第3話「twilight」
バスを降りると、そこには草の臭いがあった。
無論、そこは一般に人が想像するような田舎ではなかった。反対車線にはコンビニも建っているし、コインランドリーも見える。だが、そこには都市に特有の臭いはなかった。あの臭みは。あの
わたしは歩いて行く。この街──黒耀ニュータウンを。
「…………」
と、ふと。わたしは、向こう側から歩いてくる高校生二人と目が合った。
(なに……この感じ?)
どちらも歩調が速いため、早々にわたしたちはすれ違った。それでも、わたしの中に生まれた違和感が消えてなくなることはなかった。
彼らはどこか、虚ろな眼をしていた。そのうえ、二人で並んで歩いているというのに全くの無言だった。どう見ても、それは「自然」な高校生の姿ではなかった。
「……まあ、いいか」
一つ呟き、わたしは再び歩き出した。
◇
どれくらい歩いただろう。ふと視界に、見慣れないものが飛び込んできたので、思わず口を開いてしまった。
「時計塔……」
それは時計塔だった。ビルで言えば三階ほどの高さだろうか。煉瓦造りのそれは、天を衝かんばかりにそびえ立っている。
「珍しい?」
ふと声をかけられ、わたしは後ろに跳び退ってしまった。その声は背後、さっきまで誰もいなかった筈の場所から発されたのである。
「うわっ!?」
跳び退り、振り返ると、そこには古いタイプのセーラー服を着た、同い年くらいの女の子が立っていた。
驚くわたしを余所に、彼女は言葉を続ける。
「あなた、この辺の人じゃないね?」
「あ、えっと……」
「その制服……見たことない。街の方の人?」
それはこっちのセリフだった。彼女の着ている種の制服は、今やあまり見ない。この辺りではまだ使われているのかもしれないが。
「まあ、そんなところかな……あなたは?」
「私? 私はここに住んでる。この──時が止まった街に」
「それは……どういう……」
わたしは聞きかえした。時が止まった街。一瞬、何を言われたのかさえ分からなかった。しかし彼女はそれには答えず、
「私、影山って言うの。影山結。あなたは?」
と続けた。わたしはいそいそとそれに答える。
「あ、秋月だけど……秋月芽以」
「そう。芽以ちゃんか。いい名前ね」
思わず吹き出しそうになるのを、なんとか堪える。絶対に真面目な顔で言う言葉ではない。
「
「自分の名前、嫌い?」
ふとその言葉に、わたしはあの顔を思い出してしまった。母の顔を。母とはまだ、ぎくしゃくしたままだ。
「……そ、れは……」
しばし、気まずい沈黙が流れた。わたしは何も言えず、結もまた何も言えないようだった。 やや間があって、彼女は手を叩いた。
「そうだ! この街、案内したげる。ここ来たの、初めてでしょ?」
「う、うん……」
案内? と聞きかえすことはしなかった。彼女の顔は、表情は、そうした追及を許さないほどに輝いていた。
「黒耀ニュータウンにようこそ……ってね。きっと気に入るわ。ここは良い街だから」
言い終わると、結は歩き出した。わたしもそれに続く。
◇
黒耀ニュータウンは、やはりどこにでもあるニュータウンだった。少し歩けばシャッターの閉まったままの小売店や、蔦の生えた空き家が顔を覗かせる。そこには都市の頽廃とは別種の、倦怠のような行き詰まりがあった。
──そんな中で、彼女だけが生き生きとしている。
道まばらに遊具のある公園の前の道の真ん中で、彼女はふと口を開いた。
「ここ、小学校の時によく
「今は違うの? その……この町、そんなに広そうには見えないけど」
「明け透けだね」
「なんか……ごめん?」
「まあでも、無理もないよ。ちょっと特殊なの。小学校と中学校が反対にあってね。導線っていうのかな……それが別々の方向に伸びてて、二つの生活が交わらないようになってるの」
「二つの生活……」
「ほら、小学校と中学校って全然違うでしょ。中身も、
「制服……そっか、普通、小学校に制服はないんだ」
「へえ、小学校も受験したの?」
「……うん。親の意向でね。まあ、結局中学に上がる時にまた受験して離れちゃったんだけど」
言いながら、段々とわたしはあの頃のことを思い出していた。家から学校へ、学校から塾へ。同じ構造の生活の中を繰り返す──その中で、世界だけが移り変わっていく。世界だけが、確実に変わっていく。細かくなり続けるテキストの文字、離れていく友だち、そして──下がり続ける点数。
「受験と生きてきたって感じだね。それじゃさっきの喩え、ちょっとわかりにくかった?」
言われて、わたしは受験のことを言われているのだと気付いた。普通、公立の小学校というのは受験とは無縁だ。
「ううん。受験だけじゃない……やっぱり全然違うよ、小中は。けどそれでいて、通学路は全然変わらない……人も……目的も……なんか……バカみたい」
「芽以ちゃん……」
「ここに住めたら良かったのにな」
止めるべきだという思いはあった。これは表に出してはいけないものなのだと。ここではないどこか。わたしではないわたし。それへの欲求が理解されるはずはない。そんなことは、とっくに分かっていたはずなのに。
結は、しばらくわたしを見つめていた。その眼は、どこかわたしを見透かしているようで、そして、彼女はその口を開いた。
「……芽以ちゃんは、自分のことが嫌いなんだね」
わたしは顔を上げた。かあっと全身が熱くなっていくのが、手に取るようにわかった。それは「恥」の感覚だった。
「ど、どうして、そのこと……?」
「分かるよ。私もそうだったから」
「…………」
押し黙るわたしの前で、結は言葉を続けた。
「何も考えない方がいい、って皆気楽に言うけど……やっぱり、そんなことできるわけがないのよね」
「あなたは、どうやって……その……」
辛うじて絞り出すことのできた声があまりに無防備なのに、自分でも驚いた。それは告解のような声だった。あるいは、母を求める子どもの。
「乗り越えたの、って? ──期待に添えないようで申し訳ないけど、多分、私も乗り越えてはいない」
「で、でも……」
「そう、ここにいる。とはいえ、私にできることはそうした、存在の主張しかない。そして誰でも、恐らくはそうなんだと思う。それが祝福なのか、呪いなのか──教えることは、誰にもできない。それでも、その選択肢があることだけは分かる。それは、確かに存在する」
わたしは気圧された。その言葉はたしかに彼女から発されたものでありながら、どこかもっと遠く──遙か彼方の深淵から発されたもののように思えたのだ。
「選択肢……わたしにも、いつか選べるかな」
その言葉に、彼女は微笑んだ。
「きっとね」
ふと、結は空を見上げた。それにつられてわたしも空を見上げる。それで、夕暮れ時の茜色の空が目に飛び込んでくる。
やや間があって、ちらと腕時計を見た彼女が口を開いた。
「あー……日が暮れちゃうな」
「もうそんな時間かぁ……」
そこで、彼女は再び時計に目をやった。そこには、真剣そうな表情が浮かんでいる。
「……うん、まだ間に合うな」
「え?」
「もうちょっとで、最後のバスが来る。それで、今日はもう帰った方がいいよ」
それは打って変わって切実そうな声だった。
「え、でも……」
「間に合わなくなるからさ」
「……ど、どうして?」
戸惑いを打ち消せないまま、わたしはそう聞いた。
「もうじき、夜がこの町を呑み込むの──そうなったら、ここにいない方がいい。……きっと、帰れなくなるから」
それは深刻そうな声だった。使われている言葉の一つ一つはありふれたものなのに、そこに乗っている重みは、これまで感じたことのないものだった。
「…………」
呆然とするわたしの前で、彼女は、
「それじゃあね、芽以ちゃん」
と言い、その場を立ち去った。後には自分と、暮れなずむ空だけが残る。
彼女のことは、裏切りたくなかった。彼女が帰った方がいいと言うなら、それはきっとそうなのだろう。次のバスに乗って、それで市内に帰るべきなのだろう。……でも。それでも。それでもわたしは、帰りたくなかった。今のわたしに、帰る場所はない。その時、わたしは強く、それを確信していた。
日が沈んでいく。世界の輪郭がほどけて、闇の中へと埋没していく。
長い間があって、わたしは、よろよろと一歩を踏み出した。
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