第2話「escape」
午後三時半ごろ。その時、わたしはまとめた燃えるゴミを集配所に運んでいた。
「あ。秋月さん!」
ふと名前を呼ばれ、わたしは振り返った。そこにいたのは、数少ない友人の一人である町田さんだった。彼女は、わたしと同じようにゴミ袋を抱えていた。
「最近どう?」
そう聞かれても、あまり怒りのわき上がってこない自分に、わたしは驚いた。実にいい加減だ、と思うが、その矛盾はわたしを傷つけなかった。
町田さんは一年生の時に同じクラスだった。そして、今は理系のクラスに進んでいる。獣医学部を受験するのだそうだ。尊いことだと思う。きっと彼女は、社会でも誰かの役に立つようになるのだろう。
「まあまあかな」
「毎日大変だよね。まあぼちぼち頑張ろうね」
言い、彼女はゴミ袋を集配所に置いた。そのために身をかがめたとき、ふと、ポケットから物が落ちるのをわたしは見逃さなかった。
それは単語カードの束だった。咄嗟にそれを拾い上げたわたしは、一瞬、その表面の単語を見てしまった。
見たこともない単語だった。意味は当然のことながら分からない。一瞬にして、全身から血の気が引いていくような心地がした。
「あ、拾ってくれたんだ。ごめん」
そう言って、彼女はわたしの手からカードを受け取り、「それじゃあね」と言ってからクラスに帰って行った。
頑張ろうね、と彼女は言った。それは実にありふれた言葉だ。でも、それが指し示す対象はあまりに多様で、その差異が、わたしにはたまらない。
◇
夕方。
学校帰り。わたしは通学路を、バス停に向かって歩いていた。片手には、模試の成績を握っている。
ふと脳裏に、これまで浴びせかけられた言葉が蘇る。
〝やっぱり英語が弱いね。息切れしないように……全体のペース配分を考えたら?〟
わたしはため息をついた。だが、心は止まらない。
〝単語覚えるだけじゃダメだよ、もっとこう──因果関係を整理しておかないと〟
「………っ!」
ため息ではもうどうしようもない。わたしは掌に力を込めた。それでプリントは歪んだ。もう何が書いてあるか見るのは難しい。わたしはプリントを丸め、完全にゴミにするとカバンにしまい込んだ。
気付いたときには、バス停の前まで辿り着いていた。
わたしは単語帳を開いた。相変わらず、内容は頭に入ってこない。一夜漬けで定期テストを突破し続けてきた弊害だ。単語が、覚えたはずの単語が、自分のものになっていないのだ。
しばらくしてから、バスがやってきた。空圧ドアが力強い音とともに開いていく。
「
わたしは単語帳をしまい、バスに乗り込もうとして──そこで足を止めた。
(これに乗れば、今日もまた同じだ──)
思考は強く瞬き、わたしの身体を支配した。そして、縫い止められでもしたかのように、その場から動けなくなる。
間があって、バスの扉が閉まる。その中にわたしはいない。
そうして、わたしは去って行くバスの背をずっと眺めていた。その先には、寂しげな都市の、夏の残滓を引きずった空が広がっている。
──多分、それらを目にした瞬間だった。わたしが決意をしたのは。わたしは横断歩道を渡り、そこにあるバス停のベンチに身体を投げ出した。
しばらくしてから、再びバスが到着した。わたしはそれに乗る。
「中岡二丁目経由、
──決意。それは、家出をしよう、という決意だった。
再び耳朶を打った、バスの空圧ドアの閉まる音に、強いその決意はわずかに打ち震えた。
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