二 火守の若君 (5)
「おまえなあ……」と馨が苦虫を噛みつぶしたような顔をした。
「あれに目を合わせるなと言ったそばから、目を合わせてふらふらついていきそうになっているのはなんだ。俺へのいやがらせか?」
「……いやがらせは、してないです」
「へえー? ならどういうつもりなのか、簡潔明瞭に説明してから馨さまごめんなさいって言え」
「……馨さま、ごめんなさい」
「早い。やり直し」
やり直さなければいけないのだろうかとことりがびくびくしていると、馨は息をついた。
心臓がまだいやな音を立てている。あわいのものだという半透明の魚は、昔の記憶を呼び起こすのだろうか。思えば、あれが母のすがたを見た最後だった。あのあと母は自室で首を吊って死んだと聞いている。ごめんなさい、という一言だけを書き遺して。
「ほら」
振り返った馨が手を差し出してくる。
まだぼんやりしたまま、火見の炎で淡く照らされた手を見返す。
まぶしい。ことりは惹かれるように手を伸ばした。
そっと重ねると、軽く握り返される。あ、と思い、ことりは瞬きをした。
「なんだ」
馨はひとのことなど気にしなそうなのに、案外ことりの些細な仕草によくきづく。
「思ったより冷たかった、ので」
「末端冷え性なんだ。わるいか」
「わるくはないです」
「おまえは熱い。眠たいときの幼児だな」
ふふっと咽喉奥でわらわれる。ふしぎとえらそうで、でもふしぎといやなかんじがしない。馨はことりが出会った誰ともちがう。ちがうのはあたりまえだけど、重ならないというかんじがするのだ。
(あ、でも……)
子どもの頃出会った、うつくしい女の子がよみがえる。あの子も、なぜか妙に自信まんまんで、そのくせ、するりとひとの心に入ってくる子だった。
(つばきちゃんにはすこし似ている)
ことりが魔を呼び寄せたせいで死んでしまった友人。
思い出すと、あたたかな記憶と一緒に胸がずきんと痛む。つばきちゃんに会いたい、とふいに強く思った。神祀りの家同士の交流会で、一度会っただけの、でもことりが友人と呼べるたったひとりの女の子。つばきちゃんに今の自分のことを話したい。それはいくら願っても、もう叶わないことだったけれど――。
しばらく暗い参道を歩くと、ようやく階段の終わりが見えてくる。
山の中腹を切りひらくように、火見野の社は鎮座していた。檜皮葺の屋根を持つ装飾が少ない拝殿では、火ノ神を祀る祭壇では炎が揺らめいている。雨羽の社では鏡に見立てた水盆を置いていたが、火守ではやはり炎なのか。拝殿の天井を届きそうなほど燃え盛る炎をことりは仰ぐ。
馨から離れた火見が、羽を広げて炎の中に飛び込む。目を瞠ることりの前で、炎はいっそう強く燃え盛り、再び火鳥のかたちとなって馨の肩に戻った。
「ここにあるのは祭祀用の炎だけど、奥宮っていう、拝殿の奥にある異界の入口には、火ノ神が最初に与えた火分けの炎が燃えていたらしい。先の当主継承の儀式で消えて、今はないけど」
衣擦れの音をさせて、馨は祭壇の手前にある漆塗りの台の前に立った。鉄製の器が置いてあり、中には黒く焦げた木片が重ねられている。微かに甘い残り香が漂っている。香木のようだ。馨は懐から新しい香木を取り出し、ことりに渡した。
「祭壇の炎から火をもらってその器に置いてみろ」
「はい」
もしかしてこの炎がさっき馨が言っていた「悪心があると燃やされる」と言っていた炎なのだろうか。どきどきしつつ、炎に香木の先端をかざして、火をもらう。ほどなく火が移ったので、鉄の器の中に香木を置く。甘く苦い香りとともにかぼそい煙が立ちのぼると、祭壇の炎が呼吸をするかのように細長く伸びた。
「火ノ神さま」
ことりのとなりに立った馨が口をひらく。
「この者が貴女さまの土地に入ることをどうかおゆるしくださいませ」
直後、炎が大きくふくらみ、ばちばちと火花を散らして爆ぜた。紅蓮の炎が舐めるようにことりの身体を取り巻き、ワンピースの裾がひるがえる。熱くはないが、火特有のにおいが鼻を刺す。
――燃やされる。
本能的な恐怖で、血の気が引いた。
きづけば炎はもとに戻り、ことりは膝から崩れかけて馨に肩をつかまれていた。心臓の鼓動がどきどきと激しく鳴っている。
「燃やされなかったな?」
ことりに目を向け、馨が口の端を上げた。
立ち直しつつ、ことりはちいさな声で訴える。
「青火さまが……」
「うん?」
「ただの言い伝えだと、仰っていました……」
「それはどうだろうなあ」
肩をすくめ、馨はことりと同じように自分も香木を置いた。今度は特に異変は起こらず、ふたり並んで手を合わせる。
火ノ神への挨拶はこれで済んだようだ。
行きと同じように手を差し出されたので、そのうえにおずおず手をのせる。参道の階段をことりの手を引いて下りながら、「当主継承の儀式は奥宮で行われるんだ」と馨は言った。
ことりは薄暗い拝殿でひっそりと燃え続ける炎へ目を向けた。社を管理する神官や巫女は今はいないようだ。雪のかぶった針葉樹に囲まれた社内は、馨とことり以外にひとがおらず、しんと静まり返っている。
「四年前、俺の前の当主候補は継承の儀式の最中に燃え上がって魔に転じた。以来、ずっと行方知れずになっている――という話だったろう。彼女は火守
つばき、のなまえについ反応してしまい、ことりはびくりと指先をふるわせる。
はずみに離れかけた手をつかんだまま、馨はことりを振り返った。
段差のせいで、高さにちがいのあった目線がちょうど重なる。ことりを見つめて、馨はちいさくわらった。うつくしくて、烈しくて、雪闇に舞い上がった火花のようだった。
「俺をたすけてくれるだろう、歌姫?」
――……大地を永劫さまようのはつらかろう。
朝、この話をしたとき、遠くを見ていた横顔がよみがえる。なぜかちぎれるように胸が痛んだ。
「はい」
特に深く考えもせずにうなずいていた。
馨の顔を見ていたら、どうしてかそう言わなければいけないような気持ちに駆られたのだ。何も考えていなかったぶん、言ったあと自分にびっくりしてしまう。
馨は瞬きをしたあと、咽喉を鳴らした。
「心強いな、婚約者どの」
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