第5話「reminiscence」

 ──家は人の気配で充ちていたが、しかし、そこには奇妙な静寂があった。それは安心するような静けさだった。


「ただいま」


 少女は扉を開け、鍵を閉めると、靴を脱いでスクールバックを肩にかけたままリビングへと向かった。影山結。それが彼女の名前だ。わたしはそれを、どこかから俯瞰していた。


「おう、おかえり、結」


 リビングには彼女の父親、信彦がいて、机の上にジオラマを広げている。それはテーマパークのようだった。


「どうしたの、それ?」


 結は物珍しそうな顔でそう問いかける。それに対し父は、


「夢の結晶だよ。遂に叶うんだ。長年の理想だった。この片田舎に、テーマパークを作るんだ。そうしてゆくゆくは全国と、世界と結びつくだろう。このニュータウンは、その玄関口になるんだ……」


 と、演説するような調子で返した。その目線は結と、その向こう側、窓から見える黒耀ニュータウンへ向いている。


 計画されたニュータウン。十全な生活を実現するためのマトリクス。それは父の半身でもあったのだろう、とふと結は思う。そして今、それは拡張されようとしている。


「ふうん……なんか分かんないけど、頑張ってね。応援してるから、これからもずっと──」


 ──だが、それは夢だ。



 ──雨音が響いている。あれからどれだけの時間が経っただろう。


「ただいま」


 傘を置き、結はスクールバックを持ったままリビングへと進んでいく。明かりのついていない廊下に、部屋に不気味さを覚えながら。


 リビングでは、父と母が椅子にすわってうなだれていた。机の上では、いつか見たジオラマがぐちゃぐちゃに壊れている。


 明らかに、それは尋常ではなかった。


「……どうしたの……?」


 怯えを隠しきれない声で、結はそう問いかけた。それに、父はうわごとのように言葉を返す。否、それは本当に返答だったのだろうか。彼の、彼らの目に、娘は写っていたのか。


「すまない……すまない、結……」


「許してね……結……これから、私たちがすることを……」


 言い、母はよろよろと椅子から立ち上がると、結の肩に手を置いた。その腕から震えが伝わり、彼女の全身から力が抜けた。参考書で膨らんだスクールバックは腕からすり抜け、フローリングに激突する。


 そこで視界は暗転する。記憶が途切れている。その風景を記憶しているものは、今はもう誰もいないのだ。


 鳴り響いている音がある。警告音。それは火災報知器の音だった──。 



「1990年代初頭。バブルの崩壊……」


 ──意識は、気付いたときには鮮明になっていた。


 わたしの言葉に頷いてから、彼女は口を開いた。


「それと、広げかけていたテーマパーク事業がぶつかってしまった。返しきれない負債を抱えた父は早々にすべてに絶望すると──一家心中をはかった」


 ぞくりとして、わたしは両手で口許を覆ってしまった。一家心中。その言葉の怜悧れいりな響きは、わたしの心の内奥を揺らした。


「練炭自殺だった。邸の中でやってしまったから、不審火で家は燃えた。消し止められた時には、私たちは既に死んでいて、後には、こうして呪詛だけが残った」


「そんな……そんなことって……」


「人の夢は、脆く、移ろいやすい。だから、普段は考えられないようになっている。その暴力的なまでの残酷さを」


 突き放すようなその言葉に、わたしはわたしの至らなさを痛感した。


「……だって、そんなの……小説の中だけの話だと……」


「そうね。関わった人は皆こうなったから」


「わたし……知らなくて……っ」


「あなたが罪悪感を覚える必要はないわ。すべてはもう終わっている。今問題にするべきなのは──あなたのことよ、芽以ちゃん」


「……え?」


 思わず間の抜けた声を出してしまい──ふと、気付く。


 辺りが明るくなっている。だがそれは、電灯が灯ったからではない。辺りは淡い、橙色の光に──夕暮れ時の光に満たされている。


 時間が逆行していた。否、元に戻った、と言った方が正しいだろうか。あるいは、時間など最初から経っていなかったのか。


「さっきの人たちも言ってたでしょ、事実はどうしようもないって。だから、選択をいつまでも保留にしておくわけにはいかない。いま・ここで決めなければならない」


「……祝福か、呪いか。──生か、死か」


 口にしてから、わたしはその言葉の重みをまざまざと実感した。衝動的な希死念慮とは違う、澄明な死と、その対岸の生。それが今、わたしの前に分岐路として、はっきりと現れている──。


「結局のところ、人生にはその二択しかない。さっき私があの人たちを止めたのは、追い詰められた状態ではそれが決められないと思ったから。追い込まれた時に人間が見せる反応は、結局のところ〝混乱〟でしかない。それは本性じゃない」


 わたしは頷いた。たぶん決然とした表情を浮かべながら。決断を下す自信は欠片もなかった。けれど、わたしの中には、確信があった。


「……今が、その時なんだね」


「選んで、芽以ちゃん」


 そう言った彼女の顔は、どこか寂しげに見えた。その口から発される言葉の一つ一つは、わたしに向いていながら、どこか、彼女自身を切り裂いているように見えたのだ。わたしは選ばなければならない。生か死か──その二択を。彼女が選べなかったその二択を。でも、結は──彼女自身は、それを望んでいないようにわたしには見えた。死神の役を、死と恨みを引き寄せる地縛神の役割を、彼女は背負いたくないのだ、と。


「……分かった」


 長い静寂を破るように、わたしはそれを口にした。


「……え?」


「あなたの気持ちは、よく分かった。ずっと──そう、会ったときからずっと、あなたはそれを望んでいた。それを訴えかけていた。わたしが気付けていなかっただけで──」


「…………」


 押し黙る結の前で、わたしは言葉を続ける。


「生きることも、死ぬことも、やっぱりわたしにはよく分からない。わたしは多分、死ぬことを望んでいたんじゃなくて、生きることを諦めていたんだ。だからそれは選択じゃない。あなたに応えることのできる言葉を、わたしは多分、持ち合わせてない」


「…………」


「でも、あなたにそんな顔をさせる選択肢なら、多分応える必要はないんだ。まだ保留でいいんだ。今はそう思う。それじゃダメかな?」


 言い、わたしは真っ直ぐに結を見据えた。黄昏たそがれの世界に佇むかそけきひと。その身体を。その全存在を。


 結はあっけにとられたような表情を徐々に綻ばせ、微笑んだ。


「──ありがとう」


 言い、結は手を差し出してきた。わたしはそれを握る。


 最初に感じたのは冷たさだった。この世ならざる冷たさ。でも、それは些事でしかなかった。彼女は今、たしかにここにいて、そしてわたしはその手を握っている。それがすべてであるように、わたしは強く感じていた。


「こちらこそ。もうちょっと、頑張ってみる」


「無理だけはしないでね。でも──頑張って」


 しばらくそうしていた後、結とわたしはほとんど同時に手を放した。それは実に小気味よい別れだった。


 わたしは後ろを向いた。時計塔に背を向け、バス停の方向に歩いて行く。振り返ることはしなかった。多分、彼女もまた、後ろを向き、あるべき場所へ、行くべき場所へ帰って行くのだろうと感じた。


 その先に何が待ち受けるのか、わたしは知らない。けれどそこに希望があることを祈りながら、わたしは今日も、一歩を踏み出す。いつか、その選択に応えるために。

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月影に融ける 城輪アズサ @wheelfort

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