二 火守の若君

二 火守の若君 (1)

 ごくふつうの、しあわせな家のひとつだったと思う。

 ことりがローレライの力を発現させる前の雨羽の家のことだ。

 《歌の君》と呼ばれる郷でいちばんの歌姫を妻に迎えた父親は、ことりと初音の誕生を誰よりも喜んでくれたというし、将来立派な歌姫になれるようにと、神祀りの家のこと、歌のこと、言葉遣いや立ち振る舞いに至るまで師を招いて学ばせた。


 あの頃は、初音と手をつないで毎日歌っていた。

 郷の歌姫たちはことりの歌を聴き、この子は将来、母親と同じ《歌の君》になるにちがいないと讃えた。父と母はおおいに喜び、初音だけがほんのすこし不満そうにしていた。

 歌の君になれるかどうかはともかく、物心ついた頃からことりは歌が大好きだった。初音に比べて人見知りをすることりにとって、歌は自分の気持ちを臆せずのせられる言葉のようなものだったから。


 でもそれも、十一年前にことりが魔を呼び寄せたときにすべてが変わってしまった。母はショックのあまり臥せり、父は九十年ぶりに《ローレライ》が現れたことにおびえ、主家である水鏡の当主に命じられるまま、ことりの声を封じ、離れに閉じ込めた。

 もう大好きな歌は歌えない。初音と手をつなぐこともできない。

 けれど、すべてしかたない。わたしはローレライなのだから。

 自分に言い聞かせるようにして過ごしていたある夜、微かな物音にきづいて目を開けると、寝台のうえで寝ていたことりの首に母の蒼白い両手が回っていた。

 はじめ、ことりは何が起きたのかわからなかった。かあさまがわたしに会いに来てくれたのかと安堵すらした。


「――っ⁉」


 でも、すぐに咽喉を締め上げられる苦しさで現実に引き戻される。ことりは抵抗した。四肢をばたつかせ、首に回された母の手を引き剥がそうとするが、大人の力には到底敵わない。

 くるしい。こわい。かあさま。誰か、たすけて。

 あふれた涙が幾筋も頬を伝う。でも、助けを呼ぶこともできない。ことりの声は呪術師によって封じられている。


 ――ゆるしてことり、ゆるしてね……。


 耳元で囁く母の声を最後に、徐々に混濁していく意識のふちで考えた。

 かあさまは、なかったことにしてしまいたくなったのだろうか。わたしを産んだこと。

 ローレライになる前、こわい夢を見て泣きだしたことりを、わらって抱き寄せてくれた母の両腕を思い出す。あのとき歌ってくれたやさしい子守唄も。


(ぜんぶ、なかったことにしてしまいたくなったの?)


 それなら、どうしてわたしは生まれてきたのだろう。

 どうして。何のために。ローレライなんか生まれてくるんだろう。

 ことりにはわからなかった。今もずっとわからない。

 わからないまま、迷子みたいな気持ちで、ただ息をしている。



 ふわりとそよ風に額を撫でられた気がして、ことりは睫毛をふるわせた。

 カーテンの隙間から朝陽が射し込んでいる。そこに鉄格子がはまっていないことにわずかな違和感を覚えたが、意識がはっきりしてくるにつれ、ここがいつもいた雨羽の離れではないことにきづいた。


 身を起こそうとすると、頭のうえにもふっとした塊が乗る。彗星のように長い尾羽に、炎をまとった火鳥だ。

 目をぱちくりさせてから、「火見さま」とつぶやく。ことりが身じろぎすると、火見は枕に下りたが、ほら撫でよ、というように羽毛がたっぷりの胸をそびやかした。


「よろしい、のですか……?」


 おそらく神に属する存在に触れるなんて、畏れ多い気もしたが、火見が胸をそらしたまま動かないので、そろ、そろ、撫でる。火見の羽は炎を纏っているものの、熱くはなく、ビロードのような撫で心地だ。


「ことりさん、おはようございますー。起きていらっしゃいますか?」


 襖の向こうから青火の控えめな声がした。いつものようにうなずこうとしてから、それでは伝わらないときづいて口をひらく。


「――……」


 はい、と答えるだけのことにひどく緊張した。

 ほんとうにちいさく、息を吐き出すように、はい、と答えると、かろうじて伝わったらしく、「朝食を用意してあるので、身支度ができたら下りてきてくださいね」とやさしく言われた。はい、ともう一度うなずくと、襖の向こうの気配が離れた。

 意識せず張っていた肩の力を抜く。ちかづいた火見がふしぎそうにことりを見上げている。


「火見さまも、おはよう、ございます」


 ひと相手ではないと、すこしだけ滑らかに言葉を口にすることができた。

 昨晩の雪山での一件のあと、ことりたちは救出された子どもが暮らしていた児童養護施設で一晩を過ごした。子どもに怪我はないようだったが、念のため、魔障外来がある病院へと搬送された。

 無事保護したことを施設長に伝えに行くと、横からほかの子どもたちが次々飛び出してきて、「よかったあ」と泣きだした。くっつきあって家族の無事を喜ぶ彼らを見ていると、歌ってよかった、とことりもわずかに思えた。そんなことを思ったのは、ローレライになってからはじめてのことだった。


 借りもののパジャマを脱いで、こちらも魔女に借りたままになっているワンピースに着替える。部屋の隅に置かれた姿見に何気なく目を向ける。生気に乏しい少女がきのうと変わらない顔でぼんやり見返してくる。ただ、咽喉にあった禍々しい赤の封印は消えていた。

 目を細めて、指で咽喉をなぞる。痛みはなかった。


(ほんとうに術を解いてしまったんだ……)


 昨晩のことはどこか夢のようで、まだ実感が湧かない。


「ひもり、かおる、さま」


 きのう覚えたばかりのなまえを口にする。声はきちんと咽喉をふるわせている。しばらく触れていた咽喉から手を離すと、ことりは立ち上がった。



 一階に下りると、すでに朝食ははじまっていた。長テーブルに子どもたち十数人が集まって、トーストと目玉焼きとヨーグルトを食べている。ことりが顔をのぞかせると、「きのうの歌姫さまだ!」と子どものひとりが目を輝かせた。


「あのおねえさん、だあれ?」

「サキをたすけてくれたんだよ。すごい歌姫さまなの!」


 ことりは魔を呼んだだけだが、子どもたちのあいだでは「すごい歌姫さま」という話になっているらしい。


「おねえさんが歌を歌うと、魔が燃え上がったんだよ」

「……祓ったのは俺だが」

「そうそう! おねえさんが魔を退治してくれたんだよ!」

「それも俺だが」


 テーブルの端でいちいち馨がつぶやいたが、子どもたちが聞いているようすはない。立ったままのことりの手をいちばん年少らしい女の子が引っ張った。


「歌姫のおねえさん、わたしにも歌ってー!」


 女の子はきらきらと期待を込めた目でことりを見上げている。応えてあげたかったけれど、うかつに魔を呼び寄せるわけにはいかない。


「あの……今は歌えなくて……」


 返事に困って、ぽそぽそと消え入りそうな声でつぶやくと、「じゃあ、いつかね!」と女の子はことりの指に指を絡めてきた。



「声ちっさくないか?」


 子どもたちの登校を見送ったあと、青火が淹れてくれたカフェオレに息を吹きかけていると、斜め横に座った馨がいぶかしげに言った。


「まだどこか痛むのか?」


 いえ、とことりは首を振る。

 解呪されるときは痛みがあったが、そのあとは今までが嘘のように問題なく使えている。うつつのものは焼けない、と馨が言っていたとおり、封印だけがきれいに消えていた。


「問題は、ないです」


 それでも、声がちいさくなってしまうのは、ことりの気持ちのほうが臆しているせいだ。ひとと話すこと自体に慣れていないし、聞いていて不快な声なんじゃないかと不安になる。


「問題ないなら、まあいいけど」


 釈然としないふうではあったが、馨はひとまずうなずいた。


「じゃあ、きのうの話の続きをするか。歌姫どの」

「続き……ですか?」


 きのうはいろんなことがめまぐるしく起こったので、すぐにどれだか思い出せない。ことりの反応が鈍いからか、馨は顔をしかめた。


「おまえの命は俺が買うって言っただろう」


 あたりまえのように言われて、ことりは瞬きをする。確かに解呪をする前に馨はそんなことを言っていたが、言葉の綾みたいなものだと思っていた。


「本気で……仰られて、いたのですか?」

「そんな冗談を誰が言うんだ」


 馨は呆れたふうに首をすくめた。


「贄の間の件は、水鏡の若君が所有するビルに、火守が祓った――ということになっている。他家の事情に首を突っ込むとあとで面倒だから、もともと魔だけを祓って贄の間の件は追及しないって火守の方針で決まっていた」


 頬杖をつき、馨がすらすらと裏の事情を説明する。


「だから、昨晩青火から水鏡の当主に、貴家の子息が所有するビルに魔がいたので偶然居合わせた火守馨が祓っておきましたと伝えた。よその家が所有する建物内で魔祓いをしたんだから、報告をするのが筋だろう?」


 馨ははじめから魔祓いをするために贄の間にいたようなので、事実とは異なるが、表向きはそれで通すということなのだろう。連絡を受けた水鏡の当主が蒼白になるすがたが浮かんだ。息子が勝手にやっていたこととはいえ、神祀りの家の者がひそかに魔を飼っていたなど、とんでもない醜聞だ。表沙汰になれば、神祀りの家としての水鏡の名声は地に落ちる。


「そのときついでに、初音との婚約に代えておまえのほうを寄越せないかと頼んだ。頼んだだけだ。べつにほかには何も言っていない。でも、水鏡の当主は血相を変えてすぐに雨羽の家との調整をつけてきた」

「雨羽の家と……」

。初音の代わりにうちに来い」

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