第5話「reminiscence」
──家は人の気配で充ちていたが、しかし、そこには奇妙な静寂があった。それは安心するような静けさだった。
「ただいま」
少女は扉を開け、鍵を閉めると、靴を脱いでスクールバックを肩にかけたままリビングへと向かった。影山結。それが彼女の名前だ。わたしはそれを、どこかから俯瞰していた。
「おう、おかえり、結」
リビングには彼女の父親、信彦がいて、机の上にジオラマを広げている。それはテーマパークのようだった。
「どうしたの、それ?」
結は物珍しそうな顔でそう問いかける。それに対し父は、
「夢の結晶だよ。遂に叶うんだ。長年の理想だった。この片田舎に、テーマパークを作るんだ。そうしてゆくゆくは全国と、世界と結びつくだろう。このニュータウンは、その玄関口になるんだ……」
と、演説するような調子で返した。その目線は結と、その向こう側、窓から見える黒耀ニュータウンへ向いている。
計画されたニュータウン。十全な生活を実現するためのマトリクス。それは父の半身でもあったのだろう、とふと結は思う。そして今、それは拡張されようとしている。
「ふうん……なんか分かんないけど、頑張ってね。応援してるから、これからもずっと──」
──だが、それは夢だ。
◇
──雨音が響いている。あれからどれだけの時間が経っただろう。
「ただいま」
傘を置き、結はスクールバックを持ったままリビングへと進んでいく。明かりのついていない廊下に、部屋に不気味さを覚えながら。
リビングでは、父と母が椅子にすわってうなだれていた。机の上では、いつか見たジオラマがぐちゃぐちゃに壊れている。
明らかに、それは尋常ではなかった。
「……どうしたの……?」
怯えを隠しきれない声で、結はそう問いかけた。それに、父はうわごとのように言葉を返す。否、それは本当に返答だったのだろうか。彼の、彼らの目に、娘は写っていたのか。
「すまない……すまない、結……」
「許してね……結……これから、私たちがすることを……」
言い、母はよろよろと椅子から立ち上がると、結の肩に手を置いた。その腕から震えが伝わり、彼女の全身から力が抜けた。参考書で膨らんだスクールバックは腕からすり抜け、フローリングに激突する。
そこで視界は暗転する。記憶が途切れている。その風景を記憶しているものは、今はもう誰もいないのだ。
鳴り響いている音がある。警告音。それは火災報知器の音だった──。
◇
「1990年代初頭。バブルの崩壊……」
──意識は、気付いたときには鮮明になっていた。
わたしの言葉に頷いてから、彼女は口を開いた。
「それと、広げかけていたテーマパーク事業がぶつかってしまった。返しきれない負債を抱えた父は早々にすべてに絶望すると──一家心中をはかった」
ぞくりとして、わたしは両手で口許を覆ってしまった。一家心中。その言葉の
「練炭自殺だった。邸の中でやってしまったから、不審火で家は燃えた。消し止められた時には、私たちは既に死んでいて、後には、こうして呪詛だけが残った」
「そんな……そんなことって……」
「人の夢は、脆く、移ろいやすい。だから、普段は考えられないようになっている。その暴力的なまでの残酷さを」
突き放すようなその言葉に、わたしはわたしの至らなさを痛感した。
「……だって、そんなの……小説の中だけの話だと……」
「そうね。関わった人は皆こうなったから」
「わたし……知らなくて……っ」
「あなたが罪悪感を覚える必要はないわ。すべてはもう終わっている。今問題にするべきなのは──あなたのことよ、芽以ちゃん」
「……え?」
思わず間の抜けた声を出してしまい──ふと、気付く。
辺りが明るくなっている。だがそれは、電灯が灯ったからではない。辺りは淡い、橙色の光に──夕暮れ時の光に満たされている。
時間が逆行していた。否、元に戻った、と言った方が正しいだろうか。あるいは、時間など最初から経っていなかったのか。
「さっきの人たちも言ってたでしょ、事実はどうしようもないって。だから、選択をいつまでも保留にしておくわけにはいかない。いま・ここで決めなければならない」
「……祝福か、呪いか。──生か、死か」
口にしてから、わたしはその言葉の重みをまざまざと実感した。衝動的な希死念慮とは違う、澄明な死と、その対岸の生。それが今、わたしの前に分岐路として、はっきりと現れている──。
「結局のところ、人生にはその二択しかない。さっき私があの人たちを止めたのは、追い詰められた状態ではそれが決められないと思ったから。追い込まれた時に人間が見せる反応は、結局のところ〝混乱〟でしかない。それは本性じゃない」
わたしは頷いた。たぶん決然とした表情を浮かべながら。決断を下す自信は欠片もなかった。けれど、わたしの中には、確信があった。
「……今が、その時なんだね」
「選んで、芽以ちゃん」
そう言った彼女の顔は、どこか寂しげに見えた。その口から発される言葉の一つ一つは、わたしに向いていながら、どこか、彼女自身を切り裂いているように見えたのだ。わたしは選ばなければならない。生か死か──その二択を。彼女が選べなかったその二択を。でも、結は──彼女自身は、それを望んでいないようにわたしには見えた。死神の役を、死と恨みを引き寄せる地縛神の役割を、彼女は背負いたくないのだ、と。
「……分かった」
長い静寂を破るように、わたしはそれを口にした。
「……え?」
「あなたの気持ちは、よく分かった。ずっと──そう、会ったときからずっと、あなたはそれを望んでいた。それを訴えかけていた。わたしが気付けていなかっただけで──」
「…………」
押し黙る結の前で、わたしは言葉を続ける。
「生きることも、死ぬことも、やっぱりわたしにはよく分からない。わたしは多分、死ぬことを望んでいたんじゃなくて、生きることを諦めていたんだ。だからそれは選択じゃない。あなたに応えることのできる言葉を、わたしは多分、持ち合わせてない」
「…………」
「でも、あなたにそんな顔をさせる選択肢なら、多分応える必要はないんだ。まだ保留でいいんだ。今はそう思う。それじゃダメかな?」
言い、わたしは真っ直ぐに結を見据えた。
結はあっけにとられたような表情を徐々に綻ばせ、微笑んだ。
「──ありがとう」
言い、結は手を差し出してきた。わたしはそれを握る。
最初に感じたのは冷たさだった。この世ならざる冷たさ。でも、それは些事でしかなかった。彼女は今、たしかにここにいて、そしてわたしはその手を握っている。それがすべてであるように、わたしは強く感じていた。
「こちらこそ。もうちょっと、頑張ってみる」
「無理だけはしないでね。でも──頑張って」
しばらくそうしていた後、結とわたしはほとんど同時に手を放した。それは実に小気味よい別れだった。
わたしは後ろを向いた。時計塔に背を向け、バス停の方向に歩いて行く。振り返ることはしなかった。多分、彼女もまた、後ろを向き、あるべき場所へ、行くべき場所へ帰って行くのだろうと感じた。
その先に何が待ち受けるのか、わたしは知らない。けれどそこに希望があることを祈りながら、わたしは今日も、一歩を踏み出す。いつか、その選択に応えるために。
月影に融ける 城輪アズサ @wheelfort
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