二 火守の若君 (7)
案内された部屋は、のの花や離れで働く女性たちがことりのために急ごしらえで用意してくれたらしい。畳敷きの和室には、月のかたちの丸窓があり、文机には椿が一輪、鉄の花器に生けられている。雪見障子をひらくと、赤い椿が咲く庭が現れた。
「お召し物はサイズがわからなかったので、ひとまず椿姫さまが持っていたお着物を用意しておきました。あ、でもお洋服のほうが慣れていらっしゃいますか?」
「どちらでも平気です」
ことりが今着ているのは、魔女に貸してもらった白のワンピースだ。雨羽の家は普段は洋装が多かったけれど、神事がある日はことりも離れで専用の装束に着替えて一日を過ごしたため、いちおうひとりで着つけることもできる。
見せてもらった和箪笥の中には、華美ではないが、丁寧に手入れをされてきたとわかる着物が何枚かしまってあった。それに化粧台や小物入れといった調度もひとそろい用意されている。ことりにはこれまで縁がなかったものばかりだが。
半分ひらいた雪見障子のほうから微かな薬草の香りがした。
見れば、子どものこぶしほどの大きさの薬玉が鴨居にかけられている。薬草を詰めた錦の袋を紙でつくった球体に入れ、常盤色の紐を結んだものだ。雨羽の社で似たものが神事に使われていたことがあったが、室内にかけられているのははじめて見た。
目を細めて薬玉を見上げていると、「気になるのか」と横に立った馨が尋ねた。のの花たちにことりを任せて一度部屋から離れていたが、戻ってきたらしい。
「よい香りでしたので――」
口にしているさなかに背後から視線を感じた。いったん下がったはずののの花や離れで働く女性たちが、なぜか襖からちらちらこちらをのぞいている。
「……なんだ」
馨がいやそうに訊くと、「おうかがいします!」と先陣を切って、のの花が進み出た。
「若君はどのように雨羽の姫さまを見初めたのですか!?」
のの花の横からことりの母親や祖母ほどの年齢の女性も次々顔を出す。年代はさまざまだったが、皆つやつやした林檎色の頬をしている。
「若君の仕事先で出会ったのですよね?」
「でも、もともと婚約されるはずだったのは別の方でいらしたのですよね?」
「なのに稲妻のように恋に落ちてしまったのですよね⁉」
きらきらした目で矢継ぎ早に質問し、顔を突き合わせた女性たちが「きゃー! 恋の嵐ー!」と歓声を上げる。なんだかわからないけれど、楽しそうだ。青火もそうだけど、馨の周りはやたらと明るいひとたちが多い。
「放っておけ。好きなだけ騒いだら勝手に満足して帰るから」
馨は慣れているのか、平坦な反応である。
馨ではつまらないと思ったのか、女性たちの標的はことりに移った。馴れ初めやら架空のプロポーズの話を根掘り葉掘り聞かれ、困惑したり首を傾げたりしているうちに女性たちが勝手にきゃっきゃと盛り上がる。馨が言うとおり、騒いでいること自体が楽しいようだ。
女性たちがようやく満足して去ると、にぎやかだった部屋の空気が妙に静かになった。
「あいつらは暇なのか?」と嘆息し、馨は丸窓に腰掛けた。雪曇りのせいか室内は暗く、鉄紺の袷に暗灰色の袴をつけた馨がそうしていると、一幅の水墨画のようだ。
「雨羽の当主にも、さっきおまえがこの家に着いたって連絡を入れておいた。荷物があれば、雨羽家から持ってこさせるようにするけど」
「いえ……大丈夫です」
雨羽の家から売り払われるときに数少ない持ちものと呼べるものも捨ててきた。すこしのあいだためらったあと、ことりはおそるおそる切り出す。
「父は……何かわたしについて言っていましたか……?」
「いや? べつになにも。そうですかで会話終了だったな」
馨の返答にまるで取り繕ったところがないので、ほんとうにそうだったのだろうな、とことりは察した。「そうですか」と父が言ったらしいものと同じ言葉を繰り返す。それ以外になんと口にしたらよいのかわからない。ことりがローレライだとわかったときに、そしてたぶん、父にとって最愛の歌姫だった母が首を吊って死んでしまったあとから、決定的に親子の関係が壊れてしまったのだと知っている。
「ああいう人間は深く考えるだけ時間の無駄だから、とっとと縁を切っておけ。クズがするクズの思考を理解しても、どうせほんとうにクズだなあという感想しか出てこないぞ」
出会ったときから思っていたけど、馨の言葉はいつも初夏の風のようにすっきりしている。
はい、とことりは淡く苦笑した。きっとこういうふうには自分はなれないのだろうけれど、胸に吹き抜けた風のおかげで思ったよりは暗い気持ちにならずに済んだ。
用意してもらった部屋をあらためて見渡す。
多くの窓が塞がれていた雨羽の離れに比べると、雪見障子や丸窓のおかげか、開放的に感じる。でも、今日からここが自分の部屋だと言われても、あまり実感が湧かなかった。
部屋の隅に所在なくたたずんでいると、馨は羽織を揺らして立ち上がった。さっきことりが触れていた薬玉に目を向けて、「ニワトコ、ハクサンフウロ、チョウジ」と言う。まるで呪文のような言葉の連なりに、ことりは瞬きをした。
「これは悪夢除けだ。魔を退けて、よく眠れますようにって。のの花あたりが気を利かせたんだろう」
「……そうでしたか」
澄んだ香りを漂わせる薬玉にことりは触れた。なんてささやかでやさしい祈りなのだろう。心の外殻をふわりと撫でられたみたいだった。きっと今日は悪い夢は見ない、と思う。
「草のなまえをもう一度教えてくださいませんか?」
「ニワトコ、ハクサンフウロ、チョウジ?」
「ニワトコ、はく……はくさん……」
忘れないように繰り返していると、馨は文机のうえに置いてあった紙を取った。白い紙にすっと文字が引かれていく。天地を切り分けるような迷いのない文字だ。
ニワトコ
白山風露
丁子
「……きれい」
ぽろっと言葉が滑り出る。そんなことは十年以上、ことりの人生では起こりえないことだった。
「きれい?」
馨はペンを持ったまま、いぶかしげな顔をした。
「馨さまの字」
「字ぃ? ふつう、そこは顔だろうが」
それもそれでふつうのひとからは出てこない言葉のように感じたが、確かに馨はとてもうつくしい男の子でもあった。出会ったら、誰もが思わず目を奪われるほどの。でも、今ことりの心を捉えたのは、馨の容姿ではない。
「ひかって……見えましたので」
「ふうん?」
よくわかっていないようすで、馨はペンを机に転がした。
ことりは折り目正しく並んだ字にそっと触れる。
やっぱり雪闇に灯った火のように輝いて見えた。三つとも、自分に向けられた言葉。だから、きっとこんなにまぶしく見えるのだ。口にしようかと思ったけれど、うまく説明できない気がして何も言わなかった。ただ目を細めて、紙のうえの文字に触れていた。
そうか、とふいにおとといの光景につながった。
――かおる
シーツのうえに指で書かれた文字を見たとき、なぜああも胸がふるえたのか。
(声を聴いてくれた)
(言葉を返してくれた)
きっと馨にとってはたいしたことではない。誰が相手でもしたことだ。
でも、ことりはうれしかった。
暗闇にちいさな灯りを掲げられたみたいに、目の前が明るくなったのだ。
「馨さま」
「うん?」
「ありがとうございます。封じを解いてくださって」
今は封印が消えた咽喉に手を添えつつ口にした。考えてみれば、きちんとお礼を言っていなかったことに今さらきづいた。
「べつに――」
馨はめずらしく言いよどむようにしてから、窓の外へ目を上げた。
「俺に必要だから、そうしただけだ」
「はい」
「だから、感謝はしなくてよい」
居心地わるそうに首をすくめた男の子に、はい、と眉尻を下げてうなずく。
青火やのの花たちがこの男の子を慕う理由がなんとなくわかる気がした。
――ずっと自分なんて生まれなければよかったのにと思っていた。
母親に殺されそうになった夜から、その母親が首を吊って死んでしまったあとから。どうしてわたしが生きているんだろう。なんのためにわたしだけが生き続けているんだろう。
(でも……)
贄の間で捨てるはずだった命をあなたは拾い上げてくれたから。
わたしはこの男の子の手を取って、鳥籠の外に広がる世界を知りに行こうと思った。
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