一 贄の少女たち (2)

 ことりはゆっくり瞬きをする。

 火守――というなまえは、あまり外のことを知らないことりにももちろん覚えがあった。

 この国にはいにしえより、四神と呼ばれるやおろずの祖となる四柱の神さまがいる。


 火ノ神、火鳥かちょうのすがたをした、魔を祓う神。

 水ノ神、水龍すいりゅうのすがたをした、穢れを清める神。

 風ノ神、風鼬ふうゆのすがたをした、予言を告げる神。

 地ノ神、今は眠りについた、時を司る神。


 四神を祀るのが、神祀り四家と呼ばれる、いにしえからこの国の祭祀を司る四つの家で、それぞれ神から一字を賜り、火守、水鏡みかがみ風薙かぜなぎ地早ちはやと称した。

 たどれば国が生まれた頃、四神と契った四人の皇女を始祖にしているといわれ、百年前に帝政の解体とともに華族制度が廃止されるまでは、四家はとくべつな爵位を持った華族だった。そして今も、「魔祓い」や「穢れの清め」、「神託」といった祀る神ごとの特殊な家業を継承している。


 ことりが生まれた雨羽家は、水鏡から枝分かれした一族だ。

 雨羽では、《歌姫》と呼ばれる一族の娘たちが歌を介して奇跡を起こす。魔障ましょうという魔に負わされた傷を癒すのだ。双子の妹である初音は優れた歌姫で、目を覆いたくなるような赤黒く爛れた傷もたちまち治した。一方のことりは、百年から数百年に一度生まれる《みにくい声》――呪われた歌声を持つ娘だった。


 ローレライ。

 ローレライとは西方の伝説で、歌声で舟人を惑わし川底に誘い込んだ魔女のことをいう。

 古く《まがひめ》と雨羽で呼ばれてきたその存在は、九十年前に現れた際、伝説にちなんで《ローレライ》の呼び名がついた。現代で同じ力を持つことりもまた、ローレライと呼ばれている。

 魔女の呼び名のとおり、ことりの歌声は魔を呼び寄せる。

 まだ力を発現していない子どもだった頃、知らずに歌ったことりは、その場に荒ぶる大蛇の魔を呼び寄せた。駆けつけた火守の人間によって魔は祓われたものの、友人だった女の子はことりを守って大怪我を負った。その怪我がもとで亡くなってしまったと聞いている。


 うつくしい歌声を持つ歌姫ほど、魔障を癒す強い力を龍神に与えられると考える雨羽において、ローレライの存在は忌み嫌われている。

 千年以上前、当時禍つ姫と呼ばれた娘は、歌で大量の魔を呼び寄せ、雨羽の郷を一時壊滅状態にしたらしい。以来、禍つ姫は忌まれ、恐れられ、かつては力を発現するや、殺すか、咽喉を潰すかしていた。今の世ではそこまではされなかったが、二度と歌えないように、ことりの咽喉には呪術師によって封印がかけられ、ことりは歌はおろか、声を発することもできなくなった。


「ねえさま――わたしを祝福してくださる?」


 初音はすこし不安そうにことりを見つめてきた。

 こんな何でも持っているように見える子でも、不安なことがあるのだろうか。ことりはほんのわずか、彼女をよく知るひとしかきづけない程度に眸を緩めると、初音を安心させるようにちいさくうなずく。それを見た初音は喜色を滲ませ、「よかった」と手を合わせた。


「なら、きっとねえさまは聞いてくださるわよ。とうさま」

「ローレライ」


 それまでむっつりと黙り込んでいた父親がおもむろに口をひらく。


「結婚の準備には金がかかる。莫大な金が。先々代の頃は、雨羽の歌姫といえば、どの家からも《めぐりの花嫁》として引く手あまたで結納金で稼げたそうだが、最近は昔に比べると、めぐりの数も減ったからな……」

「それはとうさま、ひとりの当主が何人も花嫁を抱えていた時代とはちがうわよ」


 初音が肩をすくめてつぶやく。

 めぐり、とは神祀りの家からべつの神祀りの家に嫁ぐ花嫁や花婿のことをいう。神祀りの血を維持しつつも、同じ一族の血が濃くなり過ぎないように、定期的に他家に娘や息子を出すのだ。


「先代からの借金も膨らむばかり……。うちの窮状はおまえだって知っているだろう?」


 父親の目がこの部屋に入ってはじめてことりを捉える。暗い目だ。

 話のゆくえに不穏さを感じて、ことりは身を固くした。


「ローレライ。おまえはここを発ち、新都にある《贄の間》に行きなさい。すでに遣いは出してある」


 やっぱり――と滴が落ちるように胸につめたい波紋が広がった。

 この話をするために父親はことりを本邸へ呼んだのだ。そうでもなければ、十年以上も離れに置いていた娘をわざわざ呼びつけるはずがない。

 新都にある贄の間では、娘たちを魔の贄に差し出す代わりに、親たちは相応の報酬を得る。雨羽の主家にあたる水鏡家の若君は、もう何年も前から当主に隠して石を金に変える魔を飼っていて、得られる富と引き換えに魔に娘たちを捧げているのだという。使用人たちが時折離れの外でしている噂話で、ことりもそのことを知っていた。


「異論はあるか、ローレライ」


 贄の間の話を聞いたときから、いつかこういう日が来る予感はしていた。

 一瞬動揺したのは、今日がその日だと考えていなかっただけだ。

 目を伏せると、ことりは首を横に振った。


「ねえさま……」


 初音が憐憫をこめた目でことりを見つめる。きらきらと輝く菫色の眸は朝露のように濡れて、今にも涙がこぼれそうだ。でも、初音がことりをたすける気がないこともわかっている。それをひどいとは思わない。ローレライとはそういうものだから、ずっと殺されなかっただけ感謝するべきなのだろうから。


「何もないなら、もう下がってよい」


 父親に命じられ、ことりは来たときのようにそばつきの男について部屋を出た。

 ドアを閉めるとき、父親のつぶやく声が聞こえた。


「おびえもしない。気味の悪い娘だ……」

「でも、最後にお金になったんだからいいじゃない」

「……まあそうだが」


 囁くふたつの声に、ノブにかけた指がずきっと針で刺されたように痛んだ。

 唇を引き結ぶと、薄暗い廊下をまたとぼとぼ歩く。

 ローレライになったときに父親から言われた。

 おまえはただ、いつかのときのために生かしているだけなのだと。

 魔を呼び寄せる《みにくい声》。神の寵愛を競ってうつくしい歌声が奏でられる歌姫たちの郷で、ローレライに生きる価値はない。

 だから、望みは持たない。何を願ってもいけない。


(目を伏せて)

(口を閉じて)

(ただこの命が尽きるのを静かに待つだけ)


 ずっとそう思って生きてきた。


(だから、あしたも――)


 同じように、目を伏せて、口を閉じて、ただ静かに死を待つだけ。

 そう思って――いられる、はずだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る