第6話

 広場を見つけ、顎の力を抜く。だらりと収穫物を置く。


 よく見ると熊は傷だらけであった。これの毛皮は高値で売れない確定した今、金欲よりも食欲が勝る。


 皮剥ぎもせずに、獣の姿のまま熊の腕を食らう。


 血抜きでもすれば、生肉も多少マシになるのだが、慣れてしまったので大丈夫だ。前世ではユッケも刺身も無理だったが、人間慣れるものだ。

 

 肉に噛り付く。 


 臓物だけは恐らく綺麗なので売れる。そこだけは注意しなければならない。大胆に一噛み、二噛みと進めていくが、四噛みもすればその顎は止まった。


 彼は違和感を感じた。生肉が不味いことに変わりはない。


 だがそれとは違う。


 明確な違和感が彼を襲っていた。瞬時に、彼は己を俯瞰する。即座に、理解した。己が不快楽に襲われていることに。


 空腹による嫌悪感、飯に有り付ける幸福感、そのいずれも違うことなどすぐにわかった。感情が入り乱れている。


 あり得ない状況だ。視界が回るような眩暈がする、だというのに昼寝起きのように脳がスッキリとしている。じっとすることを体がイラつくのに、動くことを脳が拒否している。そんな状態だった。


 戸惑い止まる中、彼の鼻に届いた。目の前のそれから血肉に隠れた僅かな匂いが、血肉ではない何かが、匂う事に。


 前世を生きた彼は瞬時にこう、思った。


 薬を盛ったな、と。


 当然、良い薬などではない。薬物と総括され、人体に多大な影響をもたらす薬だ。それが彼の脳裏に過った。そして流れるように、別の場所の方へこの薬と命名した匂いがすることに気が付いた。

 それと同時に、自分が怒っていることに気が付いた。

 

 その怒りが何なのか、彼自身わからない。飯が全て台無しにされたことなのか、薬に侵されていた獣に対する同情的な何かなのか、何かしらの陰謀に巻き込まれたことなのか、それとも理不尽に対してか。


 今は、そこにまで思考が回っていない。


 彼は感情のままに吠えた。顎が外れるほど大きく、喉が枯れるほど長く、息が更に吐き出せぬほど広く。


 理性をかなぐり捨て、ただひたすらに吠えた。空気が振動するのが感じる。木の葉が揺れ落ちるのが感じる。雲までもが揺れているような気がした。


 その時、彼は理解していないが、彼の肉体は更なる変化を迎えていた。

 彼の一房の尻尾が根元から9つに裂ける。夜よりも暗い瞳が白銀に染まり、瞳の間に黄金が満ちた。まるでそれ一つ一つが生き物のように揺れ動く毛先がほのかに蒼を放つようになる。


 彼は今日、誠の獣の境地へと至った。彼はまだ知らぬが、太古の戦乱の時代、古の獣達が至った水準にまで変容した。


 だが彼はそれを知らない。そして気にできない。


 あるのは、匂いがする方向への鋭い眼光、そして怒りだ。


 強引に体を動かす。怒りに身を任せ、激怒に脳を支配させ、憤怒で四肢を突き動かす。

 彼は跳ぶ、いや飛んだ。人知を越え空間を蹴り、音を置き去りにする。

 

 高速に動く視界の中、彼は見えた。


 匂いの流れが土の中、小動物がギリギリと通れそうなほどの穴の先からするのが。


 彼は地面に突撃す。尻尾を突き立て、地面を抉り飛ばす。そして中に入り込んだ。

 そこからは一瞬だった。


 彼が認識する頃には、全てが破壊されていた。文明の跡が土へと還る。人すらも土へと還りかけていた。


 彼は体に付着した土を払い捨てる。


 そうしていると、彼の鼻は感じた。倒れている人の匂いが、何処かに続くことに。

 彼は相も変わらぬ怒りのまま、何かに駆り出されるように動きだした。


 彼は森林区を抜けた。そして最終的に、近場の町へと突貫した。


 木も壁も家も、全ての障害物を破壊しながら突き進む。そうしてたどり着いたのは地下へと続く石造りの階段だった。迷うことなく進撃す。


 全てを破壊していった。見た事がない機械も、液体が入った何かも、隠された強靭な扉も、書物も、その石造りの空間さえも壊していった。


 だけども彼は傷つかない。彼の体毛はあらゆる攻撃を逸らし、防ぎ、叩き潰す。


 そのはずだった。だが彼は傷ついた。


 空が見える。地に潜ったはずだというのに、彼の瞼には夜空が見えた。とても不思議な光景に一瞬、ほんの一瞬だけ全てを忘れていた。だがその一瞬は強引に引きはがされる。


 何かが、頬を引き裂いた。


 久方ぶりの痛みに、彼の動きが更に止まる。そこに雪崩れ込むように、嵐が飛びこんできた。彼は避ける。だが避け切れなかった。目新しい傷を幾つも増やす。そうしながら、尻尾で己を守る。


 いつしか、嵐も止んだ。彼は警戒しつつ尻尾を退かす。そして天を見上げた。


 何年ぶりだろうか、体毛に己の血を滲み込ませながら、敵を睨み付けるのは。


「警察だ!無駄な抵抗は辞めて服従しろッ!!」


 それは真っ白い狼だった。当然人よりも大きく、人の言葉を話す、彼と同じ存在だった。

 空に浮かび、こちらに牙を向ける。


 紛うことなき敵だった。


「グルルッ」


 自然と唸り声が出た。


 それは神獣大戦。過去、数える程しかない神獣同士の争いが、今始まろうとしていた。


・・・・


 それは一瞬だった。


 爆発音のような轟音が響いた。異常事態に、彼女は建物を飛び出る。瞬時に神獣化した。そして空を飛んだ。


 そこで目にしたのは常軌を逸した光景だった。


 壁が瓦礫と化し雨となり、家屋を吹き飛ばしていった。それはある程度で止まり、まるで隕石が落ちたかのように穴が生まれていた。周囲の見通しが酷く良くなっていた。


 その穴の中心に居たのは一匹の獣であった。


 息を呑む。

 一目でわかった。目の前の存在が己と同じ、神獣だと。


 脳が迷う。見た事のない神獣に、何をすべきか考え込む。だが刻一刻と時は進む。


 最終的に彼女は先制攻撃を選んだ。この光景を見て、友好的とは思えなかった。そして目の前の神獣はこちらに気が付いていない今が最大のチャンスだった。威圧の意味も込め、大きな一撃を叩き込んだ。


 だが、それは軽々と避けられた。その毛並みを赤黒く染めるが、何も感じさせぬ立ち振る舞いだった。


 土埃が沈殿す。そこに現れたのは迷いのない眼だった。


 それが唸ねる。もはや和解の道はない。覚悟を決め、自然を動かし始めた。


・・・・


 彼らの一挙手一投足に瓦礫が舞う。被害を拡大しながら、争っていた。


 白狼は早かった。彼がその動きを認識で来ていても、矛先は届かない。白狼が風を使い距離を操るのに対し、彼は己の肉体一つしかない。


 なんとも苛立だしい状況が続く。


 苛立だしいのはそれだけではない。

 彼もただ白狼に翻弄されている訳ではない。実力は最低でも拮抗している。だからこそ、偶に彼の刃は届きそうになる。

 だがその度に、彼の鼻には届くのだ。周囲から漂う薬の匂いが遮られ、白狼の方から芳醇な自然の香りが。


 それに彼の戦意が揺れる。

 匂いとは、その存在そのものだ。それが良ければ良いものであり、悪ければ悪いもの。本能的に下に居たやつらとは違うと脳が理解する。だが、白狼は攻撃をしてくる。脳が混乱していた。


 それをきっかけにしてか、なぜ闘っているのかもわからなくなる。腹は空いている。だが獲物の取り合いをしているという訳ではない。目の前の存在が肉々しい訳でもない。目の前にあるのは敵のみ。だが敵ではない。


 脳がフル回転する。だが正常な判決が、明確な決断ができない。

 矛先に迷いが生まれる。その度に傷が増えていく。もう何もわからなかった。


 確かなのは、血の匂いが濃くなる。体が少しずつ、思うように動かなくなっていた。


 ふとした瞬間思い出す。今の状況が、初めての状況に似ていると。

 

 極度の疲労なのか脳の回転が遅くなる。世界が遅くなるのと同時に、なぜか目の前の光景が重なっていった。


 建物に遮られ、ずっとずっと奥に太陽の成れの果てしか見ることが出来ない場所で、汚く、散らかっておきながら何もないこの場所で、全てから目を逸らし、無い物ねだりした黒歴史。


 同族などおらぬ。仲間など存在せぬ。己は一人だ。ああ、独りだ。

 

 感情が溢れ出してくる。それが混ざりごちゃごちゃになる。彼の動きが杜撰になる。その隙を逃す神獣などいない。


 風に、全てが引き裂かれる。


 彼は跳びながら、己の尻尾が何本か吹き飛ぶのが見えた。痛みすら感じない。何も感じなかった。


 そのまま地に伏せる。どろりとしたものが毛を濡らす。まるで粘膜のように纏わりつく。脚を動かす気に慣れず、ただ尻尾を動かし、風を防いだ。


 縦横無尽に飛び廻り続ける白狼に尻尾を合わせ続ける。

  

 なぜだろうか、気力も何もないというのに、脳みそはずっと澄み渡っていた。まるで映像でも見ているかのよう。無意識に尻尾が動く。


 目の前の光景が、現実と認識不可能になりかける最中、彼に届いた。

 ある者にとっては不幸で、ある者にとっては奇妙で、ある者達にとって最悪で、彼を包み込む血の匂いが切り刻まれる。


 ただ怒りしか感じぬ薬の匂いが鼻の奥に突き刺さる。彼は覚えていた。憤怒を。


 思考は無い。ただ結果だけが残される。


 地面に矛先を突き立てる。無我夢中で地面を抉る。ただ一つに囚われ、何一つとして影響されることなく、地面を抉る。だが、幾ら抉ろうとも何も出てこない。

 まるで存在そのモノが不快なモノに見えた。


 ゆっくりと、立ち止まる。纏わりつくものが消え、周囲をよく感じ取れた。

 

 瓦礫、悲鳴、泣声、怒鳴り声、風音、熱気、よくわからない存在、そして匂い。


 痛いほどに、心が掻き混ぜられる。全てが不快に思えた。


 あぁ、やっと感情が一つに纏まった。


 唯一マシな所へと跳ぶ。空へと舞う。そして離れる。ただ、ひたすらにその場から離れた。変な感情が生まれるよりも早く、ずっと早く、どこまでも。



 彼の動きが止まるのは、完全に気を失うのとほぼ同時だった。


 脚から力が抜けていく。推進力が無くなる。空高く飛んでいた彼は、自然と墜落していった。

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獣人の国 庭顔宅 @tomaranaize

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