二 火守の若君 (3)
車窓を流れる景色を目で追っていると、窓に雪片がつきはじめた。
雪が降りだしたようだ。遠くの山並みは白く染まっている。
昼前に施設を出て、車は一時間ほど高速道を北上した。最初のうちは後部スペースで参考書をめくっていた馨だったが、途中でうとうとしはじめ、今は火見を湯たんぽにして寝息を立てている。ことりはシートベルトをつけて、静かに窓の外を眺めていた。
「咽喉、おつらくないですか?」
ハンドルを握る青火が飴の入った缶を差し出してくる。水色の丸缶には、「魔女印のよく効くのど飴」と書いてあった。
「昨晩、寒空の下でずっと歌い通しでしたし、無理されていたんじゃないかなって」
首を横に振ろうとしてから、運転席にいる青火には伝わらないだろうときづき、「平気……です」と答えた。缶の蓋をひらいて、琥珀色の飴を取り出す。口に入れると、薬草の爽やかな香りがふわりと広がった。
「魔女印ですから効きますよ。あのひと性格は悪いのに、作るものはいいんですよねえ」
馨にくっついていた火見がとことこと近寄ってきて、ことりの袖を嘴で引いた。
「あ、の……」
こちらを見つめるつぶらな翠の目がどうにも物欲しげに見えて、ことりは戸惑う。鳥に飴をあげてもいいものなのだろうか。でも、火見さまは神さまだからかまわないのかもしれない。どうぞ、とおそるおそるお供えすると、火見はぱくっと飴をまるのみした。
(まるのみ……)
すこし驚いたあと、また飴をお供えしてみる。ぱくっ。火見は飴のお供えをお気に召したふうだった。炎をまとった羽毛が心なしかふくふくして見える。
「馨さまから急にいろいろ言われて困惑されてます?」
青火に苦笑交じりに訊かれて、ことりは顔を上げた。
「困惑というより……」
視線をさまよわせて言葉を探した。
「現実感がない、のかもしれません」
「あはは、そうですよねー。わたしたち、おととい出会ったばかりですもんね。それで婚約者なんて言われても」
この二日だけでも、ことりの十一年間を覆すような出来事がいくつも起きた。馨と出会わなければ、声の封じを解く以前に、ことりは今頃大蛇の腹の中だっただろう。
「馨さまは勘が鋭いし、自分でもそれを信じているから、あまり迷わないんですよね。それをいうなら、お嬢さんもですけど」
ことりがさして迷わず馨の申し出を受けたことを言ったらしい。
「わたしには、迷うようなものがありませんから……」
帰る場所がない。行く場所もない。大事なひともいない。何もないから、比べたり、迷ったりするものもきっとないのだ。
ことりは車窓から運転席に目を戻した。
「火見野は……あとどれくらいで着くのですか?」
火守家は本州の北の最果ての火見野という土地に屋敷を構えている。この車の目的地も火見野だ。
「もうすぐですよ。遠目に
青火が示したのは、連なる山の中でもひときわ険しい峰だった。雪曇りの空に向け、剣の切っ先のようにそびえている。
「着く前に火守のおうちのことをさわりだけ説明しておきますね」
「はい」
「もちろん、覚えるのはおいおいでかまいませんから」
言い置きつつ、青火は口をひらいた。
「これから向かう本家のお屋敷には今、一ノ家のご出身で、次期当主候補の雪華さまが住んでいます。四年前に急死したのが雪華さまのお父さまなので、先代のひとり娘というお立場でもあります。馨さまが住んでいるのは本家の離れのほうなので、普段はあまり雪華さまと顔を合わせる機会はありませんが、いちおう覚えておいてください。ちなみに雪華さまのそばつきは
一貫して穏やかな青火の口調が若干雑になった。
「こいつはクソガキなので無視してください。大丈夫です。ただのクソガキなので」
「は、はい……」
クソガキ以外の説明がなかったので、いくつくらいのどんなひとなのか判然としない。首を傾げつつ、ひとまずことりはうなずいた。
「それと、若とも話したのですが、ローレライのことは火守のほかの人間には伏せておきましょう。火守の中には無駄に保守的な人間もいますし、雪華さまやその周りの人間に馨さまの思惑にきづかれると面倒ですから」
馨と雪華は、前の火守の継承者が転じた魔を祓えたら、という条件を持つ当主候補同士だ。馨がローレライであることりを連れて帰ると、思惑にきづいた雪華が妨害してくるかもしれない、と馨たちは考えているようだ。
「ことりさんはあくまでも、若が婚約予定だった妹さんよりもお姉さんのほうを気に入ったため、無理を言って婚約を変えてもらって連れ帰ったということにしましょう。まあ、若が気まぐれにひとを連れて帰るのはときどきあることなので、長老たちもスルーするんじゃないかな……。嫌みはたっぷり言われるんでしょうけど」
青火は嘆息した。
「もうすぐインターを降ります。馨さまを起こしてくださいますか?」
「はい」
ことりは後部スペースに寝転がっている馨のそばにかがむと、控えめに肩を揺すった。だが、しばらく待ってみてもいっこうに起きない。
「ことりさん。やさしく揺らしてもそのひと起きないので、殴るか蹴るくらいしたほうがいいです」
「殴る」
青火と眠る馨を見比べ、ことりはためらった。おそるおそる肩の端を、ぽす、と叩く。
「…………」
ことりとしては渾身の一撃だったが、やっぱり起きなかった。しかたなくことりは馨の耳元に顔をちかづける。馨さま、と囁くと、「うわっ⁉」と大仰に肩を跳ね上げられた。
「いきなりなんだ……」
「若が爆睡しているので、ことりさんが起こしてくれたんですよ」
「なら、ふつうに揺すればいいだろう」
「それでも起きなかったんですよ」
もぞもぞと身を起こしつつ、「おまえな」と馨はことりに半眼を寄越した。
「問題ないならふつうに声を出せ。急に息を吹きかけるな。びっくりするだろうが」
「ふつうに……」
ことりは手元に目を落とした。
「不快……ではありませんか」
ローレライの声はみにくいものだといわれている。いやな気分になられたらどうしようと不安になる。
馨は呆れたような顔をした。
「なんでそうなる。ぽそぽそしゃべられているほうが俺は面倒くさい」
「面倒くさい……」
「――今の若の言葉を意訳すると、誰もそんなことは気にしないから、安心してしゃべって大丈夫だよ、君の声はとてもきれいだしってところです」
「勝手に意訳をはじめるな。あと盛りすぎだ」
「言外から汲み取りました!」
馨はもの言いたげにしたが、結局息をついてことりに向き直った。
「とにかく、いやじゃないならふつうに話せ。あとおまえの声にどこも不快なところはない。以上だ」
「……はい」
ことりはぎこちなく顎を引く。
積もりたての新雪のような気持ちが静かに胸に広がった。でも、口にすると消えてしまいそうで、何も言えないまま口を引き結ぶ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます