幕間 くるみと雑巾(前)
あたしの名前はカリン。
青の大貴族ファルデン候の娘、ユーラ様の侍女だ。
普段はユーラって呼び捨てなんだけどね。
でも彼女は、もうここにいない。
緑の国の王子様のところへ嫁いで行ってしまった。
お嫁入りの際、姫つきの侍女は一緒についていくのが本来のところ。
なのにあたしはここにいる。
それは認めたくないけど、やっぱり、かなり苦いことだったりする。
ユーラは王族ではないのに、姫と呼ばれる。
遠く系譜をたどれば王族の血が入っていることと、なによりお父上であるファルデン候が、この国の宰相と比肩する発言力を持つ方だからだと思う。
このファルデン候は大人物で、とても立派な方だ。
だけど、ユーラがあんな風に「ちょっと変わった」姫になったのは、間違いなくこの人のせい。
いいとか悪いとか言う気はないんだよ。ただ、ユーラが普通の姫様だったら……あたしは今も、彼女に仕えることができたんじゃないかなって思うだけ。
……うん。あたしは、ユーラが大好きだった。
「ユーラに掃除を教えてやってくれ」
侍女としてこの屋敷にやってきたのが、あたしが11歳のころ。
最初にもらった仕事が、これだった。
正直、この立派そうなおじさんが何言ってんのか一瞬わからなかった。
「もっとかたくしぼらないとダメだって、何度も言わせないでください、ユーラ様!」
「う、うん。ごめん、カリン」
ひとつ下、10歳だったユーラは、召使いとしたら全く使えないレベルだった。難しい顔をして雑巾をしぼっているけど、でもその雑巾は、ぬるーくその身をひねるだけ。
「もっともっと、もっとかたくです!」
イライラして、声を荒げる。
だって彼女が拭いた場所って、全部びちゃっと濡れてるんだもん。あとからあたしが拭き直すことになるわけで、腹も立とうというもの。
「本気でしぼってください、ふざけてるんですか?」
あたしははっきり言って短気だ。認める。
自分が仕えているお姫様に、こんな風に怒鳴っていいわけがない。普通だったらありえない。
「……カリン、わたし考えたんだけど」
「なんですか」
「雑巾をしぼる道具って作れないかな」
至極まじめな顔で彼女は言った。
ユーラの顔は綺麗だ。彼女が真剣な表情でなにか言うと、なんとなく説得力があるんだけど、内容はたいていちょっと変だから気のせいってことになる。
「要は布から水分を落とせばいいだけでしょ? そんなに複雑じゃないと思うの。雑巾を広げた状態だと圧力をかけづらいから、折りたたんだりして……そう、適度に厚い方がしぼりやすいと思うのね。雑巾を何枚も重ねて一気に重石を乗せれば、いい感じにしぼれたりしないかな」
とりあえず彼女は本気。あたしは律儀にも、彼女の言っていることを考えてみる。水分って、水のことよね。圧力ってなんだろ。よくわかんないけど、雑巾に重いものを乗せようって言ってることはわかった。
「……そんなことする必要、あります?」
「え、だって、雑巾絞るのって大変だよ……少しでも楽にならないかなって思って」
目をぱちくり、大きく開く。綺麗な赤葡萄の色は、あたしのお気に入りだったりする。
「重石ってのをどんなやつのことかわかんないですけど、雑巾しぼるたびにそんな重たいの持つ方が大変じゃないですか?」
「……ほんとだ」
納得したらしい。でもまた難しい顔で考えはじめる。
あたしはやっと、事情がわかった。
「ユーラ様。あたし、怒ってごめんなさい」
「え?」
「ユーラ様は、一生懸命しぼって、それなんですね…」
一生懸命の結果の、びちょびちょの雑巾。半ば脱力感に襲われながらそう言うと、ユーラはぶんぶんと首を振った。
「ちがう、ちがうのカリン、ほんとはもうちょっとちゃんとできるわ! 兄様が握力をつければいいって言うから、昨日硬いクルミを握っていたの。そしたら今日、筋肉痛になっちゃって、その……」
「……昨日よりやる気がないんだと思ってました」
そう、だからあたしもついイライラしてしまったのだ。いつもよりさらに。
言い訳をあきらめて、ユーラはしょんぼり肩を落とす。
「……まあ。そのうちちゃんとできるようになりますよ」
慰めると、ユーラはちょっとあいまいに笑った。
「わたしは、出来なくたっていいじゃない?」
「え?」
「わたしは貴族の娘だもの。これはお父様の考えでの社会勉強であって、わたしが侍女や召使いの仕事をきちんと務められるかどうかは、重要じゃない」
そういえばそうだった。そもそも掃除なんて、侍女の仕事じゃないし。女主人や侍女がやらせる仕事だから、実際に体験しておけっていう旦那様の考えなんだという。
「でも、わたしと同じくらいの握力の子って絶対いっぱいいるわ。召使いって、小さい内から働きだすでしょう? 雑巾をしぼるのも、モップをしぼるのも、きっと今のわたしより大変なのに、できませんじゃ済まないわよね」
「……そりゃあ、まあ」
ここのお屋敷はかなり待遇のいいところだと思うけど、それでも新入りは相応に苦労するだろう。
「冬なんてきっと指が割れちゃうわ。握力なんて、成長すれば必要な分は自然と身につくと思うし、無理してできるようになるものでもないもの。雑巾を絞ってくれる道具があったら、単純に効率も上がって、それで少し負担が軽くなれば、他の仕事にその分をまわせたり、お休みを増やしてあげたりできるわ。だから、そういう道具があったらなあって思ったんだけどな……」
返答に困って、あたしはユーラの顔をただ見つめる。
彼女はあたしの様子などおかまいなし。
「掃除をしていて、一番つらいのが雑巾をしぼることなのよね……拭くのは結構楽しいし、好きなのよ。目に見えて綺麗になっていくし。ねえカリン、カリンが一番大変だと思うのはどんなところ? 楽になったらいいなってところは……」
変な姫様。
ひとりでぶつぶつ言っていたユーラは、あたしが笑っていることにやっと気がついて、目をまんまるにしたのだった。
ユーラ姫の侍女になるっていうのは、あたしの家としたら大した出世だった。
そしてあたしは、侍女って仕事に憧れと目標を持っていた。
今を時めく、高貴な血筋の姫君。そんな姫君に仕える。なんてやりがいのあることだろう。
たくさんのことをしてさしあげよう。王都の流行を常につかみ、誰よりも美しくお仕立てしてみせよう。恋に悩めば、夜を明かして話を聞いてさしあげよう。
ユーラは思い描いていた姫様像とは違ったけど、それ以上にあたしは彼女を好きになった。心根のまっすぐな、優しいあたしの姫様。
あたしは、たゆむことなく精一杯やったつもりだった。いついつの日もユーラのために、ふさわしい侍女であるべく、彼女の友であるべく(本当はそんなのおこがましいんだけどさ)、務めていたつもりだった。
なのに、結局彼女をたったひとりで嫁がせることになる。
彼女が静かに育てていた秘密に、気づかなかったから。
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