1日目

 ピピ、ピピ、ピピピピピピ…

 時刻は午前6時。

 アラームの音が響き渡り、もそもそと起きる。

 咄嗟にアラームを止めて時計に視線をやるとほっと息を吐いて伸びをした。

 今日も起きれた。そう、安堵した。


 「朝飯は…いいか」


 寝室を出てリビングに行き、冷蔵庫に目を向けるも食欲がわかず、目を逸らしてはクリーニングから受け取ってからそのままソファの背もたれに放置していたズボンを手に取る。

 ビニールを割いてゴミ箱に入れるでもなくソファへと放り捨てズボンを履く。次いで取り入れて畳むでもなく同じくソファに積まれた洗濯物の中から薄手の肌着とワイシャツを手に取り袖を通す。最後に足首よりやや上ぐらいまでの長さの黒の靴下を履いて身なりを整えた。彼の勤める会社では特に服装の指定はない。それでも一応はと彼はいつもワイシャツを着るようにしていた。


「形状記憶のワイシャツって本当に楽でいいよな。値段はそれなりにするけど」


 ソファに放り捨てたままのビニールゴミを拾ってから脱衣所へと行く洗面台横に置いているゴミ箱へと捨て、洗面台に向き直る。鏡を見るわけではない。洗顔と歯磨きをするためだ。


 結構なズボラである彼は、自身の性格をしっかりと把握している。

 そのため、自分の行動の導線を考え、あちらこちらにゴミ箱を置いていた。リビングや自室はもちろん、脱衣所、玄関、トイレ、廊下の一角。しかし使っているのはリビングと脱衣所が主だが、最近では食事もほぼしないこともあり脱衣所のゴミ箱ばかりが活用されている。結局のところあちこちに置きはしていても回収するのも面倒で、結果的に使う場所は限られていくのだ。


 洗顔と歯磨きを済ませると洗面台横にある洗濯機を囲うように立つ細いアルミ棚に畳んで積まれたタオルを一枚手にとって濡れた顔と手を拭き、そのまま洗濯機に入れてその場を出た。

 玄関へと行くと置きっぱなしにしていたリュックを拾い上げキートレーから鍵を手に取る。乱れて片方転げ飛んでいるスニーカーを足で手繰り寄せて履くと軽くとんとん、とつま先を床に当てて踵を合わせた。


 時刻は午前6時15分。

 バタン、ガチャガチャ。

 鍵をかけたところでリュックの小さな表ポケットに鍵を突っ込みファスナーを閉めてから背負い、まだ静かなアパートの汚れた廊下を歩く。

 彼の部屋とは反対の角部屋一室分手前にある古びた階段を降りてアパートを後にした。

 彼の家はやや閑静な住宅街の少し奥にある、築40年程度の古びた小さなアパートの一室だ。間取りは1LDK。2階の一番奥の角部屋で、家賃はややするものの駅から歩いて15分。家からは気持ち距離があるものの、駅までの間にはコンビニが一店舗と、スーパーがあり立地が良く、彼は結構気に入っていた。


 住宅街を抜けて大通りへと出ると部活の朝練があるのか高校生数人と擦れ違う。コンビニに立ち寄って眠気を覚ますためにペットボトルのコーヒーとミント味のガム、それから水を買った。コンビニ袋を手に持ったまま出勤のために駅へと向かう。

 時刻はまだ6時半を回る手前。欠伸が止まらないのは仕方のないことだ。


 駅の構内、学生やこれから会社に行くだろう人などまばらに人も増える。彼、上谷は電子時刻表も見ることもなく乗り慣れた電車が流れ込んでくるのをただホームで待つ。その間に先程購入したブラックコーヒーに口をつけた。彼がいつもペットボトルのコーヒーを選ぶのはこういう些細な合間に飲みやすいからだ。

 数口飲んだところで快速電車が到着するアナウンスが耳に届き、ペットボトルの蓋を閉めた。

 響く車輪音と風の音と同時に電車がホームへと滑り込む。それをぼんやり眺めながら停車を待つ。電車が停まりドアが開き乗り込むと席はちらほらと空いていた。

 彼は座るでもなく、ドアのすぐ横の座席隣の柱に背を預けるようにして立った。会社までは約6駅。時間にして20分程。20分あれば座りたくなる気もするが、彼はいつも立つようにしている座ると寝てしまうからだ。

 実は彼は何度か寝過ごして会社の最寄り駅を通り過ぎてしまっていた。遅刻するたびにどやされる日々が続き、座らないことに決めたのだ。それでも眠いものは眠く、立ちながらもうとうととする。しかし一駅も過ぎればそこからは通勤ラッシュ間際に差し掛かり、電車に乗り込む人もそれなりに増えて電車内も込み合ってくるため嫌でも目が覚める。

 それでも時には寝てしまうのだが。


 今日も今日とて多くの人波に流れながら出勤を果たす。会社の最寄り駅について降りる頃にはそこそこに体力が削られていた。

 ホームの階段を上がり改札を抜けて駅を出ると大通りとは反対のあまり込み合っていない道の方に抜け、人通りの少ない道をのんびりした足取りで歩き会社へと向かう。歩いて5分程して7階建ての寂れたビルが現れた。そこの6階が彼の職場だ。

 転職して7年。彼はそこで細々と毎日業務をこなしていた。


 時刻は午前7時15分。

 エレベーターで6階に上がり、カードキーをタッチしドアを開けるとまだ誰も来ていない室内に足を踏み入れ、リュックを下ろしながら自席へとついた。デスク横のチェスト一番下の引き出しのダイヤルを回して鍵を解除して開け、ノートPCを取り出した後でそこにリュックをしまった。ダイヤルは開けた時のままだ。

 静まり返る室内、彼がPCの電源を入れる音が響き、次いで起動時のファンの音。

 簡単にざっとメールの内容を確認し、重要そうなのだけマークを付けて返信していく。それが一通り終わると一つのファイルを開いた。昨夜やり残したものを朝のうちに終わらせなくてはならない。終わらなければ…。その考えが過った瞬間、自然と体が強張った。

 小さく咳払いをすることで誤魔化すがその強張りは簡単には解れてはくれなかった。


 「最近息苦しいんだよな…」


 ワイシャツのボタンを一つ緩めて喉元が楽になるようにしてみるもやはり変わらないそれに違和感と不快感を感じるが見ないふりをしてPCに向き合う。早く終わらせなくては。彼の頭の中にはそれだけが巡る。


 時刻は午前8時45分。

 出勤する人が増えてあちこちの席が埋まり朝の挨拶などでざわめき立つ。そんな中、彼に挨拶をする者は誰も居なかった。

 挨拶をしたところで返ってこないことは皆がわかっている。煩わしいと思われていることも。彼はいつも仕事に追われている。そんなイメージが周囲にはあった。


 朝の始業開始の知らせが社内に鳴り響く。この会社は長きにわたり始業開始時と定時の時間にはチャイムが鳴るようになっていた。そのチャイムが聞こえた途端、彼は一瞬より強く喉の苦しさを覚えた。


 「上谷、今日の定例の資料は。あと先方からまだ提案書が来てないって連絡があったぞ。それから昨日もらった企画書。あれは没だ。別の案を出せ」


 矢継ぎ早に告げられる仕事に上谷は言葉を詰まらせた。まずは先程仕上げたばかりの定例資料をと声をかけてきた男、北岡とその他会議に参加する数名にメールを送る。次いで先方宛に送ったはずのメールを確認した。そこにはしっかりと昨日の夕方ごろに送信した形跡があった。


 「今北岡課長宛てに定例資料送付しました。先方からとのことですが高津根様でしょうか。それであれば昨日の17時にメールで提案書と見積もりを送っていますが。企画書の件ですがもう少し明確にこういう企画の方向などはありますか?」


 会議のためにノートPCを手に持ち北岡の後ろを歩きながら説明する。その合間にもPCからは目を離さない。それに対して北岡は眉を潜めて上谷を見ると盛大にわざとらしい溜息を吐いた。


 「上谷、お前はここに入って何年だ?」


 「7年ですが…」


 「7年も居て人の指示がないと仕事もできないのか?定例資料も毎度毎度声をかけるまで送ってこない。毎週水曜日は朝一であるのわかってるよな?ならそれに間に合うように前日には用意しておくものだと思うが?それと。先方からのメールは15時には来ていた。それは確認していないのか?確認の連絡が来ているよりも遅く送っておいて送ってます、じゃないだろ。企画書も、何を求められているのかぐらい自分で考えられないのか。こんな企画を作れ、とは言ってないことぐらいわかるだろ。すでに立ち上がっているプログラムを考えればニーズに合わせた企画ぐらい考えられないでどうする」


 捲くし立てる様に声を荒げ話す北岡に上谷はPCに向けていた目線を下へと落とす。やむことなく続く責め句にただただ足元をじっと見ることで耐えた。北岡のいうことは最もだと彼も思ってはいる。いるのだが、そう言われてもという気持ちもあり素直に受け止めることも出来なくなっていた。

 ひそひそとした声が聞こえ出す。それが彼をより追い詰めていく。


『相変わらずきついな北岡さん』

『いやでも言ってること間違ってもないからなあの人』

『まーなぁ。言われる前にやれよって俺もあの人にはいつも思うわ』

『わかるわかる。仕事遅いよな上谷さんって』

『要領も悪いしな』


 そんな声が届き始めた頃には上谷はただ歯噛みをするしかなくなる。皆の目につく場所で浴びせられる説教。段々と耳鳴りがしてきて周りの声を塞いでいく。この時間さえ、彼は無駄な時間だと思っていた。説教する暇があるなら資料を確認してほしい、と。


 「北岡課長、会議始まりますよ」


 上谷の後ろから来た女性が二人に声をかけながら横を通り過ぎた。その時に小さくお辞儀をしていったのを上谷は見過ごさなかった。ちっと舌打ちが聞こえ説教の終了の合図となる。北岡は会議室へと怒り足で向かっていった。それにどこかでほっとした上谷と、ひそひそ話をやめてPCに向き直りなした社員達。上谷は気持ちが沈み込むのを見なかったふりをして会議室へと入っていった。


 時刻は午後1時。

 お昼休みの時間がきた。それでも上谷はPCを閉じる気配はない。作らなくてはならない資料が山積みになっていた。

 アニメ・漫画・映画などの様々なグッズを作成している会社の企画部で働く彼は、営業担当から届いていた見積書依頼の数と、先方への改善提案書など諸々とあり、それは企画がしないといけないのか?というような業務までこなしている。今は一つのイベントプロジェクトにあわせ提案書をまとめなくてはいけなかった。大まかな方向性をざっとまとめあげるのにも結構な時間がかかる。それらをこなし、それだけではなく商品請求書、在庫なども管理している。

 どう考えても彼一人では回せなかった。それでも、彼は人に頼らない。頼ったところで文句を言われる、投げ出されることを知っているからだ。そして最終的には彼が責められる。そのため頼む気にもなれなくなっていた。


 「上谷さん、お昼食べに行きませんか?」


 そう声を掛けたのは先程擦れ違いざまに助けてくれた若めの女性、川戸だ。彼女はここに入社して3年程ではあるが、とても優秀だと周りに言われていた。進捗系の管理をしている彼女は営業との橋渡しを主にしている。そのため上谷などとの接点もそこそこにあるのだ。

 上谷はそんな彼女が少し苦手だった。10歳も年が離れていることもあるが、それよりも北岡から何か言われるたびに彼女がフォローに入ってくるからだ。どこかで勝手な劣等感を持っていたのかもしれない。フォローをされるたびに上谷は苦しくて仕方なかった。申し訳ない。そんな気持ちと、どうせ、という気持ち。そんな思いが巡るのだ。


 「いえ、私は終わらせないといけない仕事があるので」


 「でもここ最近お昼時間、とられてませんよね?」


 「そんなことないですよ。他の人が待ってるようですよ、呼ばれてるのでは?」


 「上谷さんも一緒に…」


 「結構です」


 言葉を遮るように拒否を示した彼はそこからはもう何も口を開かなかった。そんな上谷の様子に諦めたのか、川戸は背を向けてその場を離れ、他の社員と共にお昼に出ていった。

 お昼、と言っても席で昼食をとる人もいる。そのため席で休む者、食べながら仕事をしている者などがいた。上谷はチェストの引き出しを開けて水を取り出すとそれを一気に煽るように飲むだけだ。そのあとはまたPCに向き直り仕事をこなしていた。

 上谷のタイピングはとても静かだが、その指の動きはかなり早かった。

 


 「なんで毎回あの人に声掛けるの?」


 「え?」


 会社を出てすぐの定食屋、川戸はどれを食べようかメニューを見ながら悩んでいるとそう声を掛けられて顔を上げた。一瞬なんのことかと思ったがすぐに先程のことを思い出した。

 川戸 南海(かわと みなみ)、27歳。彼女も上谷と同じく転職組だ。


 「あの人って、上谷さん?」


 「そう。毎回断られてるじゃん、しかもあの人ちょっと怖くない?周りから避けられてるし。関わらないほうがいいと思うけど」


 「怖い人じゃないよ」


 それ以上のことは答えず、相手がメニューを見ていないことを察した川戸は店員を呼び、注文を済ませる。そして店員の背を見送ると氷の入ったグラスを手にして一口だけ喉へと流し込んだ。氷が入っており冷えた水は心地良く、ほんの少し暑くなり始めてきたこの季節にはとてもおいしく感じた。

 先程の話をなかったことにするように他愛もない会話を同僚と交わしながら食事が届くのを待つが、彼女の中では燻るもやっとした感情がずっと残っていた。

 それは今朝の光景だったり、先程の同僚の言葉、上谷の様子。どこかおかしいと感じていたが、体調が悪いのであればそうしつこく声を掛けるわけにもいかないと様子を見ていた。しかしそれとは違うような、過去を彷彿とさせる様子が見え隠れしている気がしていた。


 (余計なことはすべきじゃないよね…)


 楽しいはずの同僚との会話もどこか曖昧に上滑りな返事をして昼食が終わった。

会計を済ませて外に出ると湿気と熱気が混ざり合う風が吹いており暑さを思い出す。会社へと戻る道中で川戸は同僚に声を掛けて会社の入った建物を通り過ぎたところにあるコンビニへと行くことを同僚に告げて別れた。そんな川戸の後姿を同僚は首を傾げつつも特に気にするでもなく会社に戻っていった。


 「上谷さん、これよかったらどうぞ」


 午後の開始時間少し前、ひたすら仕事に熱中していた上谷のデスクの上に置かれたのど飴とビタミンが含まれたドリンクが置かれる。

上谷は手を止めざるを得なくなったことに一瞬唇を引き結ぶ。そして置かれた飴とビタミンドリンクを見て今朝型の喉の違和感を思い出した。必死にキーボードで文字を打ち込んでいた手を離すとチェスターの一番下の引き出しを開けてリュックから財布を取り出す。そして500円を彼女、川戸に差し出した。


 「ありがとうございます、代わりに買ってきてもらって助かりました」


 「え、お金は要らないです」


 「いえ、受け取ってくれないと困るので」


 「でも…」


 川戸がお金を返そうとしたところで午後の業務の開始時間となり他の社員も皆席へと着いていた。そして上谷はPCを持って席を立つ。そしてのど飴をポケットにねじ込んではビタミンドリンクを引き出しに入れてから鍵を掛けて席を離れた。それに川戸は何も言えなくなり大人しくお金を受け取ることにして自席へと戻るしかなかった。

 川戸が席に着いた辺りで聞こえたひそひそ声に彼女ははっとする。

 それは先程のやりとりで川戸が上谷に使いを頼まれたのだというもので、そこから悪口が広がっていった。川戸はしまったと思っていた。同時に先程の上谷の態度に納得をした。

 彼はわかっていたのだ。何も言わずに受け取れば川戸と上谷のことで意味が分からない噂が立つことが。だからお金を払うことで上谷が最初から頼んだのだと見せた。

 そんな簡単に噂など立たない。そんなに人は誰かを見ていない。そう感じるがここではそうではなかった。そのことを川戸は思い知った。


 「上谷、お前この資料明日の午前で使うって言ったの忘れてないだろうな」


 「聞いてませんが…」


 「今朝の定例で言っただろ。話聞いてなかったのか。何のためにお前は会議に出ているんだ。タスクも管理できないなんてどういう仕事の仕方してるんだ」


 「すみません」


 時刻は午後3時。

 会議が終わり北岡の後ろを歩きながら小さな声で謝罪を告げる上谷の姿があった。それに対し今朝型同様文句を口にする上司、北岡。これも最早当たり前の光景と化し始めている。会議がある度に上谷が北岡になんかしらの小言をずっと言われ続けている。そのせいか周りはまた上谷が何かやらかしたのかと思う。そして馬鹿にする。仕事が出来ないから怒られるのだと。

 

 「北岡課長、今朝の定例でその話は出ていなかったと思いますが。そこに進展があったのならば新たに素材取り寄せ依頼するので確認ですが、企画が進むことが確定したということでよろしいでしょうか?」


 丁度近くで他に業務の確認をしていた川戸が北岡に声を掛けた。純粋に進捗があったのであれば次の工程に進まなくてはという質問だったのだが、上谷はタイミングの悪さを感じてしまった。案の定、というところで北岡は上谷に言い放った。


 「上谷、やっぱり今日中に資料と必要な発注数をまとめとけ。明日の9時には川戸が動けるようにしておけよ」


 ああ、やっぱり。と上谷は思った。これも毎度のやり取りで、当たり前になってきている。苦いものが喉元に込み上げてくる。呼吸の仕方を忘れたかのような苦しさが襲う。それでもなんとか返事をしようと口を開いたが音にならず、ひゅ、と小さな息の音だけが微かに漏れた。それに川戸も北岡も気付かず、上谷を取り残すように時間は進んでいった。


 時刻は午後6時。

 皆が定時になり上がっていく頃、上谷は背中を丸めるようにしてファイリングされた書類を手早く捲っていく。パラパラと紙を捲っていき、途中で何を見つけては打ち込んでいくのを繰り返していて一向に帰る様子を見せない。

 川戸が立ち上がりバッグを手に取ったところでそれに気付いて上谷を見た。そして辺りを確認する。ちらほら人はいるが、近くにはいない。そしてバッグを置きなおして上谷のそばに行くと小声で声を掛けた。


 「上谷さん、何かお手伝いできることありますか?」


 「話しかけないでください」


 冷たく言い放たれた言葉。川戸は一瞬かちん、と苛立ちを感じた。しかし上谷の手元にあるファイリングされた資料を見て気付く。発注書の束が纏められたそのファイルは上谷が使うことはない。むしろ川戸がよく使っているものだった。それだけで川戸は何かを察し、失礼とはわかっていたが上谷のPCの画面をちらちらと盗み見る。


 「なんで上谷さんが発注管理をしてるんですか?在庫あわないものありましたか?発注管理は企画の管轄じゃないと思うんですが。むしろそれは私の仕事かと…」


 「課長が言っていたじゃないですか。発注数をまとめてけ、と。君が動けるようにしておけ」


 それだけで川戸は理解してしまった。つまり、川戸は上谷が作り上げたものを先方にメールで添付するだけでいい。そう言われたのだと。しかし上谷は発注までには関わったことがない。だから過去資料からどこが何の素材を扱っているのか、どこに依頼かけているのかを確認していたのだと分かった。それだけですぐにあの時の発言が失言だったのだと分かったのだ。


 「申し訳ありません、私のせいで」


 「構わないから、さっさと帰ってもらえる?集中したいんだ」


 上谷はこの仕事を終えた後もまだやらなくてはならないことがある。人と話す時間がとても惜しかった。冷たく感じる言葉ではあったが、川戸からすれば自分のせいと分かっている以上何も言えずお辞儀だけして自席からバッグを取り急ぎ足で帰っていった。

 本来ならば川戸がやるほうがずっと早く、手伝えるものだが手伝えばどうなるかなんて彼女もわかっていたのだ。だから何も言わずにその場は任せて帰るしかできなかった。


 時刻は午後11時半。

 上谷は何とか必要なことを終えると手を組んで上に伸ばし丸まった背中をほぐしては背もたれへと体を預ける。誰も居ない室内。ただ椅子の音だけがギシ、と響く。

 そんな中で感じた眩暈。いきなり伸びをしたせいだと考え一旦は大人しくその場をやり過ごす。しかしそれは落ち着くのに時間を要した。暫くして漸くと落ち着いた眩暈に安堵をしてはチェストの引き出しを開けてリュックを出し、代わりにPCをそこへしまった。ダイヤル式の鍵を掛けて席を立つ。リュックを背負おうとしたところでビタミンドリンクのことを思い出した上谷は、それを開けて一気に飲み干した。

 酸っぱさが胃に刺激を与えたが、空腹状態だった上谷はそれでお腹が満たされたような感覚がした。


 「と、終電」


 時間に気が付いて少し慌てて会社を後にする。戸締りは勿論忘れない。

 早足で、と思ったが足に力が入らないことに気付いた。それもそのはずだ。この数日、まともに食事をとっていない。水分もそこそこだった。それでも彼自身はそのことに気付かない。足に力が入らないのを叱咤するようにしてどうにか駅まで辿り着く。

 5分の距離のはずなのに、30分の道のりを歩いたのではというぐらいに足が重かった。それは自宅に向かう最寄駅から家までの道のりも同じで、酷く足取りが重く苦しかった。


 「やっぱ風邪かな…。今日は帰ったら風呂はやめてさっさと寝るか」


 閉まったスーパー。その隣でさもうちなら24時間だぞと言わんばかりに明かりを灯すコンビニ。風邪薬、と考えた上谷だがコンビニに売っているわけもないと頭を軽く振って通り過ぎた。


 ガチャガチャ、バタン。

 どうにか階段をあがって家の前に着くころには鍵を開けるのも億劫なほどに足だけではなく体全体に重みを感じていた。それでも鍵を開けて家の中に入る。鍵を掛けなおしたところで玄関に座り込んだ。靴を脱ぎ棄ててせめて、と廊下に上がるがそこからはどうにも動けなかった。そのまま沈む意識。彼はピークに達した眠気に抗うのをやめ意識を手放した。

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けれど大きな澱となる。 アメノチハレ @amekochihare_no

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