幕間 くるみと雑巾(後)

 年を追うごとに、ユーラはどんどん綺麗になっていった。

 ご両親に似てもともとすごく綺麗な子だったし、ユーラ自身も美しくなることにとても執着していた。

 でも、ユーラは綺麗になりたいって言うわりには、恋や結婚に興味を示さなかった。男の子に対してはいつも線を引いて、自分から近づくことがなかった。

 ユーラを巡る噂がどんなに華やかでも、真実はいつもちょっと違ったし、当の本人は置いていかれていた。ユーラは外の世界とは関わらず、自分の趣味、自分の世界に没頭して、幸せそうに暮らしていた。


 あたしが屋敷にきて、2年が過ぎたころ。

 おだやかで優しいばかりだったファルデンの屋敷に、悲しみが襲った。

 奥様……ユーラのお母さまが、亡くなったのだ。

 綺麗で優しくて、面倒見がよくて、頭が良くて。みんなの太陽だった奥様。

 旦那様の失意は深かった。そのまま死んじゃうんじゃないかって、みんな心配していた。そんな、悲しみに消えてしまいそうだった旦那様の影を、照らしてくっきりと濃くできたのは、12のユーラだった。

 ユーラは、見事に奥様の代わりを務めた。みんなに声をかけて、必要なことを教わって、みんなは喜んでそんなユーラを助けた。ユーラを通して力を合わせていった。

 新しいお屋敷の太陽。そんなユーラがいつまでも恋に興味を持たないこと、旦那様が決して外に出そうとしなかったことに、あたし達は心配するふりをしながら、本当は安心していた。もう悲しいことはいやだった。

 ユーラだって本当は大変だったのに。奥様が亡くなったとき、ユーラは声が出なくなった。でも彼女は、ある日森から帰ってきたら、別人みたいに吹っ切れた顔をしていた。

 森で何があったのか、今でもわからない。彼女に何度も尋ねてみたのに、かわいく笑うばっかりで結局教えてくれなかった。


 ユーラは、変わったところがいくつもあった。

 社交界の流行やお洒落について知りたがるくせに、本当は興味がなかった。あたしはドレスもお洒落も大好きで、ユーラを美しく仕立てるためにいつも勉強していたから、ユーラと話すと本当は興味がないことがよくわかった。興味がないから、自分が好きな服もわからないし、いつも自信がないのだ。好きなドレスを選べというと、いつも自信なさげに無難なものを選ぶ。それって結構、こっちにしてみると腹が立つんだけどね。

「ねえカリン、青の流行と、他国の流行ってどれくらいちがうのかな?」

「ねえカリン、わたし巻き髪を試してみたいんだけど、これって戻せなくなるのかしら?」

「ねえカリン、わたしも泳ぎたいけど、日に焼けたらおしろいを重ねないといけなくなるものね。赤の国では日焼けしたひきしまった肌が好まれるそうだけど、他の国は……そんなことないのよね?」

 そんなに綺麗なのに、どうしてそんなに自信がないの? どうしていつも、誰かの言う

ことを気にするの?

 平気で使用人と同じ格好をするし、髪をぼさぼさにして馬を乗り回すし、剣術の稽古の途中で鼻血を噴いたって、げらげら笑っているユーラ。人の目さえなければ。

 自由にすればいいのに。ここはユーラのお城。社交界に出ないくせに、興味のないことをどうして学び続けるの。綺麗になろうとするの。


 ユーラが嫁ぐことが決まってから、あたしはずっと反対していた。

「ねえユーラ、ちゃんと考えてよ。おとものひとりもつけずに嫁いでこいなんて、どれだけ異常なことか」

「うん、考えたよ」

「それに形式だけじゃない、他国でひとりで暮らすことになるんだよ?」

「うん」

 侍女の領分を越えたあたしの言葉に、ユーラは笑ってうなずくだけ。

「ねえ、ユーラ……はっきり言って、こんな条件出してくるなんて、緑はユーラを歓迎してないんだよ。本当にそんなところへ行くの? 幸せになれるの? リルザイス殿下があなたを幸せにしてくれるなんて、思えるの?」

「あのね、カリン。わたし、ずっと憧れてたの。リルザイス殿下に」

「……え?」

 くしゃっと顔をゆがめて、ユーラは甘く甘く笑った。光が屈折したみたいな。

「もう、自分じゃどうしようもないの。行くなって言われたって来るなって言われたって、もうわたしには行くしかないの」

 ずっと憧れてた? リルザイス殿下に?

「……そんなの、聞いたことない。なんでリルザイス殿下なの? ユーラ、リルザイス殿下と会ったことがあるの?」

 いや、面識なんてあるはずがない。この屋敷でリルザイスなんて名前、話にのぼったこともない。そりゃ名前くらいは知っている。六大国の王子と姫については学校でざっと習うし、若い子は憧れるものだ。

 確か有能とは聞いたことがあるけど、それ以外思い出せない。うち、青には独身の王子がいないから、緑の王子に憧れる子も結構いるんだけど。やっぱり人気なのは第二王子のセヴァドール殿下。武勇伝は勇ましく、多くの艶めいた噂。青に来たこともあって、すごくかっこよかったって聞いたことがある。

 でもユーラは、リルザイス殿下がいいんだって言う。

「リルザ様は、おおごとにされないのよ。先の先まで読んで事を進められるから、はたから見れば地味で簡単に見えるんだわ。でも、それってすごいことなのよ、カリン。すごくすごく、すごいことなのよ」

 語る言葉にこもる熱は、英雄に憧れる少年のよう。ねえユーラ、結婚しにいくのよ?

「……ユーラは、旦那様を置いていって平気なのね」

 あたしを置いていっても平気なのね。

 あたしは卑怯だから、旦那様に置き換えた。

「お父様は、もうだいじょうぶだから」

「どうして言い切れるの?」

 こんなこと言うの、ずるい。だけどあたしは言うのをやめられなかった。

 連れて行って欲しかった。カリンを置いていくくらいなら行かない、そう言って欲しかった。

「おはなし、したから」

「おはなし?」

「うん。何度も何度も、色んなこと。それでね、わたしはずっとここにいてはいけないねって」

「どうして!?」

「か、カリン顔こわいよ?」

「だって!なんでよ!」

 ユーラは困ったように笑った。

「今、わたしが女主人みたいになっちゃってるけど、本当ならもうヴェリエラさんがそうなってないといけないはずでしょ」

 ヴェリエラ様っていうのは、ユーラの兄上テイザー様の奥様だ。現ファルデン候の奥様がいないことから、女主人としての仕事はヴェリエラ様がこなすのが筋となる。

 でもここに来て日の浅い彼女より、ずっとみんなを支えてきたユーラが屋敷を取り仕切っている。

「ずっと気になっていたの。わたしがいるとヴェリエラさんとしてもやりづらいでしょう。みんなも混乱させると思うのよ」

 うなずきたくはなかった。だってあたしは、ヴェリエラ様じゃなくていいと思っている。これまで通り、ユーラに女主人でいてほしい。返事をしないあたしに、ユーラは気づかないふりで続ける。

「だからね。父様が、もう大丈夫だから、おまえのしたいようにしなさいって。帰る場所はずっと用意しておくからって、そう言ってくれたの。だからわたし、行くことにしたの」

「行くって……もっと普通の行き先にしてよ! あたしがついていけるような!」

 つんと鼻の奥が熱くなるのを感じた。

 一気にこみ上げて、涙が流れた。熱くて、でもすぐ空気に冷えて。

 ユーラが一瞬、驚いた顔をした。そして、次の瞬間あたしに飛びかかった。

「ごめんねっ、カリン!」

「きゃああっ!」

 もうユーラはバカだバカバカ。あたし達は取っ組み合うように地面に転がった。痛い。

「い、いたた…ご、ごめんなさい!」

「なんで飛びかかるの!?」

「加減を間違えちゃった! 抱きつきたかっただけなのよ!」

 バカストレートには返す言葉もない。

 空気はぶち壊されて、涙が引っ込む。

「カリンが泣くほどわたしの事が好きだったなんて嬉しくてつい」

「ほかに言うことないの!?」

 顔が熱くなる。このデリカシーのなさ。子供みたいな友情告白ごっこなんてやってられない。というか本心を言葉にするのが恥ずかしいだけなんだけどさ。長い付き合いなんだからそれくらいわかってよ!

「え、だって……」

「それ以上なんか言ったら怒るわよ!」

「もう怒ってると思う!」

「もっと怒るってことよ!」

 いつもどおりのじゃれあい。これがもう最後なのか。もうないのか。

 そんなの、いやだ。いやだよ。

 止まったと思った涙が、壊れたみたいにぼろぼろと流れ出した。

 なんだろうこの涙。止まりやしない。

「カリン」

「いやだよ、ユーラ。どうして平気なの? あたし全然平気じゃないのに、それはあたしだけなの?」

 子供より始末が悪い。でも、しゃくりあげながらそう言った。こんなにあけすけな言葉、生まれてこのかた言ったことない。

「平気じゃない……ううん、平気……なのかな」

 なんてひどいこと言うの、この子?

 思わず目を見開いて睨んでいた。

「お、怒ってもいいけどっ! だってカリン、結婚しないじゃない。わたしのせいで」

「別にユーラのせいじゃないわよ!」

「うそだよ。わたしのせい」

 笑顔をひっこめて、ユーラは苦しそうに言った。

「主であるわたしが結婚しないから、ホリックの求婚を断ってるんでしょ」

「違います。結婚に興味がないだけです」

「うそ。わたし、前はともかく、今はこの家の亡霊みたくなっちゃってる。お母様がいた頃を誰も忘れちゃいけないって、囚われてる。もうきっと、とっくに、十分な時間が過ぎたのに。今のわたしは、この家の呪縛」

 ……そんなこと、考えてたの?

 そんな顔、初めて見たよ。

「でもね、間違えないで欲しいんだけど! わたし、本当にリルザイス殿下に憧れていたの。だから、きっとこれはタイミングなんだって、そう思ったの」

 ユーラの手があたしの手を包む。普通の姫君より酷使してるはずのその手は、彼女とあたしの努力で白くて綺麗なまま。

「……ねえカリン。泣いてくれるのは、心からうれしい。あなたが大好きよ。ずっとずっと、一緒にいてくれたわたしの大事な友達」

 額を合わせる。身分は全然違うのに。友達と呼んでくれる、あたしの姫様。

「でも、どうか泣かないで。わたし、緑の国へ嫁ぐけど、ファルデンであることを忘れることはないわ。あっちで落ち着いたら、すぐにあなたを呼ぶ。あなたがいやだって言っても、連れていくよ」

 優しく、強く、抱きしめられる。

 以前はよく、旦那様にこうしてあげていたね。ユーラは。

 泣き虫のくせに、どうしてつよいのかなあ。ずるいよ。

 そのまま、あたしは少し泣いた。

 リルザイスって男が突然死なないかなって思った。そうしたらユーラの行き先はなくなる。

 死なないなら。

 せめて、あたしの大事な姫を幸せにしなきゃ許せない。もちろん、世界の誰よりもだ。

頭がいかれてるならそんなの無理でしょ。ユーラに緑国に呼んでもらったら、どんなことをしてでも別れさせてやる。ユーラに離縁の経歴が残ったって、この際いいとしよう。ユーラの美しさだったら、それでもいい縁談が来るもの。ううん、もう男なんていいよね。結婚なんてしなくていいわ。

「カリン、ごめんね。またすぐ会えるからね、いい子でいてね?」

「そのバカにした言葉、やめてくれる?」

 鼻をこすりながらユーラから離れると、彼女はいつものように、可愛く笑っていた。



***



 ユーラが嫁いで沈んでいたあたしに、畏れ多くも旦那様とテイザー様が声をかけてくださった。

 その時初めて、ユーラがどうやってリルザイス殿下に憧れていたのかを知った。みんなには内緒だよ、って言って。

 ユーラがいつも読んでいた報告書や、議事録(これ、機密なのに渡しちゃってたらしい。旦那様はユーラに甘すぎる)、戦闘記録書は、リルザイス殿下のものだったんだと。そのほかにもリルザイス殿下に関わるものは、繰り返し何度も読んでいたんだそうだ。

読んでみるかい、そう言って渡されて、眺めてはみたものの、あたしはさっぱり意味がわからなかった。そもそも読むことが難しい。知らない言葉ばかり。数字ばかり。

「私がここから離れて欲しくないと願ったばかりに、こんなもので恋への興味をごまかしていたのかと思うと、たまらなくなったよ」

「父様、それは違いますよ。あいつはそんなたまじゃない」

「ほう? なぜそう言える」

「あいつには、リルザ殿下を好きになるきっかけがあった。そして、お得意の思い込みの激しさでそれをずっと引きずっていた、それだけですって」

 旦那様とあたしは顔を見合わせた。

「テイザー様はなにかご存知なんですか?」

「まあ、具体的には言えないんだけどさ」

「テイザー、私も聞いていないが」

「父上、近いです……」

 ずいっと詰め寄る旦那様。青一の親ばかなのではと屋敷のみんなはこっそり言っている。

 結局、テイザー様は口を割らなかった。この兄妹、そろって頑固。

 でも、少し安心した。

 本当に、リルザイス殿下に憧れてここを出て行ったのなら。


 ユーラが嫁いでから、確かに屋敷は変わった。

 ヴェリエラ様が屋敷を取り仕切るようになって、それまであまり見えなかった彼女の誠実な人柄がわかった。幼いユーラを支えたみたいに、みんなが不慣れな彼女を支えて、屋敷は変わりながらも平穏な日々。

――今はこの家の亡霊みたくなっちゃってる。

 ユーラが言っていたことが、今はわかる。でもそれを認めるのは悲しかった。

 屋敷がユーラを必要としなくなったなんて。誰よりも、この家を優しく包んでいてくれたのに。

 今あたしは、ヴェリエラ様つきの侍女として仕えさせていただいている。もちろん、ユーラからお呼びがかかればすぐにでも向かうという条件で。

 あっちに行ったら毎日が戦闘のはずだ。ユーラが幸せになってなかったら、なんとしてでも離縁させて青に連れて帰る。体力づくりもしている。

 そう、さくっと結婚もしておいた。ホリックに「結婚してもいいけど、ユーラに呼ばれたらあたしはすぐにあんたをおいて緑に行くよ?」と伝えたんだけど、そうしたらあいつ一晩かけてご両親に話をつけてきて、「僕も一緒に行く」だって。これでもう、ユーラに文句は言わせない。


 早く手紙がこないかな、あんまりあからさまに待つのもみっともないけど、しょうがない。

旅立ちの準備はしてある。荷物は少なくていい。貯金もそこそこある。お呼びがかかれば、すぐにでも発つつもりだ。

 ユーラ、今度こそ、あなたの力になるために。

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