第5話 置いて行かれた
―――あの出来損ない。
面と向かって言われたことは三回くらいだろうか。
けれどそれ以上に陰でそう言われていることは知っていた。実際、身体が弱いからかカロリーナの半分も両親の望むように出来ないでいた。
兄は行き遅れたら自分が面倒を見るから大丈夫だ、と笑ってくれたけれど、友人たちに出来損ないと言っているのを聞いてしまったことがある。
父や母、妹には直接言われた。
自慢出来る子どもを欲しがっていた母は、軍に入った兄を誇りにしているし、良い縁戚関係を結びたい父は美しい妹を溺愛している。
私はいなくてもいい存在だった。
わかっていたから、部屋で静かに暮らしていた。
迷惑を掛けないために。
それでも、せめてあの華やかな場所で、必死に頑張って覚えたダンスを踊りたかった。その時には、カロリーナはすでに幾つものダンスを完璧に習得していて、男性がヘタでもそう思わせないように動けるようになっていたけれど。
カロリーナは本当に何もかもが上手で、先に生まれたはずの私はいつも心がひび割れていくような感覚を見ないふりしていた。
もしかしたら、そんな日々にも終わりが来るのかもしれない。
それが嬉しいのか悲しいのかも感じられないまま、静かに眠りにつく。やがて、朝が来て目が覚めると、マリセルに手伝ってもらって支度をし終える。
朝食の時間らしい。
「あの、エルミラ様。お伝えするのは心苦しいのですが、ワトリング子爵夫妻はもう発たれました」
正直食べられるかどうかにばかり意識がいっていた私は、突然告げられた内容に目を瞬いた。
「え、それって……」
「もう婚約をしたので後はそちらでよろしくとのことでした」
心臓が嫌な音を立てた気がした。
「そう」
「……朝食はこちらで摂られますか? 無理強いはするなと命じられております」
「公爵……いえ、オルランド様が?」
「はい」
では彼は父と母が私をここへ残していったことを知っているのだ。
ならば謝らなければと思った私は必死に言った。
「いいえ、オルランド様がお待ちなら行かなければ」
「その必要はないよ」
「えっ?」
見やれば、部屋の扉口に立つオルランドがいた。私はびっくりして、すぐに謝ってしまった。
「も、申し訳ございません」
「謝られることを君はしていない。それに、食事はここでとってもいい。私も同席させてもらうけれど」
「は、はい」
返事をしつつ、なんとなく違和感を覚える。
オルランドの顔が昨夜見た時とは何かが違う。
そう、何となく若返ったような気がするのだ。皺も減っているように見える。そんな馬鹿なと思うのに、つい見てしまう。
「どうかしたかな?」
「い、いえ」
確証が持てないのに口にする勇気はない。
そんなことより、同席という言葉に心が落ち着きを亡くしている。戸惑っている私にオルランドは笑った。
「そんなに警戒しなくても、取って食ったりしないから」
「はい、いえ、それはわかっていますが」
答えつつ思い出した。
家を出る前に母に言われたことだ。どうせなら、この顔合わせを機会にして既成事実をつくってしまいなさい。そうすればあなたは晴れて公爵夫人になれるのよ、私の自慢の娘だもの、当然出来るわよね、と―――。
既成事実、とはようするにまるでふたりが男女の関係であると周囲に思ってもらうことだ。もしかしたら、両親はそれを狙って私を置いて帰ってしまったのではないかと思った。
ありえないとはいえない。
「それとも取って食って欲しい?」
「は?」
「そうなっても良くなったら言ってね」
「……」
投げかけられるというよりも、合ってしまった目が全て物語っていた。突然ぶつけられた感情に動くことが出来ないでいると、笑われてしまった。
「ごめん、だけど婚約というのは儀礼的に結んだだけで、本当は君が頷いてくれればすぐにでも結婚したいと思っているんだよね」
次から次へと対処の不能な言葉が飛んできてしまい、私は何も反応出来ない。
「あの、旦那様、恐らくエルミラ様はまだそこまでお気持ちがついていっていらっしゃらないかと思われるのですが?」
たまりかねたらしいマリセルが問えば、オルランドは楽しそうに笑う。
「ああ、わかっているんだけど、彼女がこの邸にいると思うと何だか衝動が止まらなくなりそうなんだ」
「衝動……」
私は思わず口にしてしまう。
一応結婚した男女のことについてごくわずかではあるが教えられてはいる。本当にそんなことをするのか、大丈夫なのだろうか、痛そうだなとか考えたことはあるのだが、実際に身に置き換えてみても何もわからない。
混乱していると、オルランドは謝った。
「ああ、ごめんね。僕はただ嬉しくて仕方ないだけだから」
そう言って私の側まで歩み寄ってくる。
確かに皺が薄くなっている彼は老人から中年くらいになっていた。元々顔の作りは整っていたようで、渋い美形に見える。煌めく紫色の瞳はそのままなので、余計心臓に悪い。
「ワトリング子爵夫妻の様子を見る限り、君はこれからずっとここで暮らすことになるだろうね。彼らは君をどうしても僕に嫁がせたいようだし、僕は君に妻になって欲しい。後は君の気持ちだけだね」
言って、つと私の手を取るとそのまま自分の頬に押し当てた。
手つきはとても優しいようで、別の何かを思わせる触れ方だった。
困り果てた私は返事も出来ずにされるがままだ。
「この顔に触れてくれた女性は君だけだ。この先君以外に現れることはないと思う。どうかな? 少なくとも僕に嫁げば君は公爵夫人だ。どんな贅沢も叶えてあげるから、結婚してくれないか」
「あ、あの……その、ま、まだ婚約したばかりですし」
それに、このまま婚約期間が過ぎれば結婚ということになるのに、なぜこの人はこんなに迫ってくるのだろう。
何より、両親が行ってしまったことを思えば、私はもう家へは帰れなさそうだ。
「それもそうか。ごめんね……でも僕の気持ちを伝えておきたかったんだ」
「そうでしたか。いえ、あの、嬉しいです」
ほとんどうわの空で返事をしつつ、私はやはり彼の顔が昨日と違うことが気になってたまらなかった。しかも、今も少しずつ変化しているような気がしてならない。
とはいえ、口に出す勇気は持てなかった。
「とりあえず少しでいいから食事をしよう。君はもう少し食事を摂るべきだよ」
「わ、わかりました」
「よし、マリセル」
オルランドが名を呼んだだけでマリセルは心得たとばかりに頷いてすぐに退室していった。部屋にふたりきりで残され、私は落ち着かないまま彼を見つめるしかなかったが、見ている間にどんどん顔が変わっていく。
もう、黙っているのは限界だった。
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