第6話 (最終話)


 週明けの月曜日、ゲンさんのところにいた男子たちはみんな、目の下に隈を作って、ゲッソリしていた。学校内では賢三だけが知る原因だった。。。

あいつら、週末は猿化していたのだな。。。本格的な猿にならないようにしなくては。。。 今日は帰りにゲンさんの所に寄ってみよう。


「ゲンさん、こんちわ〜! 仕事終わったら、ちょっと話せる?」


「おー、賢三。『サンダー』」


「『フラッシュ』・・・って、なんで俺? アレは不要なんですけど。。。」


「相変わらず乗りが良くて好きだぜ、賢三(爆笑)もう、出られるよ。あとは雄ちゃんが片付けてくれるから。 木戸から奥に行っててくれや。すぐ行くから。」


 賢三は木戸を通ってゲンさんの家の離れに入った。よく見回すと、ミュージシャンのポスターなどが貼ってあり、なかなかのオーディオルームでもあった。マイルス・デイヴィスとジョン・コルトレーン、そしてビル・エヴァンスの大きなポスターは迫力がある。この3人が生きている時にライブが観られたら、最高だったろうなぁ。。。横須賀のストンプのオーナーはその貴重な一人だ。コルトレーンのライブを見たのは16歳だったという。多感な年齢であれに出会えるって、なんて幸運な人なんだろう。。。


「おまたせー! これ、枝豆とザル豆腐だ。ビールでいいだろ?」


「うわぁ、ザル豆腐がうまそー! ビールは1缶だけね。まだ少し練習したいこともあってね。 ところで、生徒たちはどう? なんかみんな目の下に隈作って登校してるんだけど。。。(笑)」


「まぁ、すでに追加の品を買いに来たやつもいるんだ。。。ま、不器用で失敗してどうにもならなくなったらしいがな。。。仕方がないよな、初心者だし。(笑)」


「それなんだけど、理性を育むことをちゃんと指導してくれてる? それが心配でね。。。」


「まぁ、最初の1週間は、もれなくみんな猿化のように感じるかも知れないな。彼女がいるのは平沢くんだけみたいだし、同意を得ることをちゃんと教えておいたけどな。チャンスがあったらね。。。なんて悠長なこと言ってたぞ。なかなか紳士的な男子だと思った次第。あと、勉強に差し障りのないことが前提だと言ってあるんだけど。。。」


「平沢くんの彼女の方は、今、フルートに興味持ってくれてさ、俺が指導してるんだよね。。。平沢のことよりもちょっと比重がフルート寄りみたい。。。平沢も、今度の俺達のライブのポスターで頭いっぱいだったから、ゲンさんの講義、彼の活用はもっと先かもしれないな。。。ちょうどいいよ。俺としては、みんなにもっと官能小説なども読んでほしいんだ。想像の世界って必要でしょ?」


「小説で想像の世界を広げるって、男女ともに読むべきだけど、女子のほうがもっと必要だと思うな。今は、少女漫画のほうが際どいシーンを描いているみたいだから、女子も勉強しているとは思うけど、やっぱ、想像の世界って人それぞれだけど、人格を大きくしてくれる要素は文字からかも知れない。漫画には文字も含まれるから更に良いということだな。漫画家の裁量にもよるが。。。」


「俺達って、音楽で気持ちや想像の世界を広げているよね。感動ってそれを促すんだよね。ジャズに関わっててよかった。杏子に出会え、彼女に感動できたのも音楽からだし。」


「いやほんと、お前たち夫婦は、観ているだけでも幸せな気分になるけど、ステージで演奏して彼女が加わったときなんか、凄いものがある。よかったな賢三!本物のディーヴァに出会えて、恋に落ちて。お前を性教育をした俺は誇りに思うよ。」


「あ、はい。。。お世話になりましたよ、まったく。(笑)」


 賢三が実家に戻ると、一ノ瀬くんが来ていた。先週のライブをDVDに収めてくれてあった。学校にも渡してきたらしい。


「最高の評価をもらったよ。やっぱりバッハを先に取り入れたのは正解だった。どちらもできるという技の披露っていう感じ。それに、燕尾服は良かったってみんな言ってた。賢三のときもきっと受けるぞ! そっちは翔平も来るし、杏子さんのヴォーカルも入るんでしょ?最高じゃん!そっちのDVDも任せてくれ!」


「翔平は確かに良い音を出してくれると思う。オーボエもすんなり承諾したよ。びっくり。杏子はChicago songでスキャットだけね、彩子の脇に座らせるつもり。この前、連弾して遊んだって言ってたよ。杏子もピアノは少し弾けるからね。彩子が感激してた。真隣りで歌声を聞くと、結構感動しちゃうんだよ、杏子の声って。。。みっちゃんが来るらしいからいいけど、また翔平が杏子見て狂っちゃったら困るんだよね。。。」


「翔平ね。。。珍しくメールで謝罪が来たよ。『行けなくてごめん』っていう短いの。(笑)成長したよね。 美津子さんも来るなら大丈夫だよ。 じゃ、俺行くね。この前受けたからチェロもう少し練習したいし。来週な!」



 その週の授業や学校行事は力が入った。ただ、部活は篠先生に一任して、自分のパートを練習したくて仕方がなかった。しかし、生徒たちは質問を含め、部活としてのモチベを上げてほしくて、賢三に絡んできていた。伊藤理恵は正式に吹奏楽部(軽音部)に籍をおいた。一生懸命に初心者用の楽譜を読み込み、練習している。平沢くんは、許可を得て入室しているが、グラフィックデザインの勉強をしていた。下校は一緒にという約束があるらしい。微笑ましい・・・と思ったが、ただ彼氏と彼女のそれだけではないみたいだった。


 伊藤理恵は、あの若干派手目な品田有子から呼び出されてなにか言われたというのが明らかになった。いつもはおとなしい伊藤理恵、すでに彼氏とされている男子がいるのに、実習生の賢三に媚を売って、フルートを習い始め、独り占めしているということらしい。。。

 そんなことはないのに。。。この年齢の女子生徒は非常にセンシティヴである。しかし、伊藤理恵は全く動じず、堂々と『それの何が悪いの?』と言い換えして、一悶着あったらしい。平沢は、品田有子が意地悪だけじゃなく手を出して傷つけそうだと判断して、登下校を一緒にするようになったと言う。


「篠先生、それって自分にも責任あると思うべきですかね? 自分は何もしていないんですけど。。。なにかするべきでしょうか?」


「いいえ、林先生がなにかすることはないと思います、彼女たちに話を聞いてみるのも良いかも知れません。私が話てみます。先生は、今までと同じ態度で接してあげてください。特に伊藤さんはせっかくフルートに興味がでたばかりなので、そんなことで止めてほしくないですしね。」



 あと少しなのに、関わった生徒が揉め事得お起こしてほしくない。まして、一人はフルートを始めようとしていると言うのに。

 篠先生は女子二人を呼び出し、話し合いをすることにした。伊藤理恵は快く応じたが品田有子は、不服そうだった。それでも従わないわけには行かないと念を押されたようだった。


「品田さん、なにか伊藤さんに対して少し過度に接していると複数の報告があります。やや暴力的だったとも。。。どんな理由があっても怪我などはあってはいけませんから、今のうちに対処したいです。何があったのですか?」


「暴力なんか振るってません。ただ、実習の先生に普通以上にかまってほしいようで、見ていて不愉快になっただけです。」


「私は楽器に興味を持っただけです。親しくしている平沢くんが、林先生の音楽の発表を宣伝するのを手伝っていて、とても楽しそうだったので、一緒に見ていたのですがフルートに興味が湧きました。音楽の先生からそういう影響を受けるって、よくあることではないでしょうか?」


「はい、よくあることだと思います。私のような教師ではできないことを後輩といえる林先生が難なくこなすので、羨ましいと思っているほどです。私も大いに彼から影響を受けています。 品田さんは林先生に興味が湧いたのですか?」


「伊藤さんは彼氏がいるけど、私はいませんし、林先生って、私の好みなんです。だから私よりも親しくしているのがあまり気に入らないというのが本音です。そういうのっていけないことですか?」


「異性に恋することは決して悪いことではないです。ただ、どんな場合でも人としての理性は身につけておきましょうね。林先生は一番最初におっしゃっていたように、既婚者です。ファンとして憧れたり「推し」という感じで考えているとしたら、それは良いと思います。林先生はバンドもやってますしね。でも、その気持が元で、他のお友達に意地悪をするのは、止めなくてはいけないと思います。幼稚園生ではないのですから。」


「私は純粋にフルートを習いたいのです。きっかけをくれたのが林先生だったわけですから、何も悪いことはしていません。品田さんに、嫌なことをされることはおかしいと思います。」


「嫌なことって、自分がそう思ってるだけじゃないの?」


「まぁまぁ品田さん、そういう風に取るのはよくないですよ。林先生だって、そういうのは不快に思われると思います。もう少し、音楽を楽しむ方向で林先生に接したほうが良いと思いますが。

とにかく、林先生の教育実習は、もう終盤です。最終日が終わってから、せっかく学校のためにコンサートをしてくださるのですから、一緒に楽しみましょうよ。」


 品田有子は、不服そうな顔を直そうとはしなかったが、恥ずかしいという気持ちはあるように見えた。


「私はフルートが習いたいのです。そして林先生の指導が非常に身につくと思っています。だから、他の人から難癖をつけられるのは困ります。悪いことをしているわけではないからです。品田さんにこれ以上何も言ってほしくありません。」


「わかったわよ!もう何も言わなきゃ良いんだろ?」


「はい、もうそういう言い合いはやめましょう。とにかく今後は、お互いを刺激しないようにしなくては。 品田さん、伊藤さんがフルートの練習で音楽室に行くことや林先生と接することは、当たり前のことなので、どうか個人的に妨害するようなことは止めましょう。それよりも、品田さんもなにか楽器を始めませんか?一緒にできるもの、選びませんか?」


「私は聴くほうが好きなので、色々と聴いてみることにします。林先生のバンドを観て、なにか見つけたいと思ってますから。」


「あぁ、そうなのね、もしも楽器がやってみたい時はどうか私に言ってみてくださいね。何かしら協力できると思いますから。」


 なんともスッキリしない話し合いの結果となった。。。『意地悪や虐めは止めなさい』というだけでおしまいになってしまった。篠良子は、自分の力量の無さに、落ち込みそうな気分だったが、2人を言い合いさせたことは良かったように感じた。結果が仲直りではなく、今後お互いを干渉しないというものだとしても、大きな問題を起こすよりは良いと思えた。 林賢三なら、どうやって接して解決するのだろう??と、少し興味をひかれた。。。どこをどう考えても、自分よりも実習生のほうが1枚上だと思える。自分は教師として今まで何をやってきたのだろう?と反省させられる。でも、今気づかせてもらえて、良かった。林賢三には感謝しないと。ふと思った、あの人と巡り会えた奥さんって、どんな人だろう? なんて幸せな人だ。。。

 帰りは品田さんはさっさと走って帰っていった。伊藤さんは歩調が遅かった。


「篠先生。フルートは林先生がいなくなっても、ちゃんと続けますから心配しないでください。続けていればまた林先生と会えるかもしれないと思って。。。さっきはあのように言いましたが、私、林先生が好きです。平沢くんよりも、ちゃんとした恋だと思っています。だから品田さんにあのように言われても仕方がないんです。」


驚いた。。。伊藤理恵はここまで正直な子だとは思わなかった。半ば、羨ましい。


「伊藤さん。。。林先生に憧れるのはわかります。実際私だって、なんて素敵な人だと痛感するところがあります。でも、彼は既婚者ですし、『推し』として、『ファン』として支える形が誰にとっても一番良いことなのではないかしら?」


「篠先生も林先生のことが好きなんですね?」


「いや、そういう恋愛感情じゃなくて、一教師として、すでに教師である私が憧れるほど素晴らしい才能があると思っているんです。それから、何度も奥様がいかに素敵な方か、彼自身から聞いています。夫婦愛って、それを知らない者たちには、触れることすらできない確固たるものだと思うの。」


「そうでしょうか? 離婚する人たち、すごく多いですよね? それって、多くは他に好きな人ができたからだって聞いてます。だからそんなに固い絆とは限らない。」


「確かにそういう人達もいるけど、林さんは、そういう人じゃないと思う。私達は、『推し』になって応援しましょうよ。」


伊藤理恵は悲しそうな顔をした。この子は本気で恋をしてしまったのだろう。私にはどうしてあげることもできない。。。少しずつ諦めてくれることを祈るしかない。平沢くんが、もっと健全な恋に導いてくれることを祈ろう。。。なんか、こと『恋』に関しては、私はこの中学生よりも劣る気がしてきた。。。




「えー、1ヶ月という短い間だったけど、今日で自分の教育実習が終了します。生徒のみんなには公私ともに沢山話ができたように感じるのだけど、みんなが少しでも音楽に興味ができてくれたら、すごく嬉しいです。 そのお礼も兼ねて、明日の土曜日、自分の大学仲間で作っているバンドでコンサートを開きます。いろいろなことを言ってるだけじゃなくて、ちゃんと音楽で観てもらおうと思います。
ポスターは平沢優くんにお願いして作ってもらったものが評判良くて、地元の商店街でも話題になってます。 バンド名は『ザ・トレイターズ(反逆者たち)』です。ま、『グレた五人囃子』とも呼ばれてるけどね。(笑)メンバーの中には天才と言われる人もいるから、みんな楽しみにしてください。これを逃すと二度とタダで見ることはできません! じゃ、みんな、どうもありがとうございました!」


「先生!どこの高校で働いているか、篠先生には教えておいてね。向こう3年の間なら転校してでも追いかけていくぜ! 『サンダー!!』」


「おい。。。『フラッシュ。。。』あ、バカ!乗せるなよ!。。。みんなゲンさんにもお礼言ってね。。。」


「大丈夫!またバナナ買いに行くよ! フィリピンバナナをね!(爆笑)」


「ははは・・・ま、レベル上げのレッスンがあるかもしれない。達者でがんばれ!未来を担う少年たちよ!(爆笑)」




翌日の土曜日、バンド仲間は翔平を除いて全員と、各々のお世話係が賢三の家に集まった。

「翔平は美津子さんが直接学校につれてくると連絡があった。ごねているわけではないが、美津子さんはできるだけ杏子と被らないようにしようとそているようだった。杏子はもう大丈夫だと言っているが、念には念を入れておかないと、というところかもしれない。美津子オカンは手厳しいからな(笑)」


一ノ瀬と絵美里は、楽器の準備を入念にやっていて、みどり子とクリスは燕尾服を各サイズに分けていた。学校で更衣室として教室を借りられるらしい。靴もしっかりと準備されているところは、流石、みどり子! 更には女子だけお化粧品を持参した。国井彩子も杏子も、普段は化粧っ気のない女性だが、すれば化粧映えのする美人だということは周知の事実。2人共に口紅だけは普段よりも濃い目の赤にした。それは、絵美里の見立てで、流石のコーディネートである。

そして、移動は、ゲンさんがお店のハイエースを持ってきてくれた。出陣です。


まだまだ先生や生徒も地域のみなさんも来る時間じゃないので、車を降りて、楽器を更衣室になる教室に運んだが、鈴木一也は早々にドラムキットを体育館に運んだ。一ノ瀬くんと賢三も一緒に行き、PAを完成させるようだった。絵美里さえいれば燕尾服に着替えるのは、すでに2週間前に練習しているので、簡単だった。


女子の更衣室は朗らかな笑いが響いていた。杏子は家でヴォイトレを済ませてきたので、鼻歌程度を口ずさんでいる。杏子はスキャットだけというのもあり、彩子と仲が良いので、ピアノの連弾ができるように並んで座ると約束している。彩子は杏子のトラウマを十分に理解していた。


紺色のレンジ・ローバーが校庭に入ってきた。美津子さんと翔平だった。マスターも来たがっていたが、土曜日は休めないのでビデオで観るということにした。 翔平は機嫌が良い。美津子さんに付き添われて体育館に直行した。舞台脇で着替えさせると言うので、絵美里は走って翔平用の燕尾服を取りに行った。

 絵美里といっしょに女子たちも体育館に入り、全員が揃った。翔平は杏子に気づき、一気にモチベが上がったようだった。美津子さんが翔平の頭をコツンと叩き、いなしていた。まるで七五三の子供を着替えさせているような雰囲気だった。


全員が舞台袖に集まると、それは壮観な雰囲気を醸し出していた。燕尾服などの礼服には、やはり、威圧感が出るものだ。


「杏子ちゃん、久しぶり。男の服着てても色っぽいよ。ハグしたい。。。」


「翔平、久しぶりね!みっちゃんが一緒で良かったね!」

 そう言って、翔平の頬をなでてあげた。翔平はうっとりしていた。そこへすかさず賢三が来て。。。


「よー!翔平、何やってんだよ。お前は杏子に触れないんだぞ!わかってるよな。。。」


「わかってるよ。。。杏子ちゃんが頬を触ってくれたんだよ。。。みっちゃんもいるし、みっちゃんは燕尾服着せてくれた。俺、愛されてるんだぜ!」


メンバーはそれぞれに楽器を持ち、リハーサルを始めた。翔平は最も豹変するから見ている美津子もドキッとするほどカッコよかった。 そこに篠先生が入ってきた。音響のことなどを一緒にやるつもりだったようだが、翔平の容姿に見とれてしまっている。。。それを翔平も見逃さなかった。美津子はハッと気づき、篠先生に話しかけた。


「こんにちは。林賢三の関係のものです。最初にクラシックを演奏するので、燕尾服を用意しました。この子は大谷翔平、トランペットですが、今日はクラシックの方でオーボエを担当します。主役は賢三ですので、控えめに行きます。いつもはこの子が目立つもので。。。」


「こんにちは。篠良子と申します。音楽担当の教師で、クラスも3年生を受け持っていまして、林先生の実習担当をさせていただきました。彼は優秀で、教師になるべき人だと思いました。今日は素敵なバンドで演奏を聞かせてくださるそうで、ありがとうございます。音響のことなどのお手伝いに来ました。」


「あんた、音楽の先生なんだ。ピアノでしょ? 違う? 感じを見るだけで何を奏でるかわかるんだ、俺。大谷翔平です。林賢三は、俺の恋敵です。(爆笑)」


「はい、お察しのとおり、私はピアノ科を出ています。今日は、よろしくおねがいいたします。」


篠先生は、翔平の視線が気になった。男性からの視線で追われることなど今まで気づいたことがなかったので、気恥ずかしい思いだった。頭を下げて、舞台の方に向かった。 賢三と一ノ瀬が話しながら調整をしていた。燕尾服の賢三を観て、ため息が出てしまいそうになった。


「あ、篠先生、こんにちは。適当にPAやってますので、ご心配なく。あ、こちらは一ノ瀬晶です。あそこでバイオリンもっているのが鈴木一也で、ジャズの方ではドラムを担当します。一ノ瀬はベース全般をやりますが、本来はコントラバスなんですが、今日のバッハではチェロを弾きます。彼も実習生でしたがすでに終わってて、やはり最終日に同じバンドの演奏をしています。大成功でしたよ。」


「一ノ瀬です。今日はよろしくお願いします。何かありましたら、僕が動けますので、遠慮なく声をかけてください。」


「篠良子です。今日はよろしくお願い致します。」


「あ、そうだ、篠先生、こちらに来てください。おーい、杏子!こっち来て。
はい、これが俺のワイフ、杏子です。プロですが、今日はピアノといっしょに座り、スキャットのみで参加します。ピアノは国井彩子です。」


「はじめまして、林杏子です。賢三が大変にお世話になりました。良い先生になれるように頑張っていたでしょうか?」


「はじめまして、お目にかかれて光栄です。篠です。林先生は、私よりも音楽の教師には適任です。教えることよりも遥かに沢山、彼から学ばせていただきました。奥様のことも、聞かせていただいています。素晴らしい歌唱力だそうですね。」


「はぁ、スタジオミュージシャンですから、地味にやってます。(笑)」


「杏子と俺は、肺活量が共通点でしてね。(爆笑)今日はバンドのサポートのような感じで来てもらいました。」


「何か不便なことやその他、わからないことがあったら声をかけてください。私の他にも、科学の西田先生も手伝ってくださいます。あと、ご挨拶は校長がしてくださいますので。」


篠良子は、杏子の醸し出す女性的な、なんとも言えない妖艶さに圧倒されてしまった。自分が少しでも心を持っていかれそうになった男の伴侶は、到底自分が到達できない美しさを持っていたのが良くわかった。


 しばらくすると、生徒と関係者、そして商店街の人々も続々と体育館に入ってきた。賢三たちは、舞台の袖奥に入って、準備をしている。賢三は隙間からゲンさんが生徒4人に囲まれて入ってきたのが見えた。人気者になってしまったようだ。変な新興宗教の教祖様のように見えないと良いけどな。。。


校長の挨拶が始まった。


「今日は土曜日で、休校日にも関わらず、沢山の皆さんにお集まりいただき、私からもお礼を申し上げます。ありがとうございます。
このコンサートは本来、生徒と職員だけに振る舞う予定でしたが、地元出身の未来の先生と、大変に優秀な芸大のバンドの皆さんなので、絶好のチャンスと思いまして。広く地域の皆さんにもお越しいただきました。音楽のジャンルにこだわらず、そして、本当に優秀なミュージシャンは、クラシックもジャズも演奏できるという証をここに見せていただくことになります。ビデオ撮影、音楽録音は、どうぞご自由に。
では、始めていただきます。ザ・トレイターズこと、グレた五人囃子+ディーバの皆さんです。」


賢三が前に出た。舞台に立った3人の男は全員が180cm以上の高身長なので、燕尾服を着ていると舞台映えしている。客席の最前列に平沢くんと伊藤さんが座っていた。伊藤さんの目は最初、賢三に吸い付けられていたが、隣に翔平という、なんとも色気のある長髪の男にも引き寄せられているようだった。隣の平沢くんはと言うと、ピアノの方を観ていた。どうやら、視線の先は杏子だった。


一ノ瀬くんが椅子に座り、小さく拍子をとって始まったのはバッハのバディネリ。賢三のフルートの腕を十分に発揮できる名曲だ。翔平のオーボエがフルートを邪魔することなく本来ならビオラの楽譜をこなしているし、静かに奏でられた。鈴木君のバイオリンも優しく、とにかくフルートを前面に出し、メインはこの楽器であるというのを示した。 伊藤理恵は圧倒された。賢三のフルートは素晴らしく、繊細な楽器なのに力強さを感じさせて、燕尾服で演奏している彼はどこぞの国の王子様にも見えてしまうのだった。

 たった2分足らずの曲なのに、客席は感動に固唾をのんでいた。長身で、容姿も良く姿勢も良い音楽家たちの演奏という印象は、父兄にとっては大いに納得の行くものらしく、品格を最上に表す燕尾服の効果は絶大で、大成功である。みどり子も上機嫌だった。


 大拍手に対し、会釈を十分にしてから自分たちのメインの演奏に入った。今日はすべてがコピー曲なので、ジャズ好きな大人はすぐに反応する。ゲンさんは生徒たちに少しはジャズを教えてくれているだろうか?生物学的なことだけじゃないことを祈る。

今日は翔平がいるので、音は激しくなるだろう。チェット・ベイカーよりもマイルス・デイヴィスかな。。。最初の曲はそれを見込んで “Hannibal” にした。森の小径を思わせるようなバッハの”バディネリ”だったが、題名の意味を知ってる人は、ジャズバンドの”おふざけ”であったと思ってくれるかもしれない。

 賢三と翔平の絡みは、久しぶりだったこともあって、びっくりするほど小気味よく絶妙なタイミングを見せていた。ゲンさんは思わず唸った。 袖の近くから見ていた杏子も美津子といっしょに体が動いてしまうほどだった。 篠良子は放心状態と言えた。自分のピアノでは国井彩子のようには弾けない。。。出身校からしても実力は同等なのに、彩子のような奔放さが出ないだろう。。。

”Chicago song”に入って、杏子が彩子の隣に座り、スキャットを入れ始めると、会場の人たちのほぼ全員が杏子を観た。翔平は思わず駆け寄りたくなったが、杏子の真後ろに、オカンの美津子がいて、ニヤリと翔平を見返していた。

 ママは怖い。。。でも、賢三をピークにさせるには杏子に近づくことだと、翔平は知っている。


賢三と翔平の息がピッタリの時は、プロでもドキドキするほどの演奏をしてくれる。それを篠良子は感動しながら見つめていた。この1ヶ月あまりという短期間で、林賢三が篠良子に与えた影響は絶大だった。さらには、15歳の生徒たちの大きな心の変化や表情の違いが、目に見えてわかることを校長も理解した。


大人になりきれていない思春期の少年たちは、こういった刺激が必要なのだ。頭から抑えない、でも、人としてのマナーは身に着けないといけない時期。林賢三は教師に向いている。


1時間弱の演奏は、アンコールの上乗せを3回やって90分を超えたが大成功に終わった。観衆たちは、満足げに帰っていった。何も事故が起きなくてホッとした賢三だった。

 着替えたあとにすべての機材や道具を運び出し、掃除まで終わってから校長が家庭科室に来るようにとメンバーを促した。行ってみると沢山の食物と飲物が用意され、打ち上げパーティーの用意ができていた。全部、谷先生がやってくれたそうだ。アルコールがないことに翔平が不服そうだった。生徒は全員帰ったはずなのに、平沢くんと伊藤さんだけは残って、家庭科室の前に立っていた。


「平沢くんと伊藤さん、よかったら一緒にどう? 林先生も嬉しいと思うよ。平沢くんはポスターも作ってくれたし、伊藤さんはフルートを始めてくれた生徒だし、個人的にもお礼を言えるチャンス。あなた達は協力者だもの、打ち上げに参加できる。林先生は、もう来週からはもうこの学校には来てくれないからね。 私が許可します。入って!」


以前なら絶対に言わなかったような言葉を言ってみて、篠良子は、少し赤面した。2人の生徒は喜んで入ってきた。 賢三は、くたくたになっていそうだったが、校長と話していた。翔平は、美津子さんに付き添われていたが、杏子に限りなく接近していた。そこに伊藤理恵が唐突に入ってきた。

杏子はすぐに理解した。『この子は賢三が気になっているのだ』それと同時に、翔平を睨みつけるように観ている伊藤理恵だったので、不思議に思った。


「あの、林先生の奥さんですか?」


「はい、そうです。林杏子です。はじめまして。」


「あ、はじめまして。伊藤理恵です。林先生に薦められてフルートを始めたのです。」


「あぁ、あなただったのね? どう?楽しい?」


「はい、すごく楽しくなりました。まだやっと音が出ている感じなんですけど。。。」


「大丈夫、誰もが最初は同じように音が出せないのよ。沢山演奏を聴いて、沢山練習をすること。でも、いちばん大切なのは楽しむこと。賢三先生はそう教えたと思うのよ。だから、頑張ってね!」


「なぁ、俺はね、トランペットを始めたとき、すぐに音が出たんだけどさ、その時にはすでに好きな曲とか見つけてたんだよ。好きな曲と、好きな女性、そして憧れ。。。俺、子供は相手にしないから怖がらないでいいよ。。。この人みたいな色っぽい女性になるのは、簡単じゃないんだよ。。。恋を知らないとな。。。この人みたいな女に出会えるかどうかは運命でね。。。君の考える良い男に出会わないと、その後にも先にも本物の恋はできない。。。」


「こーら!なに超難解な理論を話しているんだ翔平!オカンがトイレから帰ってきたぞ!  あ、伊藤さん、今日は来てくれてありがとうね。この人は僕の奥さん。で、こっちは、頭のネジが飛んじゃった俺たちのトランペット奏者。実は天才。。。認めたくないけど、こいつのトランペットは本物。伊藤さんも自分の音を持って、楽しまなくちゃね! あ、またあっちに呼ばれちゃった。すぐ戻るから。」


賢三は早足で谷先生のところに行った。


「あの、、、杏子さん。奥さんはどうやって林先生と出会ったんですか?どうやったらあの人に好きになってもらえたんですか?」


杏子は、伊藤理恵のあまりにも直球な質問に少し驚いた。


「私達は、あくまでも自然体で出会ったの。賢三は私に『絶対』を表してくれて英語でいうと”Unconditional”だということを確信させてくれたの。だから私も落ちてしまった。。。伊藤さん、そういうところは大人になろうとしなくていいのよ。恋は落ちるものなの。それは必ず分かるから。 ということで、賢三は誰にもあげない。」


伊藤理恵は衝撃を味わった。こういうのが完璧な愛と信頼感なのだと思った。この完璧に近い女性の圧倒的な自信の前には、手も足も出ないと悟った。 すぐ脇にいた平沢くんと翔平は、ほぼ同じような気分を味わっていた。


「あぁ、杏子ちゃん、、、好き。。。俺のところに舞い降りてよ。。。」


それを観て聴いて、平沢くんと伊藤さん、さらには篠先生までも愕然とした。


「はい、ご苦労さま〜!向こうに行こうかしらね、翔平!」


そう言って、美津子さんは翔平を連れ去った。翔平はヘラヘラしていたが、美津子の言うことは絶対だった。。。そこへ賢三が帰ってきた。


「どした?また絞られてんのか翔平は。。。 あ、みんな、彼はね、ちょっとネジ外れてるけど天才トランペッターだってことはわかるよね。。。あいつの夢の中に杏子が背中から羽をはやして登場してしまったんだよ、以来、あんな感じなんだ。。。ははは。。。 って、あれ?平沢??お前、なんか変??」


平沢くんは杏子を見つめてボーっとしていた。賢三はどう対処しようか困っていたら、ゲンさんが来てくれた。


「お?平沢くんだね。。。なっちまったな。。。平沢くん、これはね、杏子マジックなんだ。引き込まれるだろ? 君は杏子ちゃんがヴォーカル取った時に彼女を観てから目が離れてないのを俺は感づいてたよ。昔の俺も同じだった。 でもね、彼女は手に入らないんだ。賢三という、とんでもない毒薬をゲットしてしまったからね。悲劇さ。。。タダ、これは君にとって最高の試練。平沢くんは今、本物が何かを見つけたんだ。だから、彼女からの印象、または、もっと心を持っていかれる人に出会うのを見逃さなくなったってことさ。分かるかな?『サンダー』。。。」


「ふ『フラッシュ』。。。うん、わかったような気がする。林先生、あんたって、すげーラッキーな人なんだね。」


「何言ってんだか俺にはわからないけど、その通り! 俺の奥さんは宇宙一なんだ。平沢もそう思える人が見つかるといいな。」


そう言って、賢三は杏子を抱き寄せ、見つめ合った。そこには誰も入り込めない完璧な”Unconditional”が存在した。


こうして、賢三の未来の夢を抱いた教育実習が完了したのだった。



(完)

☆この続きは「こんなに愛しているのに。。。(杏子と賢三の物語)」にて。

 『それぞれのポートレート』にも教師になってからの賢三が登場します。






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賢三の教育実習 『こんなに愛しているのに。。。杏子と賢三の物語』番外編 @k-n-r-2023

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