第4話 その後
この銃撃戦で岡本組側から3人、矢嶋組から1人の負傷者を出したが死者はなく、突入の際に警官二人が軽傷を負った以外に野次馬にもけが人はなかった。
しかし、この事件は社会と愛媛県警に重大なインパクトを与えることになる。
白昼堂々の市内での銃撃戦は、やはりやりすぎだったのだ。
事態を重く見た愛媛県警によって、矢嶋組は組長の矢嶋長次はじめ組員のほぼ全員が逮捕され、郷田会は組長の郷田昇含む41人の逮捕者を出して、多数の銃器と弾薬が押収された。
また、かように大それた出入りを起こした矢嶋組は組員数が20人ほどで、もう一方の郷田会は、その下部団体全員を含めても50名に満たないくらいだったと言われているから、さほど大きな組織同士の抗争というわけではない。
だが、それぞれの上部団体は各地に系列団体を有する巨大組織の山口組と本多会。
両団体は後日、系列の組から松山に、それぞれ応援の組員を派遣してきた。
その内訳は、山口組が101人、本多会が44人であったが、これを予想していた愛媛県警の検問によって、両団体の応援は阻止されて抗争の拡大は防がれた。
後に、第一次松山抗争と呼ばれたこの衝突は、松山刑務所の拘置所に収容された双方の組長である矢嶋と郷田が五分の手打ちをしたために終結したが、両組織とその後ろ盾だった組織の明暗は、はっきり分かれていくことになる。
矢嶋組は組長の矢嶋長次が後に懲役7年の判決を受けて服役することになるが、六代目山口組の二次団体として令和の現在も存続。
一方の郷田会は、郷田昇が実業家に転身したために1964年のうちに解散し、郷田会のバックだった本多会も翌年1965年に解散して大日本平和会と名を変え、右翼団体として活動を続けたが勢力を縮小させ、1997年をもって解散した。
ちなみに、この抗争によってあまりにも多くの暴力団組員が拘置された松山刑務所では、1人の看守が買収されたことをきっかけに、ここの職員はチョロいと判断した組員たちが増長。
飲酒、喫煙、賭博など、やりたい放題した挙句に看守を脅してカギを奪い取って我が物顔で刑務所内を自由に歩き回り、女囚が収容されている女区に入り込んで強姦まで行った「松山刑務所事件」が起きた。
また、余談であるが、1982年に松山ホステス殺害事件を起こして時効成立直前までの約15年間逃げ回ったことで有名な福田和子はこの時同刑務所に服役中であり、強姦の被害に遭っている。
1964年・第一次松山抗争~昭和のパワフル暴力団抗争~ 44年の童貞地獄 @komaetarou
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