月影に融ける

城輪アズサ

第1話「heat haze」

 ──夏の終わり、秋の頭。夢走ゆめばしり予備校五階、A教室。


“日常が奪われた、と誰かが言った。わたしたちは抑圧されていた、と誰かが憐れんでいる。けれど、そう言う人たちは気付いてないんだ。わたしたちの日常はすでに、どうしようもなく破綻しきっていて、もはや取り返しがつかないのだということを”


 ──そこまで書いたところで、わたしは我に返った。


 古典の配布プリントの隅。「秋月芽以」と、自分の名前が書かれた部分の真横。レイアウトの関係で余白になった部分。そこに、わたしの文章が躍っている。無意識のうちに書いてしまっていたらしい。悪い癖だ、とは分かっているけれど、それをやめることはできそうにもなかった。


 それはわたしにとって、一種の防衛機制だった。世界と自分との折り合いを付けるために必要な行為だった。それでも、それがもう何の役にも立たないこと、それがわたしの絶望にとっては何ら価値のないものだということは、自分が一番よく分かっていた。


 わたしはそのプリントをずらし、下敷きのようにして隠していたプリントを垣間見た。まるで、かさぶたを剥がすように。


(ああ──)


 瞬間、わたしの心に去来したのは、どこか柔らかな戦慄だった。隠されたプリント。その中央に、シャープペンシルで黒々と穿たれた渦。それはわたしの傷で、罪で、そして心そのものだった。


 絶望的な気分になった時、わたしはそうすることにしていた。腕を切るのも、焼くのも、どちらもわたしには怖かった。だからその代償行為として、わたしはそれに手を出している──。


「壁にはつたくずひかかり、庭はむぐらうづもれて、秋ならねども野らなる宿なりけり……秋ではないが、秋の野のように荒れた家だったと。男が目を覚ましてみると、そこは廃墟だったと、そういうことなんですね。よって答えは②です。では次──」


 ふと、大学生のアルバイトとおぼしき講師の声が耳に入ってくる。うるさいな、と思いながら、わたしは真面目に授業を聞いているふりをしつつ、ゆっくりとそのプリントを隠した。


 授業を聞かなくなってから、もうずいぶん経つ。いつからそれを覚えたのかは、もう記憶にない。ただ、さらさらと、街を流れる車の音のような、あるいは、心臓の拍動の音のようなものとして授業を受け流すことは、今やわたしにとっての日常と化してしまっていた。その代わりにわたしを支配しているのは、言葉だった。思考、と言い換えてもいいかもしれない。


 ──どうして、わたしはこんなところにいるんだろう。そんなことばかりを、ずっと考えている。


「まあここの正答率は33パーセントほど。決して多いとは言えないわな」


 話は続いているようだったが、もうそれはわたしの耳には入ってきていなかった。


 夏期講習が終わって、9月。模試の季節になっても、わたしの成績は伸び悩んだままだ。いや、〝伸び悩み〟という言葉は適切じゃない。成績が伸びたことは一度もないからだ。もうずっと、下がり続けたまま──。


 そこで、チャイム音が鳴り響いた。なおも授業は続いているが、そんなことはわたしたちにはどうでもいいことだった。もうクラスの三分の一ほどは授業など聞いていない。弛緩した空気は、瞬く間に広がっていく。


 そこで耐えかねたように、講師は口を開いた。


「はい、今日はここまで。今週末にはまた、模試があるのでね。ただ、しっかり対策すれば難しいもんじゃない。共通試験まで日がないので、気張っていきましょう」


 どきりとした。次いで湧き上がってきたのは、怒りだった。


「…………っ!」


 叫びそうになるのを必死で堪える。もう限界なのは目に見えていた。


 ──それでも、わたしはまだここにいる。



 バスに揺られて30分ほどで、わたしは市内にある自宅に帰り着いた。西洋風の新築だ。いわゆる日本家屋的な、木をあしらった部分は一つもない。ヨーロッパ趣味もここまで来ると偏執だ、と思ったところで、わたしはまだ怒りを堪え切れていない自分に気がついた。


 それでも、家に帰らないわけにはいかなかった。わたしは玄関の扉を開ける。


「ただいま」


 ゆるやかな歩調で歩きながら、つとめて冷静にわたしはそう言った。手を洗い、リビングに行くと、母親が待っていた。父は風呂に入っているようだ。テレビからは脳天気そうな芸人の笑い声が聞こえてくる。


「おかえり。どうだったの、模試の結果は?」


 ──そしてその瞬間、そうしたすべての思考は、感覚は吹き飛んだ。


 わたしは足を止めた──のだと思う。


「ま、まあまあかな」


 視線をあらぬ方向に向けたまま、わたしはなんとかそう言った。


「まあまあって何よ、まあまあって?」


 母はねちっこく絡んでくる。気が立っているのはあの人も同じなのだ。けれど、わたしのそれと、母のそれは違う。絶対に違う。


「言葉通りの意味でしょ……」


 わたしの言葉など聞こえていないかのように、母は続ける。


「分かってるんでしょうね、次が最後の模試なんだからね」


「うるさいな……」


 言ってからはっとなった。でも、もう遅い。


「……なんですって?」


 母の表情が曇っていくのが分かる。だけど、その時にはもう止まらなかった。止めることができなかった。わたしは叫ぶ。


「ちゃんとやってるから! おかまいなく!」


 カバンを持ったまま、わたしは二階へ昇っていった。そして部屋に入り、鍵をかけると、授業で配られたプリントを取り出して、シャープペンシルで塗りつぶしていく。


 無数の英単語が、黒の下に埋没する。すべてがまとまりを失い、一つのディティールへと還元されていく。


 と、ふと、芯が折れる感触で、わたしは我に返った。


「………~~~~ッ!」


 声にならない叫び声をあげながらベッドに倒れ込むと、わたしは声を押し殺して泣いた。どうして。どうしていつもこうなんだろう。どうしてわたしは。


 けれど、そのことに応えてくれる人は誰もいなかった。こうして、今日も夜が過ぎる。

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