第26話
目覚めると、かたわらに女性が眠っていた。その近さに驚く。
周りを見回すと、知らない部屋。この女性は知っている、クモだ。健やかな寝息を立てて眠っている。
外は明るくなり始めたところ。周囲の静まり具合に、目覚めるには早い時間と知る。
そうだ、ここは赤だったか。
「ん……」
リルザが身体を起こしたせいか、彼女はわずかに身体を縮めた。銀の髪が揺れて、そのやわらかさがわかる。
この娘は、一体何者なんだろう。
青みのある銀の髪や振る舞いを見ても、青国人であることは間違いないと思う。
名前を言いたがらない理由はよくわからないが、それでも知ろうとすればすぐにわかるだろうとも思う。が、そこまで考えたところで、どうでもいいか、と投げ出した。
緑へ戻りたいと言うが、ひとりではとても戻れないだろうと思うから、連れて行くだけ。死なれるとわかっていて放り出すのは後味が悪い。
リルザは、礼儀として、寝台を出てから一応身なりをととのえた。それからクモに何度か呼びかける。
「……リーゼ、お話は……また夜に……」
寝ぼけた声で、彼女が返す。
リーゼ? お話?
まばたきをする。リーゼとは、自分の幼名のことか。
「……いまは、朝です。クモ、申し訳ありませんが、少し起きてもらえませんか?」
「え……」
「聞きたいことがあります」
彼女は飛び起き、寝台から転げ落ちた。そこまで驚くとは。というか、そんな驚き方をするか? 普通。まあいいか。
「り、りっ、り、りるっ……」
クモは顔を真っ赤にして、なぜか自分からシーツにぐるぐる巻きになる。それから息をととのえ、やっとこちらを向いた。
「……すみません。その、まさか、リルザ様に声をかけて頂くとは思いませんでした」
「そうでしょうね。こちらこそ驚かせて申し訳ありません。私も自分のことながら、よくわかっていなくて」
「それは……」
何かを言いかけたようだったが、そのままつぐんでしまう。
言わないのなら、聞き出そうとは思わなかった。
「ここはまだ、赤ですね」
「はい。すぐおわかりになったんですね。一週間ほど経っていると思います」
自分が自分でなくなってから、ということだろうか。ぼんやりと濁す気遣いをどう受け取ったものか。
「緑でないことはわかるんですよ。それに、家具も建物も、ここは特に特徴的なようだ」
日差しをはねる荒く焼かれた白壁に、風通しがよいよう、いくつもある大きな掃き出し窓。部屋の中には美しい衝立がいくつもあるのは、扉を閉めることが少ないからだったはずだ。今この部屋の扉は閉ざされているが、港近くの町よりも赤らしい場所だと感じた。
「ここはどこですか。私達は、なぜここに?」
クモは簡潔に説明してくれた。
たまたま行き逢った旅人の遺体を略葬したら、疑われ、拘留されることになったこと。だが扱いは悪くなく、今は仕事をもらいつつ、ここでリルザが目覚めることを待っていた。
「仕事を?」
「はい。ここの主の妹君が、今度嫁がれるそうで、そのお相手が青がお好きなんだそうです。それで、わたしに青風の仕立てや、礼法を教えて欲しいと」
説明は簡潔でも、また、妙な話になっている。
子どもを助けて、旅人を弔って、今度は結婚の手伝い?
これもすべて、自分が悪いのだとは思うが。
「……仕事ということは、報酬があるんですか?」
「まだ頂いてはいませんけど、それが目的です。緑に帰るためにも必要だと思って」
「そうですね。私もいくらも残っていませんでしたし」
どうするか。リルザは首を少しだけ傾げ、左上を見た。考え事をするときの癖のひとつだ。昔、神様は左上から見ていると言ったのは、兄だったか父だったか。
「じゃあ……クモ、あなたはどうしたいですか?」
「え?」
「あなたがここで旅費を稼がなくとも、私のほうで都合をつけてあなたを緑へ送ることはできます。ですが、あなたがもし仕事をまっとうしたいと言うのなら」
「い、いえ! 置いていかないでください!」
勘違いして焦った顔に、つい噴き出してしまう。
「そんなことはしません。きりのよいところまで待つと言おうとしたんですよ」
「そんな、リルザ様は早く戻らないと」
「クロースとガルディスには、観光でもして戻ると手紙を出しておきます。黒を経由すれば届けられるでしょう」
「だめですそんな、一国の王子が……」
「ああ、ここではあまり言わないでいただけますか」
「ごっ、ごめんなさいっ! でも、リルザ様……」
「私がいなくなって心配するのは、クロースとガルディスだけです。特に問題にはなりません」
クモが悲しげに眉を下げる。自嘲に聞こえただろうか。でも、自分は本当に気にしていない。
「ここまでで十分、私が要人としての務めを果たせないことはわかったんじゃないですか。国にいても役には立たないんです」
「そんなこと、言わないでくださいっ……」
小さく微笑んで、首を振る。
「実は私は、他国にいることが、こんなに気が楽だとは思わなかった」
嘘じゃなかった。
自分を知っている人間がいない。それでいて、すでに壊れている者だということは知られている。
「この屋敷の人々も、すでに、私の異常を知っているんでしょう?」
「……はい。白闇に食われたと、そう言われています。あ……だから、今のリルザ様を見たら、驚いちゃうかも」
そういえば、そうだ。少し考えたあと、リルザはクモに尋ねてみた。
「クモ。心を閉ざした状態の私というのは、一体どういう状態なんですか?」
「え、えっと……そうですね」
クモは考えながら、少しずつ説明を始める。
「いつも同じではないんです。ひとつは、心を完全に閉ざした状態。何をしても無反応です。目を開けたまま、寝てるみたいに」
そういえば、こんなふうに自分の状態について聞いたのは初めてかもしれない。クロースやガリディスは、リルザが戻ると、ただひたすら安堵し、仕事の話をして日常のふりをする。腫れ物の自覚はあった。
「次は、小さな子どものような状態。すごく幼く感じたときもあれば、10歳前後かな、かなりしっかりしているときもあります。そのときに、ご自分をリルザではなくリーゼだと名乗られました」
「それについては、多少聞き覚えがありますね。ガルディスとケンカをしていたとか」
「わたしも、見たことがあります。ケンカではなかったですが、気の置けない、親しさを感じました。仲が良くていらっしゃるのだなと」
そう言って、クモはうれしそうに笑う。
「リーゼのときは、少し安定しているように思います。わたしと一番お話してくれるかも」
今度は苦笑のようだった。他の自分はまともに話せる状態じゃないということだ。
「そのときどきよって、ちがうみたいなんです。リーゼも、リルザ様のときのこと、覚えていたり、いなかったりして」
考えにふけるクモの姿を見ると、シーツから出ている手首に傷があることに気づいた。
「この傷は?」
「あれ。いつのまに。気づいていませんでした」
「もしかして、私ですか?」
「ちがいます!」
怒ったように言い返したあと、ユーラははっとまばたきをした。なにか思い当たったように。手首の内側に、紫がかった痣。
「手首を強くつかまれたんじゃないですか」
女性を厭う自分がやりそうなことに思えた。ユーラはうなずかなかったが、ちがうとも言わない。うつむき、顔を背けている。
「参考になりました。それで、わたしが子どもの状態のふりをすることは、できると思いますか?」
「どういうことですか?」
「ここの人々は、すでに私をリーゼとして認識しているわけですよね。疑いがかかっている今は、なにも知らないリーゼでいたほうが余計な誤解を生まないと思うんです」
「ああ……確かに、そうですね。いきなりこんなに立派になっちゃったら、みんな戸惑ってしまうかも」
クモはもう一度考え、うなずいた。
「心を閉ざした状態なら、そこまで難しくはないと思います。こう、誰のことも無視して、自由に動いていれば大丈夫だと。ただ……」
「ただ?」
「みんなから、リーゼと呼ばれます。その、…白闇に喰われた扱いを受けます。危害を加える者はいないと思いますが、リルザ様はそれでも……大丈夫なんですか?」
赤ぶどうの目が、気遣わしげに見つめてくる。
リルザは笑顔を作った。
「試してみますよ。なにかあったら、あなたがフォローしてくださるでしょう?」
「は、はい! 必ずお役に立ってみせますっ」
頬を紅潮させて、彼女は勢い込んでそう言った。
もうひとつ、理由がある。彼女には申し訳ないが、逆だった。
立派にふるまうなんて面倒くさい。馬鹿にされようが、人を相手にしなくていいというのなら、是非そうしてみたいと思っていた。
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雲の姫 黒作 @kurosuck
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