エイシストールに魅せられて
下東 良雄
深遠なる線を求めて
あの水平線と出会ったのは、いつだったかしら。随分昔の事に感じる。照りつける太陽と白い入道雲。そして目の前に広がる青い海。あぁ、きっと季節は夏ね。でも、海で泳ぎたいとか、身体を焼きたいとか、普通のひとであれば考えるであろうことは頭に浮かばなかった。
視界の限り真っ直ぐに伸びる水平線。それは空と海の継ぎ目。そう、青空と地球がどこまでも口づけしているの。私はその神秘的な光景にひと目で魅入られたわ。
それからというもの、私は週末には海へ出掛けていって、水平線をただずっと眺めてた。色々な土地の海へ行ったわ。水平線って、その土地々々で表情が違っていて、それぞれに魅力があるの。どの海も本当に素敵だった。
数年前だったかしら。もっと美しい水平線を、もっと壮大な水平線を! そんな気持ちが抑えられなくなって、私は北海道へ向かったの。知ってるかな、
……でもね、そんな
うん、そう。水平線は真っ直ぐじゃなかったの……。
水平線が曲線だったことに、私はショックを受けたわ。地球に裏切られたっていうのかしら。もうそれはどうしようもないし、私にとって本当に絶望を感じた瞬間だった……。
失意のまま北海道から帰ってきて、私を襲ったのが大きな喪失感。あの美しい線をもう感じられない。そう思っただけで、死にたくなったわ。あっ、ウソだと思ってるでしょ! 本当なんだから! 私は美しく伸びる直線がどうしても必要な身体になっていたのよ。だから……だから、本当に辛かったの。
でもね、ある時気がついたの。身近なところに美しい線があることを! そう、大学ノート! あの幾本も伸びる
それと、ちょっと浮気もしちゃって……音楽の五線譜が素敵! あ、ト音記号とかいらないから。五線譜オンリーが最強ね!
このふたつには心底ハマったわ。あれ? 私の部屋、見たことあるっけ? そうそう、壁中に大学ノートから切り離したページや五線譜が貼ってあったでしょ? あのね……すっごく興奮するの。理想のひとに囲まれてる感じっていうのかな。もうね、自分で何度も……って、何言わせるのよ! まったくデリカシーないんだから!
ただ、それも長くは続かなかったわ。大学ノートも五線譜も美しいんだけど、海の水平線のような壮大さや深みがなかったの。二度目の失恋かしらね。私はまた絶望したわ。
もっと美しく、もっと壮大に、もっと深みのある、そして永遠を感じさせる。そんな水平線を私は探した。自然界にないのか。工業製品にないのか。建物にないのか。コンピュータグラフィックで再現できないか。
あったの! あったのよ! 私の理想の水平線が!
それが例の線。自分の手で生み出せるっていうのも魅力だった。私は何本もの水平線を生み出したわ。あの直線になった瞬間、何物にも代え難い快感が私を貫くの。きっと麻薬ってあんな感じなんじゃないかな。だから、私もきっと『水平線中毒』かもね。ふふふっ。
さてと、また水平線が欲しくなちゃったから、そろそろ帰るね。えっ? 何で? 私を邪魔する権利はないはずよ! えぇ〜、何でよぉ〜。そんなイジワルするなら、もう怒っちゃうからね! ぷんぷん!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
何かの建物の中だろうか。扉から廊下へ出てくるふたりの男。ふたりは、顔を見合わせて大きなため息をついた。
「アレ、どうですか……?」
「どうですかって……どうしようもねぇな……」
「でも、あれが市内数ヶ所の病院で発生した連続殺人の犯人ですよ?」
「まさか殺しの理由が、心電図の波形を直線にしたいからだとは思わなかったぜ……そりゃ無差別殺人に見えるわけだ……」
「心静止状態の心電図のこと、『深遠なる線』、『永遠の水平線』……そんな風に言ってましたね……」
「完全に狂ってるな……」
「警部、あの女を罪に問えますかね……?」
「……わからん。心静止アラームまで止めてたから殺しの意図が明確とも言えるが……まぁ、精神鑑定の結果次第だな」
警部と呼ばれた男は、出てきた扉に設けられた窓ガラスから取調室の中に目を向けた。中で座っている若い女性は、恍惚した表情で供述調書の
※エイシストール(Asystole)
心臓がその活動を完全に止めた心静止状態を指す医療用語。「エイシス」とも言う。心電図上ではすべての波形が平坦となる。心停止の中でも最も深刻な状態。
エイシストールに魅せられて 下東 良雄 @Helianthus
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