檸檬

世芳らん

檸檬

「あちらのお客様からです」

 声のした方を見やると、二十代後半といったバーテンダーが反対側にいる男性客に視線をやったところだった。若いけれどやり手の実業家、といったところだろうか。着こなしたスーツも一目見るだけでそのセンスの良さを感じさせた。

 男は椅子から降りるとこちらに向かって歩いてくる。そして私の横を通り過ぎて、左にいくつか離れた女性の横へ腰かけた。

 そう、声を掛けられたのは隣の女性である。

 二人は楽しそうに小声で会話を始めた。

 そんな男女を横目に今日もジントニックを口に含む。この店ではライムじゃなくて、檸檬を使う。酸味を強く好む私には癖になる味だ。こういう独り寂しい夜には殊更に強い香りが優しく感じる。


 あいつと別れた時も同じ香りがしていた。

 とても優しい人だった。

 断ることが苦手な私はいつも誰かのためばかりに生きていて、それでいていつも不満ばかりを感じていた。目の前の雑多な出来事に疲れるのか、良い人を演じる自分に疲れるのか、もはや分からなくなるくらいに自分を見失いかけていたとき、彼は現れた。全てに寛容で、それでいて私を守るためならば全てを敵に回すような人だった。

 気付いた時にはもう好きになっていた。

 彼はいつも冗談を言いながら周りを和ませ、誰からも好かれる人でもあった。

 彼は私の作った手料理をいつも喜んで食べてくれた。大げさに感想を言って必ずまた作ってほしいと付け加えた。嬉しくて嬉しくて私は料理の本とにらめっこし、新しいレパートリーを増やしていた。

 ただ一つ、とても気を付けていたことがある。

 それは決して檸檬を使用しないこと。

 彼は檸檬を口にすると体中に蕁麻疹のできる特異な体質をしていた。だから私は彼の口にするものには檸檬を入れなかった。

「他の柑橘系は大丈夫なのに檸檬だけ駄目って不思議ね」

 そう言いながら。

 

 あの日彼は夜遅くになっても帰ってこなかった。寂しくてしょうがなかったけれど仕事だと聞いていたから我慢した。

 突然電話の着信が鳴った。

「ねえ、今どこにいるの」

 彼の声。私が返事をする前に彼は言った。

「店の前で待っててって言ったのに。もしかして先に帰った?」

 頭の中が真っ白になった。

 誰のことを言っているの?仕事じゃなかったの?

 答えずに私は一方的に通話を終了した。

 それから一時間後、彼は私の家にやって来ていた。

 間違えた電話の言い訳をしに来たのか、そもそも電話を掛け間違えたことさえ気づいていないのかも分からなかった。あまりに自然にやって来て、当然のことのように抱き締めてきた。

「ねえ、疲れたでしょう。ジントニック作るわよ」

 私は彼を座椅子に座らせてから、カクテルを手作りした。思い切り檸檬をたっぷりと入れて。

「はい。好きでしょう、ライム入りのジントニック」

 彼が一瞬震えたように見えた。香りで気付いたのだろうか。でも私の視線から目を逸らせないらしく、グラスに口をつけると半分くらい一気に飲み干した。

 後のことはどうなったのか覚えていない。

 皮膚が赤く腫れて、呼吸が乱れて苦しむ彼を置いて私は家を出るなり、車に飛び乗った。

 そして今、地球にいる。


 隣で愛を語らう男女を見るともなしに見つめていると、目の前に先ほどのバーテンダーがやって来た。

「お客様ちょっとよろしいでしょうか」

 男に言われるままに席を端に移す。と、相手が胸の内ポケットから手帳を取り出した。『クエン警察』と書かれている。

「随分探しましたよ、お嬢さん」

 言うなり人工的に作られた右手の皮膚を剥がして、この星の人間からすると随分と長い指と爪をこちらにだけ分かるように見せてくる。どうやら私と同じ星の種族らしい。

「檸檬密売に、檸檬所有、檸檬使用の罪で逮捕します。さらに傷害致傷を付け加えたほうがいいかな」

 そう、我々の星では檸檬は貴重な存在として崇められている。神聖な檸檬を決して口にしてはいけない。食べることもそのために檸檬を売買することも禁じられているのだ。私は檸檬を密売する組織に所属していた。檸檬アレルギーがありながら、檸檬を売買する変な男に惹かれただけのことだ。

「地球は良いわね。至る所で檸檬が食べられるのに。なんでこんな美味しいものが私たちの星では禁じられているのかしら。不公平だわ」

「それには一理ありますが、法を決めるのはもっと上のすることですから。私はクエン星の法に従い、あなたを捕まえに来ただけです」

 男はそう言うなり、また目の前にグラスを置いた。檸檬のスライスのついたジントニックである。

「どういうつもり?私がこれを飲むのを確認した上で、更に罪状を重ねて逮捕しようっていうんじゃないでしょうね」

「私も時には息抜きしたくなる時もありますよ」

 バーテンダーに変装した警察官は自分も同じように檸檬入りのジントニックを飲んでいる。

「しばらく飲めないでしょうから、好きなだけどうぞ」

 まるであいつのような優しい目で言う。

「悪いけど、私クエン星の男には飽きたの。今度は地球の男性と恋するわ」

 鼻で笑って、私はグラスに口を付けた。

 先ほどとは違って、少しだけ苦みの増した味だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

檸檬 世芳らん @RAN2023

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画