第4話「melt」

 バス停付近は、流石に明るかった。街灯が整備されているからだ。


「…………」


 どうにかここまできたが、わたしはこれ以上動ける気がしなかった。くすんだ青で塗装されたベンチに、身体を投げ出すようにして腰掛けると、ぼんやりと道の向こう側を眺める。


 と、ふと、夕闇を切り裂いてバスがやってきた。古い機体だ。車体の表面に行き先が表示されていない。


 それを補うように、車内のアナウンスが聞こえてくる。


「県庁前行き、まもなく発車いたします」


「…………」


 それを聞いても、やはりわたしは立ち上がることができなかった。それを察知したのだろう。運転手はこちらを一瞥すると、すぐに進行方向に視線を戻した。空圧ドアの音が響き、目の前でバスが発車する。


 そうして、暗くなった街には、わたしだけが残された。


「……これから、どうしようか……」


 呟き、いっそう深くベンチに身体を埋め──ふと、わたしは耳朶を打った大音響に飛び上がった。


 それは鐘の音だった。くらくなった街に、鐘の鳴る音が響き渡っている。それは恐ろしく不気味な音だった。わたしは咄嗟に身体をかき抱いてしまった。


「なに……この音……」


 音はだんだんと大きくなっていく。それはどこか祭り囃子の太鼓に似ていた。その音が頂点に達した時──ふと、街に光が充ちた。


 それは蒼色の光だった。蒼の街灯は犯罪の抑止のために使われると聞いたことがある。網膜から脳を侵すシグナル。しかしそうした意図は、今のわたしには何ら効果をおよぼさなかった。


 一斉に街灯が点く、というのは、普通ではあり得ないことだ。おまけに、今ここでわたしは一人だった。恐怖を感じないわけがない。


 反射的に、わたしはその場から離れた。道を渡り、シャッターの降りた店と店の間の道を抜けようとし──ふと、振り返った。


 ──それで、目が合う。


 中年の男たち。彼らは一様に、虚ろな目をしていた。一瞬、その黒々とした塊が、人間のものだと思えないほどに。それは皮蛋ピータンのような、およそ人の身体には相応しくない存在感をもってそこにあった。


 否、「目が合う」と言ったが、多分それは表現としては適切ではないのだろう。それは一方的なものだったからだ。わたしはたしかに、彼らの「目」を見つめていた。けれど、相手の「目」はこちらに向いてながら、視線は絶対に、こちらには向いていなかったはずだからだ。


 彼らはただ、歩いて行く。その足取りはフラついていながら、正確だ。彷徨っているようには見えない。そこには確かな目的が感じられた。


 ふとわたしは、その進行方向には時計塔があったことを思い出した。


 ──そこに行けば、なにかがあるのか。


「…………」


 わたしは小道から出た。そして、歩き出す。彼らと同じ方向へと。



 時計塔周辺は異様な雰囲気に包まれていた。


 そこでは、塔を中心に蒼色の光が立ち上っている。ライトアップ、というにはあまりに不気味なそれは、町中に充ちている光と同じもののようだった。


 そこに向かって町民とおぼしき人たちが歩いて行く。彼らは一様に押し黙っており、それはまるで、人形か何かのように見える。あるいは、葬列に。


 男女比はある程度保たれており、統一感のない構成ではあったが、一つはっきりと言えることは、そこには子どもがいない、ということだった。


 ふと、わたしはその人たちの中央に、一人の男が立っているのを見た。のり付けの施されたスーツに整えられた髪。それが町長だと、瞬時にわたしは悟る。──と、ふと、彼は無機質な表情のまま、口を開いた。


「君、こちらへ」


 それで、その場の人間が一斉にこちらを向いた。


 それは実に迅速で、また鋭い反応だったが、しかし、その目に宿っているものは先刻と何ら変わりの無いものだった。その目には何も移っていない。虚無だ。だが「目」のもつ威圧感に、わたしは気圧されてしまった。


「…………!」


 わたしは。否、わたしの身体は、気付いたときにはふらふらと時計塔の方向へ向かっていた。


 一歩ごとに自分がゆるやかにほどけて、消えてなくなってしまうかのような錯覚に、ふとわたしは襲われた。視界が霞んでいく。微睡みのような、この状況にはまったく相応しくないどこか安らかな感覚が全身を支配していくのに、わたしは抗えない。


 そうこうしているうちに、時計塔の下まで移動していたようだった。町民たちは、距離感を保ったままわたしを取り囲んでいる。


「君も、我々と同じだ」


 ふと放たれた言葉で、僅かにその感覚は和らいだ。それでなんとか、わたしは口を開くことができた。


「な、に……を……」


「ここにいるのは、深い傷を負ったものたちだ。澱のように日々この世界に積もっていく不幸の残滓ざんし、残響──そうしたすべての、嘆きそのものだ」


 意識の混濁とは裏腹に、言葉それ自体はすんなりとわたしの中に浸透してきた。それは奇妙な感覚だった。自分も、自分を取り囲む人々も、この矮小で不出来な身体から抜け出して、心だけになったかのようだった。わたしたちはむき出しの言葉で、むき出しの心で向き合っていた。


「君はどうなんだ?」


 その言葉は、厭にはっきりと耳朶を打った。


「わたしが……なんだって……」


「この世界に、嫌気がさしているんだろう? 傷が、痛みが、蛇のように全身を這い回る──そんな感覚に襲われることはないか?」


「……それは……それは、違う……」


 言ってから、その言葉が反駁はんばくとして成り立っていないことに気付いた。それはもはや外に向かって開かれた言葉ではなかった。それはほとんど自省と変わりがなかった。 そこではたと気付く。あの人たちもそうなのだ。あの目は、内側を見つめている目なのだ、と。


 だけど、わたしはそれを認めることができなかった。認めたくなかった。それを認めてしまえば、わたしがわたしであることの──生の根拠──そうしたすべてが、崩れ去ってしまうように感じたからだ。


「だから、ここに来たんだろう? この喪われた街に、あの世界の外側に」


「違う……違う……!」


 わたしは軋むほど強く耳を塞ぎ、首を振り続けた。


「もう楽になっていい。ここはそれを許す。そのための場所だ。そのための──」


 言葉は、相も変わらず身体に、心に浸透していく。


「違う……わたしは……!」


「君の苦しみはよく分かる。辛かったろう」


 ふと、町民の一人が口を開いた。それに同調するようにして、他の人々も口を開いていく。


「でも、その先には何もない。ただ闇が広がるだけ」


「どこにも辿り着くことのない闇だ」


「知っているよ。君は死を望んでいる。だからここに来て、そして帰らなかったんだ」


「死はどこにでもある。我々の裏側で常に蠢いている」


「でも、誰もそのことを考えない。顧みもしない」


「こうして、世界には悲しみだけが降り積もっていく」


「だったらその前に」


「その前に」


「その前に」


「その前に」


 わたしはうずくまった。もう限界だった。


「もうやめて! 何も聞きたくない! 何も──っ!」


「目をつぶっても」


「耳を塞いでも」


「事実は変わらない」


「絶望を忘れても、虚無は消えない。苦しみを消すことはできない」


 ──それらが他人の言葉なのか、自分の言葉なのか。わたしには、もう分からなかった。


 ずっと考えないようにしてきたこと。ずっと閉じ込めてきたもの。夜の闇の空虚に浮かぶ、存在しえないもの。でも、たしかにそこにあるもの。


「さあ」


「さあ」


 それがいま、わたしを取り囲んで──。


「さあ」


「さあ」


「その、言葉を言うのだ」


 町長が言う。それは最後通牒だった。


 生の根拠を失った後に、人が辿り着く場所。それは一つしかない。


「もう、わたしは──」


 そしてわたしは、その言葉を言おうとして──。


 瞬間、辺りに爆発音が響き渡った。それでわたしも、周囲の町民も口をつぐむ。


 どこか遠くで爆発が起こったようだ。それによって生まれた光によって、蒼い光は一瞬にしてかき消え、辺りは代わりに、あかい光に満たされる。


 光は次第に揺らめき始めた。それと同時、何かが燃えるような音が響き渡ってくる。


「これは……炎……?」


「ダメだよ、皆」


 ──声が、聞こえた。


 わたしは天を振り仰いだ。紺碧の空、暗幕のような夜空を。そこには彼女がいた。影山結。セーラー服をはためかせて、地面に降り立ってくる。


「今日はもう帰って」


 群衆を一瞥すると、彼女はそう宣言した。それで、町民たちは無言でその場から去って行き──後には、わたしと彼女だけが残される。


「帰って、って言ったのに」


 困ったような表情で、彼女はそう言った。そこには疲弊し、呆然としているわたしを慮るような雰囲気があった。そのことが情けなくて、わたしはなんとか口を開いた。


「ごめん……でも……何だったの、あれは……?」


「やっぱり、気になるよね」


 表情を変えないまま、結はそう返した。心理的な距離を、わたしは今はっきりと知覚した。この先に踏み込まれることを、彼女は望んでいない。けれど、ここまで関わってしまった以上、もうそれを放っておくことはできなかった。


「……うん」


 逡巡の果てに、わたしは頷いた。


「あなたになら、いいかな」


 ──と、次の瞬間、再び爆発音が響き渡った。その音はさっきよりも小さなものだった。戦争映画でよくある、誇張した爆音ではない。それはどこまでも現実の側に属した、何かが燃えている時に不意に現れる音だった。


 遠くで、豪勢な邸宅が燃えているのが見える。音と光の源はそこにあるようだった。


「あれは……」


「あれは、私。そして私たち。かつて影山家と呼ばれたもの。そして、今はもう、どこにもないもの」


 わたしは目を見開いた。ここに来るまでに薄々感じていた予感が現実のものとなろうとしていることを、はっきりと感じながら口を開く。


「じゃあ、あなたは……」


「そう。影山結という人間は、もう死んでいる。ここにあるのはその残響。あるいは呪詛。ま、さっき聞いたか」


「そんなことって……」


「よくある話でしょ? 田舎にいる女子高校生の幽霊。死んだ怨念で、訪れる人を呪い殺す──」


 そう言って、結は自嘲するように笑った。その表情が痛ましくなり、わたしは追うように言葉を紡いだ。


「でも、あなたはここにいるって……そう言ってたんじゃ……」


「そう。私は強く残りすぎてしまった。だから厳密には幽霊じゃない。土地に縛られた──そう、地縛神じばくしんというところになるのかもしれない」


「地縛の……かみ……」


「強すぎる怨念は他人を引き寄せる。あるいは、他人の中のくらい部分を引きずり出す。ここにいる人たちは、そうして少しずつ狂っていったんだ」


「だから、〝どこにも辿り着くことのない闇〟って……」


「まあ、彼らは元々そういうところがあった。誰もが時代の中で敗北して、後には身体だけが残った。そしてその空虚な生を埋め合わせるために、こうして毎晩、魂だけがこの時計塔の下に集まってくるの。この、喪われた夢を、止まった時を、いつまでも記録するランドマークの下に」


「時が止まった街。あなたはそう言っていた。どういう意味なの、それは? 時代の中での敗北って、どういうこと?」


 そこで、彼女はさっきまでの、どこか憐れむような表情を崩した。代わってそこに立ち現れたのは、寂しげな、少女の表情だった。


「スペリオル都市開発って、聞いたことある?」


 懐かしむように、一文字一文字を噛みしめるように、彼女はそう問いかけた。


「……なにそれ?」


 わたしは恐る恐るそう問い返した。それに対して結は気丈に、


「昔存在した会社。幅広く事業を手がけていた。例えば──そう、ニュータウン開発とか」


 と返す。


 ニュータウン開発。ふとその言葉に、わたしは目を見開いた。


「待って、それじゃ……」


「社長……一代で会社を巨大にした実業家の名前は、影山信彦。そう、私の父だった人」


「…………!」


 息を呑んだ。


 これまで彼女が語った言葉のすべてが、圧倒的な重みをもってわたしにのし掛かってくるようだった。


「不動産価格の高騰。高度経済成長の残滓。バブル期と呼ばれた時代が、私たちを、いえ、父を狂わせた。手が届く位置まで降りてきてしまった、浮ついた夢のために、しがない地方公務員だった父は退職し、ここに街を築いた。需要ならあった。すべては、うまくいっていた──」


 言葉が耳朶を打つたびに、わたしの意識は、次第にさっきと同じように混濁し始めた。視界が霞み、現実の輪郭が解け、認識が、過去へと立ち返る──。

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