文字 Rańā
十四歳になったエルナンナは木の上で羊皮紙に描かれた文字を読んでいた──行商人から手に入れたものだ。バザガーニ族は国を失った時に文字を捨てていた。文字には魔力が宿り、禍いをもたらすと言われている。だから彼は隠れるようにしてそれを学んでいたのたが──
「ナンナー」
「うわっ」
ゴルチャカのティリがぬっと顔を出し、眼窩の翅をパタパタさせた。
「どうしたの?」
「ララ、どこ?」
おそらく弟はティリが寝ている間に出かけたのだろう。エルナンナは羊皮紙を巻いて懐にしまい、木から下りた。
「探しに行こう」
「るーらった」ゴルチャカは尻尾を振った。
弟のウシュラーラは数人の子どもに囲まれていた。子どもたちは時折ばかにしたように笑いながら彼を小突いている。
エルナンナは小さくため息をついた。言葉ははっきり聞こえないが、原因はおそらく自分だろう。
【
子どもたちは幼い頃からエルナンナと関わることを親たちに禁じられていた。しかし、子どもにとって禁忌を避けることは焼き菓子に手をつけずにいることくらい難しい。彼らはエルナンナを攻撃することはなかったが、代わりに弟が標的となることがあった。弟は【橋】だ。人や動物との絆をつなぐ。だから兄のことも見捨てられない。【橋】はそこを行く者を選り好みしない。
エルナンナは短く切った髪をわしゃっとかき上げた。バザガーニ族では髪の毛には力が宿るとされており、みんな長く伸ばしていたが、自分の力を恐れていたエルナンナは十歳の時に鈍らの小刀で切り落としてしまった。ざんばら頭を見た母が「あらまあ……」と言って整えてくれ、それからは鏡を借りて自分で切っていたが、母はいつも「やっぱり変よ」と仕上げをするのだった。
彼の黒髪は一部白いところがあり、ララは「白鷺の羽根」と言っていた。
彼は小競り合いを眺めた。自分が出て行ったら事態は悪化するだろうか。
ティリは巨体をエルナンナの後ろに隠そうとするように縮こまっていたが、当然丸見えだった。ティリがいつも通り歌いながら現れたら子どもたちは面倒がって去りそうな気がしたが、ゴルチャカは悪意というものが苦手らしい。
「石、なげる? あの子たち」
「いいや……」エルナンナは否定してから、ふと気になって尋ねた。「ティリは、石を投げられたことあるの?」
「うんとまえ……おおきい川があったころ」
こいつはいったい幾つなんだろう、とエルナンナは思った。彼はティリの首を軽く叩いた。
「ここで待ってて」
エルナンナは静かに少年たちの前に姿を現し、黙って彼らを見た。
それだけで子どもたちの目に怯えの色が浮かんだ。
「ちょっとからかっただけだよ……」
「ララ、またな」
子どもたちは口々に言いながらわらわらと逃げていった。【橋】とは仲良くした方が良い、という迷信のせいで、ララが完全に仲間外れにされることはない。彼は名前に守られている──名前のせいでいじめられているとも言えるが。彼らと一緒にエルナンナを無視することもできるのだから。
エルナンナは子どもたちの後ろ姿を見送った。彼らはますます自分を恐れるだろう……このごろは背がどんどん伸びて、声変わりも始まった。いま彼を無視している連中もそれを続けるのが難しくなるはずだ。
自分が成人したら故郷を追放されるかもしれない、と彼は漠然と考えていた。生まれる前から定められた通りに。
エルナンナは暗い思考を振り払い、弟に尋ねた。
「大丈夫?」
「うん……さっき、ちょっと格好良かった」ララは服の裾の砂埃を払いながら言った。
「そう……」
ティリがトットットと歩いてきた。
「ララ」
「ああ、びっくりした?」とララ。
「おなかすいた」
「ご飯にしようね」
「るんた」ゴルチャカは少し尻尾を振った。
ティリに砂糖入りの
「ダナ、結って」
髪を結うのは親愛の印である。二人は兄弟なのでそんなことを知る前からお互いの髪をいじっていたけれど。
エルナンナは弟の砂色の髪を軽く梳いた。彼らの母も同じ色をしていて、きっとその姉である産みの母もこんな色だったのだろう。エルナンナはティリの翅と似た紫色の飾り紐を編み込みながら結っていった。
食事を終えたティリがやってきて、ララに向かって「しっぽ、やって」と言った。つまり尻尾の房を結って欲しいということである。すぐに岩や枝に引っかけてぐしゃぐしゃにしてしまうが、結った後に他のゴルチャカに見せに行くと、みな感嘆の声を上げるのだ。数年前に尻尾を結ってもらいたいゴルチャカが何頭も家に来て親たちが追い払ったことがある。
ララが半分くらい尻尾を編んだ頃、エルナンナの方はララの髪を結い終えた。彼は後ろからぎゅっと弟を抱きしめた。
「どうしたの?」とララは尋ねた。
「別に」
エルナンナと親しいのは弟だけだった。
母は優しいが特別扱いはせず、他の子どもにも平等に優しい。母の夫セヴラーは可能な限りエルナンナと関わらず、セヴラーに懐いている妹たちもそうだ。村の人びとは彼を恐れ、いないものとして扱っている。
ウシュラーラは彼にとても懐いていた。それは弟の名前のせいなのか、本当に自分を愛しているのか……なぜ好かれているか分からないので、何をしたら嫌われるのかも分からない。もしかすると、何か弟に不幸が起きた時に自分の力のせいだと思われるのではないか、むしろ、あらゆる出来事の積み重ねで、何の前触れもなく見捨てられて一人きりになる日が来るのではないか、とエルナンナは恐れていた。
自分がいない方が弟の人生が平穏なことは確かだったので、いつかは弟と離れるべきだと思っていた。彼は文字や地図を学んで、今からここを去る準備をしているのだった。
根気強くゴルチャカの尻尾を編むララから離れ、エルナンナは枯れ枝を拾って砂の上に形を描いた。
「何を描いてるの?」
「文字を書いてる」
「文字?」
「行商人に教わった」
ララは何か考えているようだった。普通、バザガーニの子どもたちは文字を見ることすら親たちから咎められるのだ。
尻尾を編み終わると、ティリは嬉しそうに「ててん ててん るんたった」と歌いながら尻尾をぶん回して踊り始めた。
「危ないからあっちでやって」とララ。
「ふるるるるるるる!」
ティリは暴れながら少し離れたところに行った。
それを見届けて、ララはエルナンナの隣にしゃがみこんだ。
「僕にも教えて」
エルナンナの持っていた枝がぽきりと折れた。さすがに咎められると思っていたので、弟の言葉は予想外だった。
「うーん……」エルナンナは迷った。
「内緒にするから」
ララは折れた枝の片割れを拾った。
エルナンナは弟のはしばみ色の
「……ちょっとだけね」
エルナンナはゆっくりと砂の上に模様を描いた。
「最初に来る文字には点を三つつける」
「これが最初の文字?」
「そう、 "Ö" の音。言葉の頭にある時の形」
「頭じゃなかったら形が違うの?」
「うん」
「なんで?」
「……読みやすくするためかな」
ララは何も分かっていない時のティリみたいに首を傾げながらエルナンナの字を真似た。
「 “Ö, š, l, ā, r, a" これでウシュラーラだよ」
ララは難しい顔で六つの文字を眺め、口ずさんだ。
「没薬の煙に、香草茶の湯気に、その言葉が記される……」
「なに?」
「煙が漂ってるみたいに見える。歌の通り」
「ああ……」
「ダナは何でも書けるの?」
「まだ練習してるとこだよ」
「……練習しても村じゃ使えないよね」
「まあね……でも、いつか必要になるかも」
「いつか?」
「うん……」
「もしかして……」
ララはそこで言葉を切り、兄をじいっと見つめた。エルナンナはどきりとした。弟に気づかれただろうか?
ここを去る時は誰にも何も言わないでいようと彼は思っていた──もしかしたら母には話すかもしれないが。彼女は【
ララはどう思うだろう? 弟に自分を引き留めてもらいたいのか、一緒に来てもらいたいのか、エルナンナには分からなかったし、まだ知りたくなかった。
ララは書いたばかりの名前を見つめた。その上で風がゆったりと踊る。
「……字が読めたら、行商人たちともっと取引できるかもしれないよね」
「そうだね……」
何か察したにせよ、ララは追求してこなかった。
「るーらったーた!」
踊りながら戻ってきたティリが二人の文字を踏み消した。
《黒い岩》のウシュラーラ Öšlāra Ődiša f @fawntkyn
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