二 火守の若君 (4)
「そういえば若、屋敷に戻る前にお社へ寄られますか?」
ハンドルを切りつつ、青火が尋ねる。
「そうする。火見を一度戻さないといけないし」
(お社……)
青火と馨の会話に反応して、ことりは目を上げた。
雨羽にも、領内の湖のほとりに神祀りの社があった。神祀りの家なら、それぞれが大なり小なり神を祀る社を持っている。それらは四季折々の神事の場ともなる大切な場所だ。
「火守の社は火見山の山中にあって、昔から火見野に来た人間ははじめに社で火ノ神への挨拶を済ませる。もしそいつに悪心があるときは、火ノ神が焼くと言われている」
ことりは馨のそばでくつろいでいるふうの火見を見た。そんなおそろしい神さまにはとても見えなかったが、穏やかなすがたとあらぶるすがたの両方を持つのが神であるともいう。それにこの神さまは、火守の次期当主だったひとを継承の儀式の最中に魔に転じさせたと聞いた。
「ついでだから、おまえも来い。――火ノ神に焼かれないといいな?」
継承の儀式の話を聞いたあとなので、ことりは一気に緊張した。
「ことりさん、大丈夫ですよ。ただの言い伝えですから。わたしも焼かれてないです」
「すぐに種明かししやがって……」
「その話、よそから来た人間には洒落にならないんですよ……」
車を止め、青火はキャンピングカーのドアをひらいた。
ことりもカーキのダウンコートを羽織って外に出る。青火のものを貸してもらったため、袖を折ってもことりには大きく感じられたが、ワンピース一枚で登るよりはずっといい。
雪まじりの風がびゅうと吹きつける。風に舞い上がった髪を押さえ、巨大な鳥居が立つ社を仰いだ。火見山は一般人の立ち入りを禁じているという。まだ昼過ぎにもかかわらず、鬱蒼と針葉樹が茂った森は暗く、ひとを寄せつけない雰囲気がある。
巨大な鳥居の先には長い階段が伸びていた。
どれくらいあるのだろう。終わりが見えない。
馨の腕に留まった火見が、彗星のように尾を引いて炎を燃え上がらせる。灯りの代わりになってくれるようだ。
「ほら、行くぞ」
歩きだした馨のあとについて、ことりは鳥居をくぐった。階段は石造りの古いもので、雪を一度掃いた跡がある。
「そういえば、きのう雪山でおまえが歌ったときだけど」
馨が思い出したふうに口にした。
「『祝い』というんだったか、歌姫が使う独特の歌詞がついていなかったな」
「……あれは歌姫だけが使うことをゆるされるものですので……」
馨の言う、特殊な言の葉で編まれた歌詞を持つ歌は《歌姫の歌》と呼ばれ、歌姫たちはこの歌を歌うことで龍神から一時的に力を借り受け、魔障を癒す。《歌姫の歌》は季節の移ろいを愛でる龍神のために、歴代の歌姫たちがつくってきたため、雨羽には数千に及ぶ歌譜が残されていた。ふつうは一定の修練を積むと、歌譜がしまってある書庫に入ることができるようになる。そうして《歌姫の歌》を覚えるのだ。
ことりは離れでずっと古い歌譜の書き写しの仕事をしていたので、歌譜自体は見ていたけれど、無論歌ったことはない。魔を呼び寄せるローレライが龍神の力を借り受けるなど考えられない話だ。
「おまえだって歌姫だろう」
馨はふしぎそうな顔をした。よその家の馨にはいまひとつ区別がつかないのかもしれない。
「ちがいます」
ことりはめずらしくはっきり口にした。
「……まったくちがう……ものです」
「ふうん?」
あまり腑に落ちていないようすだったが、馨はそれ以上は何も言わなかった。
俯きがちに歩いていると、視界端でひゅるりと青い尾がひるがえった。両側に連なる火の入っていない石灯籠に隠れるように、深海魚に似た半透明の魚が泳ぐすがたが見えて、ことりは瞬きをする。思わず足を止めてしまったからか、「……ああ。おまえも《見える》んだったな」と馨が言った。
「拝殿までの参道は異界と接しているから、神でも魔でもない、《あわいのもの》がよく通る。外だと、あやかしとか妖怪とかいわれるたぐいか。一般人だと勘がいい人間以外は見えないけど、多少なりとも神祀りの血を引く者なら、だいたい見える。これまで見たことは?」
「べつのものなら。わたしが住んでいたところにも、ときどきやってきたので……」
雨羽の離れにはひとがちかづかない代わりに、夕暮れどきになると、こうしたひとならざる客人たちが時折現れた。彼らは悪戯好きで、ことりが歌譜を書き写しているそばで、歌を口ずさんだり、インクを舐めたり、好き勝手していた。
「ふうん? なら、おまえはやつらに好かれるたちなのかもしれないな」
「そう、なのでしょうか?」
「一定数そういう人間はいる。俺には火見がいるから、やつらはおびえてちかづいてこないけど。害はないが、誘惑して道を迷わせたりするから、目を合わせるなよ」
「はい」
言われたとおり、周囲を泳ぐ半透明の魚たちにはなるべく視線を向けないようにする。
りーん……とどこからか、鈴の音が聞こえた。森の奥からだろうか。りーん、りーんと大きくなったり小さくなったりする鈴の音に耳を澄ませていると、目の前を深海魚の青く透けた身体が過ぎ去った。見ない、見ない、と馨が言っていた言葉を思い出して、ぎゅっと目を瞑る。
――かあさま……。
すぐそばで幼い自分の声が聴こえた気がして、ことりははっと目をひらいた。
――かあさま、いや……。
きづけば、ことりの身体はつめたい寝台のうえに投げ出されていた。ことりの首には母の蒼白い両手が回っている。じたばたと四肢をばたつかせるが、首を締め上げる手の力は緩まない。
くるしい。こわい。かあさま。誰か、たすけて。
あふれた涙が幾筋も頬を伝う。
――ゆるしてことり、ゆるしてね……。
ことりの首を締める母もなぜか泣いているようだった。頬にぽたぽたと落ちる母の涙にきづき、どうしてかあさまも泣いているのだろうと意識の端でふしぎに思った。どうしてかあさまも苦しそうなのだろう。わたしが暴れるせいだろうか……。やがて抗っていたことりの手から力が抜ける。直後、唐突に母親が手をほどいた。
目が合ったのは一瞬だった。おびえるようにことりを見つめた母は、ことりの身体を突き飛ばし、離れから逃げるように出て行った。
ぜ、ぜ、と息を喘がせながら、ことりは呆然と母が消えた夜闇を見つめる。
その日は新月で、夜はとてもとても暗かった。
(かあさま、待って。いかないで)
声の限りに母を呼んだが、呪術師に声を封じられた咽喉はちらともふるえない。
(おねがい、ひとりにしないで……)
こめかみがじんとうずいて、嗚咽がこみあげてくる。
(かあさま……)
――泣きだしそうになって伸ばした手を横からぐいとつかまれる。
火の粉が舞い上がり、雨羽の離れの情景がぱっと霧散した。目の前にいた半透明の魚が逃げるように石灯篭の影に消える。
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