檸檬
犀川 よう
🍋
わたしが十歳の頃、離婚が決まって家を出ていく母に、「唐揚げに檸檬をかけない男はやめときなさい」と言われた。母についていく妹は、「オネーチャンが檸檬をかけた唐揚げが大好きだった」と泣きながら笑顔で言ってくれた。母やわたしが唐揚げに檸檬をかける度に、怒鳴り、時には手を出してきた父は、最後の見送りであるこの日も書斎に籠っていて、そこから米津玄師の曲が漏れ聴こえていた。タイトルは言わずもがなだ。
二人はわたしを置いて家を出た。わたしは「わたしを連れていって」と何度も叫びたい気持ちを抑えていた。今まで専業主婦だった母には妹すら養うのは大変だろうと、子供ながらに思っていたからだ。
出来るだけ二人を笑顔を作って見送った後、キッチンの冷蔵の野菜室を開けた。国産で緑色の檸檬が数個入っていて、わたしは両手に二つ持ってから、書斎を開け、父に「どうして唐揚げには檸檬が一番だと、わからないのよ!」と先程まで出せなかった大声で叫びながら、全力で檸檬を父に投げつけた。ひとつの檸檬は明後日の方向に飛んでいき、もうひとつの檸檬は父の頭に見事に命中した。ストゼロのレモンを飲んでいた父はそのまま床に倒れ、ストゼロの缶も父に寄り添うように横になり、カーペットのシミを作っていった。そのシミは、父同様、唐揚げに檸檬をかけないアイジンを作った父への、わたしの怒りと嘆きの涙であった。
アイジンとやらが新しい母親となり、野菜室には檸檬が入ることはなかった。わたしは地元のスーパーマルゼンでお小遣いから檸檬を買うと、ひっそりと部屋に隠した。この家ではわたしと同じくらいに檸檬は邪魔者であった。新しい母親は料理は普通にできるようで、唐揚げも自分で作っていた。もちろん、檸檬をかけることはご法度であった。
だが、わたしも反抗期になり、夕食が唐揚げの日には隠し持ったカット檸檬をかけるようになった。わたしの初めての反抗に、新しい母親は金切り声を上げながら、急いで唐揚げを洗い出した。父からは「何をするんだ!」とお決まりのような怒声とビンタ。わたしはジンジンと痛む頬を手で触りながらも、檸檬の切れ端を父の口に入れ、洗っている唐揚げを取り上げて一緒に放り込んだ。
「これが本当の唐揚げなの! アンタは、何もわかっちゃいない! だから、お母さんに捨てられたんだ!」
わたしは泣きながらも、この世の悪意と憎しみをかき集めた感情を父にぶつけ、唐揚げと檸檬をねじ込んでいった。そのまま爆発してしまえ! そんな気持ちだけがわたしを突き動かしていた。
そんな不良娘であったが、父はわたしを大学に行かせてくれた。愛情なのか世間体なのかはわからない。高校を卒業して実家を出てアルバイトをしながら大学に通うことになった。
スーパーマルゼンでのレジ打ちから始め、色々とアルバイトをして生計を立てていった。学業とアルバイトのほんの少しだけの隙間に恋愛らしいこともしてみた。最初の彼氏は唐揚げに檸檬をかける人だった。しかしながら彼は自分で檸檬をかけたい人で、その権限をわたしに譲る事はなかった。別れることになった日、彼の部屋で、「わたしも自分の檸檬をかけたいの。好きな人にも自分でかけてあげたいの」と言った。彼はその一言ですべてが冷めてしまったらしく、ほのかに檸檬の味がするスキンを投げつけてから、「冷めた唐揚げに用はない」と言い放った。わたしはそれを至極当然だと思えた。檸檬は自分でかけなければならないと思って生きてきた彼の育ちは、けっして間違ってはいないからだ。
二十歳になると、家庭教師と居酒屋でアルバイトをすることになった。教え子は高校生で檸檬のような形の頭をしているまだあどけない男子だった。若さに溢れた彼は唐揚げにはマヨネーズをかける人で、ご相伴に預かった夕食では唐揚げよりも多い量のマヨネーズをかけていた。わたしはマヨネーズの海に沈む唐揚げを見て、不憫な気持ちになりながら、自前の檸檬をかけた。教え子の母親は「わたしの料理、そのままではおいしくないですか?」と自分の息子ことなどお構いなく、嫌味な笑顔で問うてきた。わたしは「すみません」とだけ言うと、唐揚げに檸檬をたっぷりかけて食べた。その夜、わたしは教え子の母親に対する腹いせとして、彼の初めてを奪ってやった。品質的に大丈夫か心配だったが、あの檸檬スキンを使って、お宅の大事な檸檬坊やを、ひとつ上の男にしてやったのだ。
さしたる時給でもない居酒屋を選んだのには理由がある。わたしはこれまでずっと、母のような唐揚げに檸檬をかけない男に不幸にされる女性を見たくなかった。お互いが檸檬をかけないのであれば、それはそれでいい。だが、男によって檸檬をかけられない女性が存在せざるを得ないのは許せなかった。だから、当時のわたしができることは、バイト先の居酒屋で女性が檸檬をかけられないハラスメントを阻止する事。そして、男に対して女性は檸檬をかける自由と権利があることを啓蒙することであると確信していたのだ。
この日の借り切り予約は大学サークルの飲み会であった。わたしと変わらないくらいの男女が楽しそうに飲んだり食べたりしている。そんな中、いよいよ唐揚げが登場するタイミングになった。わたしはスーパーマルゼンで仕入れた檸檬を大量にカットして、一緒にサーブした。――さぁ、これで存分に檸檬を絞って下さい――。わたしは女子グループにひっそりとそう声をかけた。案の定、女子たちはポカーンとしている。それでもいい。何事も黎明期は戸惑いと無関心から始まるものだ。貴女たちもきっと時代のパイオニアなのだ。
「うぇーい。〇〇ちゃん、唐揚げに檸檬をかけてくれる?」
いかにもチャラそうな男が女子グループの一人の子に声をかけた。彼女はハッとなってわたしから、カット檸檬の容器を受け取った。
「それで、かけるときは、『おいしくなーれ、もえもえキューン🍋』って言ってくれよな!」
男子グループからはオスの色めきだった声とスケベな表情。女子たちからは、ドン引いた声とその表情。
「じゃ、じゃあ、えっと。おいしくなー」
なんとか空気を読もうとする〇〇ちゃんに、最後まで言わせなかった。わたしはカット檸檬をチャラ男の目に向けて絞った。悶絶するチャラ男。かけていた女子は唖然としながらも小さな声で「あ、ありがとうございます」と、果汁がなくなった檸檬をさらに絞り出すような苦い表情を浮かべながら礼を言ってくれた。チー牛男子が檸檬のかかっている部分を舐めるように唐揚げを食べていたので引っ叩いた。当然、店の中は騒然としたが、わたしは毅然と、十皿近くある唐揚げのさらに、ひとつひとつ檸檬をかけていった。「おいしくなーれ」と言いながら。その光景に喜ぶ者。唖然とする者。わたしの後ろをついてきて、檸檬がかかった部分を舐めるように食べていくチー牛男子。電話がきたフリをしてスマホを取り出しながら店から出て行く者。飛び散る檸檬の果汁のように、バラバラな動きをしていた。みんな、檸檬を中心とした反応だった。世界がカット檸檬の皮のように収縮され果汁のように解き放たれていた。屈折して、輝かしい光景だった。
わたしはその居酒屋をクビになったが、他の居酒屋でもバイトで出禁になるのも構うことなく、檸檬をかけ続けた。女子が男子に女アピールするための檸檬をかける行為を諫め、男子が女子に可愛らしさを強要することも咎め、ただ、平穏と安らぎのために女性が好きに檸檬をかける自由を守ろうと頑張った。飛び出していく檸檬の果汁は絶望の爆発ではなく、希望と安寧の散華でなければならないのだ。わたしは大学を卒業するまで、何件もの居酒屋をクビになりながら、檸檬をかけられない女性という悲劇を阻止しようと頑張ってきた。
だが、人の世には終わりがあるように、わたしのそんな努力も終焉を迎える日が来た。瀬戸内海に面する畑で、高級な檸檬を作っている老夫婦がバイト先の居酒屋にやってきたのだ。わたしは悦びで胸が躍るのを必死で抑えながら、おみやげとして持ってきてくれた檸檬を唐揚げにかけようとした。すると、今まで虫も殺さないような穏やかな老夫婦が一瞬で鬼のような顔になり、檸檬ではなく、唾を吐き出しながら怒鳴り散らしてきた。
「そんなもんに、ウチの檸檬をかけるんじゃねえ!」
檸檬 犀川 よう @eowpihrfoiw
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