母親の声がして、文月は驚いた。大きな声を出してしまい、犬の耳がピンと立つ。起きた。その頭を上げてこちらを見ている。


「カギ、渡しているじゃない。朝に確認したでしょう?」


 母親は『文月がカギを持っていなくて、インターホンを押して、家の中にいる人に開けてもらおうとしていた』と解釈したようだ。半ばあきれ顔で文月を諭してくる。


「あ、いや、カギは持っているけれども……」


 定規を背中に隠す。犬と目が合った。焦げ茶色の瞳で、じっと見つめられている。


「なくしたわけじゃないのね」


 、母親は上着のポケットからカギを取り出す。ドアを開けた。文月目線では、犬の身体を母親の足が貫通しているように見えている。


「こっちの家のカギは特殊だから、なくすと合いカギ作るのに一万円かかっちゃうのよね。前の家と違って。文月ちゃん、そそっかしいからなくしちゃったかと思ったわ」

「い、いや、持ってます、持ってますけれども……」


 この母親が、犬について何も触れてこない。犬は何食わぬ顔で、ドアの向こう側、文月の家の玄関に入っていき、鼻先から尻尾までをブルブルと震わせた。


「どうしたの?」

『なるほどなるほど。オレの姿は、文月にしか見えていない、と』


 男性の声だ。鏡家は四人家族で、父親は会社勤め、専業主婦の母親と、長女の文月、次女の環菜という構成である。父親は今朝、文月と環菜が登校するよりも早く家を出ていて、まだ帰ってきていない。


 つまり、真っ昼間に男性の声がするはずがないのだ。


「これからお昼作るけど、焼きそばでいいわよね?」

『見えていないってことは、オレのぶんは用意されないかな。まだ実体化できていないから、用意してもらうだけ無駄か』

「う、うん……」


 母親目線では、娘が玄関先に突っ立っているように見えている。おすわりした状態でも胸の高さに頭部のある白い犬は、見えていない。男性の声も聞こえていないようだ。


「学校からもらってきたプリント、そっちのテーブルの上に置いといて」

「うん」


 文月は思い出した。犬の登場によりいったんは埋もれてしまっていたが、犬を発見するまでは、帰りのホームルームで配られた『進路志望調査票』が悩みの種となっていたのだ。このプリントの第一希望から第三希望までを校名で埋めて、来週の月曜日までに出さなくてはいけない。


 六年生。自分の将来のことを考えなくてはならない時期になってしまった。まだ早い、と先送りにしていたら、この一年はあっという間に過ぎてしまう。


 現代の小学校はただでさえも行事が目白押しなのだ。その合間を縫って、進路担当の教員と相談したり希望の中学校の見学に行ったりしなくてはならない。


 人によっては、去年から話し合いを重ねている。文月は何も決めていなかった。学習塾に通って、塾講師からアドバイスをもらっている人もいるようだが、特にやりたい部活動があるわけでもなく、制服にもそこまで興味を示していない文月は、ぼんやりと、近くの学校に行けたらいいかなあ、なんて思っている。第三希望まで埋められない。


 四年生ぐらいから面談のたびに話題にはなっているが、母親は「文月に任せます」と答えている。任せられても、何をどう決めたらいいのやらである。


 そんなことより、犬だ。


「あの、どこの家のわんちゃんですか?」


 母親の指示通り、リビングのテーブルにプリントを置いて、手を洗い、自分の部屋に入る。犬も文月の部屋に入ってきた。引っ越してから、姉と妹とでそれぞれ個室が用意されている。


『ここの家のすよ』

(本当にしゃべっていた……)


 聞き間違えではなかった。文月は眉間に人差し指を押し当てて、考える。犬がしゃべるわけがないのにしゃべっている現実を、なんとか受け止めたい。


『オレは香春かわら隆文たかふみ――だけど、呼びやすい名前を付け直してもらってもいい。文月とは、これから長い付き合いになりそうだから』

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