第5話

「はぁッ…、はぁッ…、」


 荒い呼吸がする。


「止まるなッ!進めッ!!」


 それ以上に荒く、大きな声がする。それに木霊する様に、荒く、大きな声が一つ増えた。


「わかってらッ!!」


 2人は進む。視界の悪い森林の中、更に夕日が落ち、完全に夜になった現在。彼らはそれぞれ些細な傷に血を作っていながら全力疾走だった。片方は怪我を負い、慣れない3足歩行になりながら、もう片方がそれをサポートしながら突き進む。


「グオォーッ」


 低くて重厚で獰猛な獣の吠え。だが二人が音のする方を向くことは無かった。

 なぜなら、それは既に何度も聞いた音であり、後ろから聞こえるてくるからだ。


「ブオォーッ」


 今度は吠えに合わさり1つの鈍い音。さすれば、軽々と木が折れる。そのまま木々が吹き飛び、2つに割れる爽快な音がする。3つもすれば、5つの爪が囮になっていた彼の側を空振る。


 何度目かの命の危機を乗り越えるが、彼に喜びはない。

 なぜなら、すぐそばから命の危機は消えていないからだ。


 彼は木を足場に宙を舞い逃げる。そんな彼を獣は一筋に追う。まるで威嚇するように、また、吠えた。


「グオォーッ」


 それは焦げ茶の毛並み、太い胴に太い手足。更には真ん丸の耳。まさしく熊のようだった。体長3mほど、人よりも大きな獣であった。


 子を傷つけた訳ではない。子に近づいた訳でもない。獲物に近づいた訳でも、驚かせた訳でも縄張りに入ったわけでもない。


 それは突然、彼らの目の前に現れた。そして一瞬の暇すらなく、迷いもなくその爪を振り下ろされた。

 それに反応しきれず彼は足を負傷し、逃亡を始めた。


 目の前の獣は正しくこの森に数える程度しかない縄張りのヌシの一匹、歴戦の獣だ。脚を負傷した彼には逃げるだけで精一杯であった。それを庇う為にあえて獣に近づき、空振りを誘う激しい動きをしていた彼も余裕はなかった。


 今は、逃げ、仲間に助けを求める為だけに逃げていた。

 だが可笑しい。それなりに時間はたったはず。だというのに、これほどに異常な音を出しているというのに、誰一人として仲間は現れなかった。 


 可笑しいのはそれだけではない。さきに言う通り、目の前の獣の怒りを買う行為などしていない。だというのに、目の前の獣はこれほどまで怒り狂っている。

 明らかに異常事態だ。


 様々な状況が脳裏に走る。最悪な状況が目前へと現れる。

 

 そんな長い逃走劇の中、疲労していたのか、片足を負傷していた彼はミスを犯した。


「あっ」


 その呆気ない声と共に彼は落ちて行く。急斜面な坂を、木々が点在し危ない坂を転がり落ちる。気が付いた時には、目の前に地面の感触はなかった。

 

「カミラ!」


 もう一人が焦り跳ぶ、がもう遅い。片足を負傷した彼は、ずっと先に坂道を転がり落ちていた。


「あばばばば、あばばば、あばばばわばばばばわばば、あばばっあびゃばびゃばばっっツ、セーフ!」


 がむしゃらに動いたのが功をそうしたのか、葉っぱで服を装飾する以外の被害はなかった。彼はその場に立ち上がる。


 目の前にはつい先ほど転がり落ちた、急な坂があった。そんな危ない場所でも、木を蹴りながら素早く跳び降りてくる兎のパートナーであるメルトモと、駆け下りてくる獣の姿が見えた。


「グオォーッ」


 坂道であろうと変わらず吠える熊に、本能的に恐れる。

 まずい、と思った彼は踵を返しながら前かがみになる。そのまま3足歩行で逃げようとしたが、彼は目の前の光景に目を奪われ動けなかった。喉元を汗が流れる。


 坂道を超え、地面に着地したメルトモは、地面にしゃがみ込んでいる相方を見て、心配しながら声を掛けた。


「おい大丈…夫……か」


 が、途中で言葉が詰まる。メルトモも目の前の光景に目を奪われていた。


 それは獣であった。


 月夜に輝く漆黒の毛並み。人よりも大きな背丈に、長い尻尾が風を描く。2つの鋭い瞳が彼らを睨み付けていた。


 大きさは先ほどとの獣と同じほど、だがそれは、どの獣とも存在感が違った。格が違った。その鋭い眼差しに本能がその全てに恐れおののく。身動きができなかった。


 反射的に彼らの脳に思い浮かぶ。


 神獣。


 その力はその名に違わぬ。自然を支配し、行使する。

 雨動かし、地を慣らし、雷を纏い、空を落とす。それに対抗できる者は、同じ神獣だけだ。

 それを成すのは才能か、環境か、未だ定かにはなっていない。選ばれし者だけが成れると言われている、生ける伝説。


 この獣人の国には4人の神獣がいる。だが、その全てと違う姿。


 助かった、そう思いつくべきだったのかもしれない。だがそうとは思えなかった。


 見たことも無い神獣。そして先ほどの興奮しきった獣。

 自然と密猟者かそれに類ずるなにか何なのかと考える。少なくともこちら側の味方ようには思えなかった。


 動くべきだったのかもしれない。逃げるべきだったのかもしれない。だけども、そこへと体が、思考が動かない。静かに額に汗が流れる。


 それが地面に垂れる瞬間。背後から何かが跳んだ。


 それは先ほどまで、彼らを追いかけてきていた熊であった。その体格には似合わぬ跳躍を見せ、目の前の神獣へと襲い掛かる。まるで彼らなど存在しない者のように。

 

 それを見て達観していた。やはり目の前のそれが何かをやったのだと。


「今だ逃げるぞ」


 メルトモが静かに、だけども力強く言う。

 神獣には例え天地が倒立しようとも勝ち目はない。人の理を超える存在だ。彼らにできるのは少しでも情報を残すぐらいだった。


 幸か不幸か、先ほどまで敵であった熊が神獣の注意を引いている内に、今しかチャンスは無い。


 メルトモがカミラの手を掴む。

 立ち上がろうと体に力を入れた瞬間、目前に何かが飛んできた。それは真横へ飛んで行き、木々を押し倒しながら轟音を鳴らす。一瞬だけ見えたそれは、さきほど襲い掛かっていった熊であった。


 目線だけをその熊が飛んできた方に送る。


 目の前の神獣は、まるで火の粉でも払うようにその美しい尻尾を揺らすだけであった。


・・・


……困った。


 夜も更け、月明かりが地上を照らす頃、彼は地上に降りていた。


 その4足で地上を踏みしめる。


 そこは森だった。空から見つめれば一面に木々が生い茂る。それほどまでに広く、文明の証は存在していなかった。


 森林区。そこは彼が住む獣人の国の影響圏に数少なく、そして最も広大な自然が存在す、普通の森であった。自然派、前世で言う環境なんたらが声を上げ作られた森。ここには一つの生態系がある。


 そのような場所で行うのは、太古より存在するモノ。


 狩りだ。


 普通の獣を狩る。そして食う。


 正規の手続きを行っていない彼は、まさしく密狩。自然派の皆さんがそれを見ていらば冷え切った目をしながら殴りかかってくるだろう。だが罪悪感は全くなかった。そんなルール、しったこっちゃない。


 前世より持つ彼の信条の一つ、弱肉強食を実行していた。この獣の姿は物理法則を無視する。今までは、人の形を保つていた時は、ギリギリ理解が出来る範囲であった。だが、この4足の獣の姿は別格。


 さきのように空を飛べる。尻尾が人の姿の全力パンチの何倍以上の火力を出せる。怖い物など何もなかった。


 話は戻る。彼は森を練り歩いた。獲物を吟味する。


 鳥はいやだ。骨ばかりだ。食べられないことはないが、好んで石を食べる野郎はいない。


 魚はいやだ。とるのがめんどくさい。無駄にすばしっこく、小さい。


 そうすると、必然的に狙う獣は決まってくる。それは陸上生物だ。


 考える事でもない結果に、彼は動き続ける。音を消し、気配を消し、最大限の注意を払いながら、森を忍び回った。


……回ろうとした。


 数歩歩くとき、突然悲鳴が聞こえてきた。


 それはすぐ横から、それも上の方から。


 視線をそちらに向ける。そこには崖のように急な坂があり、そこを誰かが転がり落ちていた。


 それが地面に着地すると、元気にセーフと叫ぶ。だがその片足には擦れ凝り固まった血結晶が出来ていた。どこが無事なのかわからない。


 転がり落ちた者がこちらを振り返る。すると動きを止めた。目と目が合う。その表情はとても強張っていた。


「おい大丈…夫……か」


 一人増えた。こちらは分かりやすく兎のような白い耳がピンと生えていた。それは言葉をとぎらせ、こちらを見る。熊同様に強張っていた。チラチラと汗の光沢が見えた。


 そこで彼は思う。坂道を駆け下りる音はまだ聞こえてきている。最後の一人は誰だと、視線を固定したまま意識を向ける。そこには毛むくじゃらの毛玉が居て、こちらの方に飛び込んできていた。反射的に視線をそちらに向ける。


 それはこちらに牙を向け、爪を向け吠えている。敵意に等しい何かしか、そこにはなかった。


「ブオォーッ」


 勢いがある。このままだとぶつかる様に押しつぶされてしまいそうだ。


 それは嫌なので、尻尾で叩き返した。


 重量が軽々と吹き飛ぶ。やはり、この獣の姿は化け物だ。


 息を吐く間もなく、熊は再度襲い掛かってくる。それを尻尾でいなす、が熊の勢いが止まることは無い。恐怖も、何も感じさせずに、ただ襲い掛かってくるだけだった。


 どうしたものかと考える。


 そのサイズからして、間違いなくエリート固体。俗に言うヌシ。この森における影響力が大きいと思われる。


 彼は飯が欲しいわけで、一つの生態系をかき回したい訳ではない。


 だが熊はこちらを襲い掛かってくる。先ほどの様子を見れば、未だにしゃがみ込む2人の彼らはこの熊に襲われていたのだろう。


 つまりとばっちり。どうやら巻き込まれてしまったようだ。


 人がいる。目撃者を消す的な意味合いで、再度熊を人に擦り付けた方が良いのかもしれない。

 ここは森林区。中央区の学園に在学す俺とこの獣の姿を一瞬で結びつけることはできないかもしれないが、いずれできてしまうかもしれない。


 良い感じに熊に襲わせて口封じさせるかとも考えるが、目の前の熊は彼以外興味ないと言わんばかりに襲ってくる。


 熊はいくらでも襲い掛かってくる。いくら尻尾で叩き潰し、吹き飛ばそうとも意識を飛ばすことは無く襲ってくる。


 さて、どうしたものか。そろそろ辛い何かがある。


 彼は思う。その熊の重量は、とてもおいし、じゃなくて、とても重そうだ。最低でも腹一杯、毛皮を剥げば売れる。


 さてどうしようかと悩む。悩む間も熊は襲ってくる。まるで親の仇とでも言わんばかりに、狂気までをも感じさせる勢いで襲ってくる。


 そこで彼は考えた。


 ま、いっか、と。


 一度大きく下がる。これで熊が退いてくれたら万々歳。だが、それは叶わず吠えながら近づいてくる。


 ここまでされたら、彼も我慢する気を無くす。


 熊を引き付ける。そして上から尻尾を叩き下ろす。地面と尻尾でサンドイッチにする。

 次の瞬間には一歩踏み出し、熊のすぐそばにまで駆け寄る。そしてその首を噛み切る。暴れる熊を上から押さえつける。


 それでもなかなか止まらなかった獰猛な熊の吠えも、いつかは静かになった。


 再度首元を噛み、確実に処した後起き上がる。頬の毛並みに滴る血に、なんとも歯がゆい感覚を覚えながら未だそこに居るであろう2人に視線を送る。


 最初と変わらない。微妙にしゃがみ込んだまま、こちらを見ていた。


 どうしよう、どうしようと考えるが、彼は目の前の飯に負けた。流石に人を食う勇気も気もなにもない。そして考えた。別に学園に存在することがバレてしまってもどうにかするさ、と。なんなら正面から反抗してやるから問題ない。

 彼は熊を咥える。確かな重みが顎を襲ってくる。彼は目をキラキラと光らせた。


 意気揚々とその場を離れて行った。


 もはや隠すこともなにもない。血の匂いをだらだらさせているが、近寄ってくる獣はいなかった。近づいてくるのも数匹居たが、すぐに離れて行った。


 さすがは化け物。誰もお近づきなりたくないようだ。

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