一 贄の少女たち (9)

 吹きすさぶ凍てついた風に、馨は目を眇めた。

 一応、防寒具を着こんではいるが、まさか夜の雪山を歩き回るとは思っていなかったので、たいした装備ではない。馨たちがいるのは登山道を三十分ほど歩いた、まだ山の入口といえる場所だったが、すでにあたりは氷点下近いのか、手も足も感覚がない。


(さて、歌うか?)


 馨は雪上に立つ少女の華奢な背中を見つめた。

 あたりにたたずむ針葉樹林は雪をかぶって、射し込む月光で銀色に輝いている。雪はやんでいたが、静かだった。細い鉤爪みたいな三日月が、群青の空にぶらさがっている。


「お嬢さんをわざと焚きつけたでしょう」


 横に立つ青火が呆れた顔で言った。


「お嬢さんを買うって、本気ですか?」

「そうかも」

「かもって……」


 ――ローレライ。魔を呼び寄せる声。


 魔女から聞かされたとき、これは使えるのではないかと思った。

 ことりを焚きつけて封じを解いたのは、魔にかどわかされた子どもを助けるためでもあるが、ほんとうに魔女が言ったとおりの力がことりにあるのか確かめるためでもある。もし「魔を呼び寄せる声」なんていうものがあるなら手に入れたい。それは今の馨にどうしても必要なものだ。


 水鏡の若君が新都の一角で魔を飼っているらしい――という噂を火守家がつかんだのは今から三か月ほど前のことだ。

 少女たちを贄にしているそうだが、巧妙に隠されていて、該当のビルを見つけるまでに結構時間がかかってしまった。しかも結局、魔がビル内にいるという確証を得られなかったので、馨が少女に扮して、青火に「売り払って」もらうことにした。なお、ドレスは絶対にいやだったので、着物にした。


「水鏡の若君は今頃大慌てだろうな。父親に泣きつきにでも行っているのか」

「雪華さまや長老がたは、魔は祓っても他家の事情に首を突っ込むなと仰せでしたよ。それに、若が一週間後にお見合いするのは、水鏡が主家となる雨羽のお嬢さんですから」

「そういえば、そんな話もあったな」

「……まさか忘れてたんですか?」

「忘れていない。一週間後に思い出す予定だった」

「忘れてるじゃないですか……」


 確か、青火が作ったリストのあいうえお順の「あ」で選んだ婚約者である。話を聞けば、雨羽随一の歌姫らしいので、「じゃあこの娘で」と決めると、火守の長老たちもあっさり通した。雨羽は火守のよその神祀りの血を引く《めぐりの花嫁》だったから、そこもよかったのだろう。

 そういえば、初音とことりは年が近そうだが、血は繋がっているのだろうか。ことりのなまえは青火のリストには入っていなかった。


「なんて言っていたんですか?」

「ん?」

「あなたが封じを解く前、お嬢さんが何か言ったように見えたから」

「ああ」


 実際、馨にもことりがほんとうに何を言っていたかなんてわからない。でも、涙をいっぱいに溜めた菫色の眸に見つめられたとき、ふと聴こえた気がした。


 ――たすけて。


 まるで玻璃がふるえるような訴えで、思いがけず胸をつかれた。この娘はどれほど長いあいだ、周囲に助けを訴えることができなかったのだろうか。手を差し伸べてやる人間は近くにいなかったのだろうか。


「教えない」

「え、なんですか、そのマウント」

「あれはほんとうに歌うと思うか?」

「……どうでしょう。魔女が言うには、世にもおそろしい声らしいですけど……」


 若干引き攣った顔をしている青火に、「なら耳栓でもしておけ」と馨は肩をすくめた。


「お身体のほうは大丈夫ですか?」


 カイロを渡しながら青火がさりげなく訊いてくる。

 昨日から動きっぱなしなので、正直つらい。

 馨はある理由から、同年代の男子たちよりはるかに体力がない。雪山で魔を捜し回ると五分で力尽きると言ったのは、冗談ではなくほんとうのことだ。


「気を抜くと倒れそうなくらいねむい……」

「えっ、魔を祓ってからにしてくださいね⁉ お願いしますよ⁉」

「はいはい……」


 雪上に立ったことりは、胸の前で軽く手を組み合わせ、口をひらいた。

 やがて、歌がはじまる。

 馨は魔障を治療するときの魔女の歌声を聞いたことがあったけれど、それとはまるでちがう。まず「祝い」と呼ばれる特殊な言の葉で編まれた歌詞がついていなかったし、おぼつかない旋律はときどき途切れ、消えそうになったり、また大きくなったりを繰り返す。明らかに歌い慣れていない。考えてみればあたりまえで、この少女は相当長い間、声を出すことも、歌ったこともなかったのだ。いきなり歌えというほうが酷だったのかもしれない。


「大丈夫でしょうか……?」


 青火が心配そうな顔で訊いてくる。


「だめだったら、おまえが一晩雪山を歩いて魔を捜すんだな」

「そんな……。うう、でもしかたないのか……」


 話をしているさなか、ふいに消え入りそうに舞う雪花の幻影を見た。

 背筋に微細な電流が走った気がして、馨はぱっと顔を上げる。

 細い歌声がはじめてはっきり耳に飛び込んできた。

 ふしぎなほどに切ない調べだった。雪上に一羽だけ取り残されてしまった鳥が鳴くかのような、細く透きとおった歌声が、月影でひっそり響いている。今にも風音にまぎれてしまいそうなのに、目がそらせない。きれいだけど、かなしい。そして、さみしい。

 ――さみしい、と思ったことに馨はびっくりした。

 あまりかなしいとかさみしいとか、普段思わない性格なので。

 きづくと、ことりの周りで、ちか、ちか、と銀のひかりが跳ねていた。

 馨の首にくっついて襟巻代わりになっていた火見が、何かの気配を察知したのか、首をもたげる。火見の視線の先を追って、馨は目を眇めた。

 白い地平に揺らめく魔が見えた。


「ほんとうに来た……」


 つぶやき、口の端を上げる。


「……俺もツイてる」

「何か言いましたか、若?」

「いや。あいうえお順の『あ』行で選んだ俺の婚約者がいただろう? 雨羽の」

「初音さまのことですか?」

「あれはやめた」

「はい?」


 ぽかんとする青火から目を離し、「火見」と馨は肩で休んでいた火鳥に声をかけた。

 馨の意を汲んだ火鳥が羽を広げて、夜空に飛び立つ。

 火見の飛びかたは、ひとふりの刀が振られるときに似ている。彗星のように長い尾をひるがえして接近し、すばやく魔を一閃する。一瞬で、通常の虎の二倍ほどの大きさがあった魔は燃え上がって灰に転じた。


「青火、子ども」

「あ、はい!」


 馨が促すと、青火があわてて雪のうえに転がった子どもを回収にいく。時間があまり経っていなかったおかげで、魔の腹には入らずに済んだらしい。

 馨のほうは、肩で荒く息をしている少女のもとへ向かった。十分以上歌い続けていたのだから、息が切れて当然だ。「お疲れさま」と常温の水が入った水筒を差し出すと、菫色の眸を瞬かせてから、おずおず口をつけた。


「……でした、か」

「ん?」

「ふかい、ではありませんでしたか」


 ふかい、が、不快という意味だときづくのに数秒を要した。歌声のことを言ったのだろうか。


「まるで? きれいだったけど」


 素直に返すと、ことりはぽかんと馨を見つめ返してきた。あまり信じていなそうな顔だった。


「きれいだった。おまえはなんだか切々と歌うんだな」

「……そう、ですか」


 馨が賛辞を口にするのはめずらしいのに、淡白な返事が戻ってきて顔をしかめる。水筒を握りしめる少女のほうに目を向け、瞬きをした。

 白い頬にひとすじの涙が伝っている。彼女はきづいているのだろうか。きづいていないのかもしれない。それは、細い月のひかりを受けてきらめき、雪上へと一粒吸い込まれていった。

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