一 贄の少女たち

一 贄の少女たち (1)

 ――ごめんなさい。


 夢の中のわたしはいつも泣いている。

 泣いてもどうにもならないのに、おびえて泣くことしかできずにいるのだ。


(つばきちゃん、ごめんなさい)


 ことりの腕の中では、血を流した女の子が力なくもたれかかっている。

 顔は死人のように蒼褪め、ことりが呼びかけてもいっこうに目をひらくようすはない。おびただしい量の血が足元に広がっていた。襲ってきた魔からことりを守って、つばきが流した血だ。


(ごめんなさい。わたしが……)


 固く瞼を閉じた女の子を抱きしめ、ことりはか細い嗚咽を漏らした。


――)




「……レライ。いますか、《ローレライ》」


 くぐもった呼び声に、ことりはぱちりと目をひらいた。

 目の前に広がっていたはずの赤い血は消え、昼でも薄暗く、黴のにおいがうっすらする見慣れた部屋が現れる。手にしていたはずのペンが机のうえに転がっている。歌譜の書き写しをするうちにうたた寝をしていたらしい。


「ローレライ」


 それが一瞬、誰のなまえかわからず、ことりはぼんやり瞬きをした。


 ――ローレライ。


 窓ガラスに映った生気のない少女を見つめて、そうだった、と思い出す。

 ローレライ、それが今のわたしの呼び名。

 夢の中では自由に声を発することができていた咽喉に手をあて、それが今はすこしもふるえそうにないことを確かめると、ことりは窓の外を見た。

 嵌め殺しの窓越しに呼びかける男には見覚えがある。昔から父のそばつきをしている初老の男だ。めったにないことだが、父親がことりを呼んでいるのだという。


「ご当主さまは本邸でお待ちです。今、外の鍵を開けますから」


 そばつきは窓から離れると、この離れで唯一の扉の錠を開けた。

 使用人たちからは《鳥籠》と呼ばれ、多くの窓が塞がれている洋館風の平屋建ての離れは、普段は外から錠がかけられている。ことりには逃げ出す意志もすべもなかったが、それが昔からローレライに対する家の決まりなのだ。

 いったい何があったのだろう。もう十年以上、外に出されることなんてなかったのに。

 不穏な予感を抱きつつ、ことりは立ち上がった。


 扉の外に出ると、飾り気のないワンピースの背にかかった色素のやや淡い髪が音もなく風に揺れた。長い睫毛にふちどられた伏せがちの眸は菫色。ぱっと目を引かないまでも、よく見ると可憐な顔立ちをしている娘だったが、手足は細く、陶器めいた血の気のない膚やぼんやりした無表情のせいで、精緻な人形のように生気がない。何よりも、少女の咽喉に刻まれた赤い花の印が見る者に異質な印象を抱かせた。


 少女はローレライ。生まれたときのなまえを、雨羽あまねことりという。

 《歌姫》の家に生まれた、もうすぐ十七歳になる少女だ。


 久しぶりに足を踏み入れる本邸では、使用人たちがせわしなく行き交っていた。だが、ことりにきづくと彼女たちは顔をこわばらせ、皆おびえたように柱の影に引っ込んでしまう。なんだか申し訳なくて、ことりは自然と俯きがちになった。


「今のって……」

「ローレライ。見たことがない? 初音はつねさまの、双子の姉君のほうよ」

「噂では聞いたことがあったけれど……ほんとうにいたの?」

「いるわよ、十年以上。《鳥籠》のほうにね。おひとりで生活しているから、顔を知っているのは古参の使用人だけだけど」


 柱の影から女たちが囁き合う。


「でも、どうして急に……」

「あの話、ご当主さまは本気らしいわよ」

「それってつまり初音さまのために……」


(あの話……?)


 気を引かれたことりが視線を上げると、前を歩くそばつきの男が足を止めた。


「――ご当主さま。お連れしました」


 そばつきが声をかければ、「中へ」と父親の声が返る。

 先々代の頃から使われている、少々豪奢すぎるきらいのある部屋だ。雨滴を模したクリスタルガラスを使った照明具の下、鳥の装飾が彫り込まれた長テーブルには雨羽家の当主である父親と双子の妹である初音がすでに座していた。


「ねえさま!」


 手にしていた端末から顔を上げ、初音がぱっと笑みを咲かせる。

 どれくらい顔を合わせていなかったのだろう。もともと痩せぎすだった父親はさらに痩せ、髪には白いものが増えていた。一方の初音は、臙脂のリボンを結んだ高校の制服を着ていて、菫色の眸には春の輝きを宿している。


「ローレライ」


 そばつきに促され、ことりはおずおずテーブルの端に立った。


「いくつになった、ローレライ?」


 しわぶきながら父親が尋ねてくる。


「…………」


 目を伏せたまま、ことりはちいさく肩を揺らす。


「あすには十七歳よ、おとうさま。わたしとおなじ。いやだわ、忘れたの?」


 応えられないことりの代わりに、初音が愛らしい声で返した。双子の妹は、顔はことりとうりふたつのはずなのに、表情豊かで春の妖精のように可憐だ。


「ねえさま、座って? わたしたちは姉妹なんだから、そんな使用人みたいに突っ立っていなくていいのよ」


 くすくすと甘いわらい声を響かせて、初音はことりに言った。

 のろのろ顔を上げると、にっこり微笑み返される。


「それに今日はとてもいい報告があるの」


 顔の前で軽く手を組み合わせる初音は喜びを隠しきれないようすだ。

 遅れて椅子に座りつつ、ことりは照明具に照らされたふたりのすがたをまぶしげに眺める。このようすだと、初音の話を聞くために、ことりは十年以上ぶりに離れから呼び出されたのだろうか。今まで一度も本邸に呼ばれることも、ふたりが離れを訪ねてくることもなかったので、ふしぎな心地がした。

 ある程度の年齢に達してから、ことりは身の回りのことも自分でしていたので、普段、離れに出入りをするのは、生活に必要なものを届けてくれる最低限の人間だけだ。それだって数日に一度で、言葉を交わすことはない。


「ねえさま。わたしね、婚約することになったの」


 眦を朱に染め、初音ははにかみがちに微笑んだ。


「お相手は火守ひもりかおるさま。火守家の次のご当主になられる方だそうよ」

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