第5話 打算的な彼女は値踏みする
広い海にポツンと浮かぶ小舟は太陽に照り付けられ、栗色の髪をした少女と長い黒髪を結った少年が干からびようとしていた。
「あちぃ……ボタレアってこんな遠かったのかよ……」
「あんなに自信満々だったじゃないですか……。なんでナギはそんなに行き当たりばったりなんですか……」
ナギと呼ばれた少年は言い返す気力も湧かないようで、何度言われたかわからない小言を気にも留めない。
「クレアは不死身だからいいよな……。塩辛いって言っても海水を飲んでも死なないんだから」
「だから死ぬんですって……。生き返るだけです。それに苦しいのは苦しいんですよ。死ぬのに比べたらこの暑さの方がまだマシですよ」
クレアと呼ばれた少女は言葉こそ丁寧ではあったが、ナギに対してぞんざいに言い返した。2人は飲み水の無くなった炎天下の中で、遠慮や気遣いまでも無くなっていた。暑さにイラつき口喧嘩になった時もあったが、体力が減り口の中が渇くだけだと気がつくとそれも最小限に済ませるようになる。
時折クレアが思いついたように櫂を漕ぐが、その力もすぐに枯れはて手が止まった。クレアの体力は無限にある訳ではなく、彼女の言葉の通り死んでも蘇るだけ。死ななければ体力は回復しないし、蘇ったところで元気いっぱいという訳でもない。
食糧も飲み水もなく、進むべき航路もわからない小舟は広い海で漂流していた。
高く空を飛ぶ海鳥が2人を嘲笑うように鳴いている。
「……ねぇ、あれ船じゃないですか?」
「どれだ……?ついに幻でも見えたか」
「あれですよ。この指のずっと先を辿ってください。絶対船ですよ!」
ナギは指で小さく輪を作り、その穴から目を凝らして見てみるが、だだっ広い海が白く煌めいているだけだった。
それもその筈で、何度も破壊と再生を繰り返したクレアの身体は常人の何倍もの力を生み出せるようになっており、それは視力にも影響を及ぼしている。
「何も見えねぇ……。本当に船があるとしてそれだけ離れてちゃどうしようもないぞ」
「進む方向さえわかればどうにかなりますよ。さぁ、ナギも一緒に漕いでください」
愚痴をこぼすナギもそれしか選択肢がないのはわかってた。わかってはいたがやり場のない怒りを、つい殺気として辺りに振り撒いてしまう。
「くそっ!!無駄骨だったら本当にここでおしまいだからな!信じるぞ!」
ナギのイラつきは少なからずクレアにも向けられたがそんなことで揉める程2人に余裕はなかった。
しかし、舟の遥か下に潜んでいた魔物からすると、理不尽に向けられた殺気は舟を攻撃するには十分な理由となる。
水面を滑る2人の舟が、ゆらりと近づく魔物の影に気がつくはずもなかった。
クレアが見つけた遠方の帆船では、また違う思惑が錯綜している。
「おい、ウェニール人の女!本当にこっちであっているんだろうな!」
「あってるからこのまま進んでください。それとウェニール人と呼ぶのはやめてください!」
女性の注意に対して甲板に嘲笑が広がる。
その船はボタレアから出航したものだった。ボタレアの兵士がサクレアを殲滅したことでサクレアを占領、開拓するために数十人の男達が運ばれている。
その船にはボタレア王の命により、ウェニール人と呼ばれる異民族が乗船していた。
シタニール神を信じるシタニール人は、別の神を信じる異民族を地上に住む野蛮な人という意味を込めてウェニール人と蔑む。
長い歴史の中で奴隷として扱われてきたウェニール人は、シタニール人を恨みながらも、魔石を発掘する技術を持たず、戦争に破れ、それを受け入れることしか出来なかった。
しかし、それは「アイレシアの悲劇」により一変する。
「ギャハハハ!空から降りてきたとかいう胡散臭い奴らを頼り始めた野蛮人が偉そうだな!」
「背中に翼が生えてるなんて下劣な鳥の生まれ変わりか、人の姿をした魔物に違いねぇ」
オニバス大陸の西端に位置する島国のシャムロキアに舞い降りたという翼を生やした者達は自らを天使と呼称した。
シャムロキアで何が起こったか未だに人々は知らないものの、敵対していたアイレシアを壊滅させたという事実は一夜にして知れ渡る。
天使達はマーテル由来の魔石を持たない代わりに、独自の技術と不思議な力を持っていた。魔石を有しない弱国シャムロキアは現れた天使達と協力関係を築き、軍事力を強大なものとしオニバス大陸の勢力図を塗り替えた。
オニバス大陸では地母神マーテルを信じるシタニール教、その教徒であるシタニール人が人口の5割を占めていた。しかし、大陸の中でシタニール人の統治する領土は9割以上と言われている。シタニール人の中でいくつかの分断はあれど、4大国とまとめられる国が睨み合いながらも裏では手を組み、拮抗状態を作っていた。
オニバス大陸の東端に位置し、国内で争いは絶えないものの採掘技術や武具の作成で隆盛したボタレア。
ボタレアから西にある山脈で隔てられ、大陸一の魔石採掘量を有したハセリア。
そのハセリアの西に広がる砂漠地帯を抜け、医学を始めとした学問が盛んなローザリア。
さらにそこから西には農業の発達したオリビアが存在した。
4大国の中でも力関係はあるものの、お互いの利害の為に手を取り合うことで、大陸を巻き込むような大戦が起こることはない。
そして、その4大国は大小さまざまな属国を有し、異民族を統治することで領土の拡大や労働力の調達、魔石を始めとした資源確保を国策とすることで大陸内での立場を維持しながら、他国に出し抜かれないようにしていた。
しかし、保たれてきた均衡も大陸の西端に位置するアイレシアの壊滅と、海峡の向こうから現れた天使率いる新たなシャムロキアの軍勢により瓦解しようとしていた。
「……地中のもぐらが。天使様の奇跡を目の当たりにした時、自分達が如何に愚かだったか知るといいわ」
「ベアトリーチェ!ちょっとこっちに来てくれ」
シタニール人に対し悪態をついていたベアトリーチェと呼ばれる女性は別のウェニール人の元へと向かう。
ウェーブのかかった長い黒髪を海風に靡かせる姿は周囲の視線を集めた。
それは好色のシタニール人でなくとも、つい生唾を飲み込んでしまう色気を漂わせる。
「天使様より借り受けたこの羅針盤という機械なんだが、やはり使い方が難しくて……。見てくれないか」
「ああ、ここの針を太陽に向けるのよ。そしてここのダイヤルを回せば……」
「おお、さすがデイジニアの才女だ!ありがとう!」
同郷のウェニール人に褒められてベアトリーチェの顔に笑みが戻る。
ベアトリーチェの出身地であるデイジニアはオリビアとアイレシアのちょうど真ん中に位置する自然の豊かな国だ。
しかし、長い歴史の中で表舞台に上がる事は無く、オリビアからは属国として扱われ、アイレシアからはオリビアに対する防波堤のように見做されていた。
そんな小国の平民として育つベアトリーチェは両親の畑仕事を手伝いながらも、空いた時間で本を読むことを習慣とする真面目な子供時代を過ごす。
それは知的好奇心を満たす為というよりは、自身のコンプレックスから目を背けることが目的となっていた。
ーーいつか、こんな貧乏暮らしから抜け出してやるんだ!
育てた野菜を少しでも高く売り、生活を切り詰めては本を買い、その時が来るまで備えていた。
コツコツと努力を重ねることで機会が来ると信じ続けた彼女だったが、その日は思いもよらない形で訪れる。
隣国であるアイレシアが壊滅し、シャムロキアの軍勢がオリビアに侵攻していくのをベアトリーチェは両親と眺めていた。
まともな防壁も装備も持たないデイジニアはシャムロキアの進軍を止める術も無く、シャムロキア軍もデイジニアをいたずらに破壊することはなく、キャンプ地としての最低限の役割を求める。
デイジニアの領主が攻め気のない侵略者を丁重に扱う様子を遠くから伺っていたベアトリーチェは集団の中で異彩を放つその人を視界に捉えた。
頭上に光る輪を浮かべ、翼を背中から生やした男を見つける。
青い瞳に青い髪。
一見すると同じ人間だが、明らかに自分達とは違う生き物であった。
日が落ちてきて民家では蝋燭の火が灯されようとしている最中、青い男の手元が淡く光るのを見てベアトリーチェの視線は釘付けとなる。
ーーあれは……ランプではなさそう。火を灯してないはずなのに、あれだけの光量があるなんて。魔石?いや、シャムロキアはほとんど魔石を持たないはず。それをこんなところに持ち出す訳がない。じゃああれは……。
ブツブツと考えに耽るベアトリーチェは光に吸い寄せられる虫のように、無意識のうちに青い男に近づいていく。
が、当然シャムロキアの兵士に呼び止められる。
「おい、女。何をしている。俺たちに遊んでもらいたいのか?」
「え?ああ……、あなたはあの人が持っているランプのようなものが何か知っていますか?」
「ランプ?ああ、ラファエル様の奇跡のことか。凄いだろ。彼らは魔石を使わずに奇跡の力で魔法が使えるんだ。あれは火を使わずに光を照らす機械とか言ってたな」
「ラファエル様……、奇跡……、キカイ?……」
ベアトリーチェは武芸を嗜まず、魔石を使いこなせるような魔力も持たない。誇れる家柄も無く、歴史に名を残すような才能が眠ってなどいない。
そんな彼女だが、周りの人と同じ速度で過ごした20年を、人一倍読書に費やし、常に頭の片隅では変化を求めていた。
視界が開ける感覚がした。まるで薄いベールを取り除いたかのように世界の彩度が上がる。海のような青が強烈にベアトリーチェの網膜に焼き付いて離れない。
ぼんやりと海を眺めながら旅立ったきっかけを思い出していた。
アイレシアの悲劇、天使の登場、見慣れぬ機械の伝播。
ベアトリーチェは世界が変わる潮目だと捉え、衝動的に故郷を旅立ち、天使の機械を奇跡と称して各地に広めることを目的としたウェニール人の隊商に加わり、流されるままにボタレアに辿り着き、気がつけば船の上で下品な男達に嘲笑われている。
「はぁ……。何やってるんだろ……」
溜息をつく彼女の心に積もる灰のような不安を他所に、太陽に照らされた水面は宝石のように眩く煌めいていた。
その美しい海は1人の船員の叫び声により、魔物の巣窟であることを思い出される。
「おい!二十本烏賊だ!クソッ、この季節になんで起きてるんだよ!」
頭上の見張り台から聞こえた叫び声でベアトリーチェは現実に引き戻された。甲板で慌てふためく者達の様子が見張り役の見間違いでないことを知らせる。
「べ、ベアトリーチェ!どうしたらいい!」
「落ち着いてください!天使様より託された銃を構えて!」
天使がもたらした不思議な機械は生活を豊かにするだけに留まらなかった。
火を使わずに闇を照らすランプ、広い海で迷わず目的地へ導く羅針盤、そして魔力を矢のように飛ばす銃が伝えられる。
特に銃はこの世界の勢力図を塗り替える恐ろしい機械だった。
これまでは重いハンマーやスコップといった掘削具から派生した武器による白兵戦が主だったものであり、一部の限られた者が数少ない魔石を用いて魔法を使うことで離れた距離からでも戦闘に参加する程度だった。山間部には弓矢や投石器を使う民族も存在していたが、厚い金属の鎧を纏うボタレアを始めとするシタニール人にはあまり効果的ではなく、精々牽制に用いられるに留まる。
しかし、遠方から魔力を射出する銃という武器の登場により、力自慢の兵士たちは一方的に攻撃をされるようになった。魔石由来の魔法とは根本から異なる魔力は、厚い鎧でも十分に防ぐことが出来ず、シタニール人達は天使の率いる軍勢は着実にオニバス大陸に広がっている。
さらに銃の最も恐ろしい点は使用するのに長い訓練を必要としないところにあった。
兵団を作り上げるのに強靭な肉体を持つ者を選りすぐらなければいけないという常識は覆され、銃さえ準備ができれば平民であっても戦力になり得た。
「クソッ!当たってるのに!」
「出し惜しまないで!このままだと船ごと沈められるわ!全弾射出して!」
もっとも、魔石由来でないとはいえ銃の使用にはある種のエネルギー源が必要であり、銃そのものもシャムロキアでの量産は捗らない。
それが鍛治や工業の発展したボタレアとシャムロキアが協力関係にある理由の一つであった。
二十本烏賊は帆船ほどの大きさを持つ胴体を海面から突き出し、その触手が緩慢な動きで海を叩く。
雨のように船の甲板に水飛沫が落ちてきた。よく晴れた青空に虹がかかる。しかし、幻想的で見惚れてしまうような光景について感動する者はいなかった。
激しく揺れる船の上、欄干から銃を撃ち続けるが二十本烏賊の表面を少し焦がす程度で状況に変わりはない。
「おい!ハンマーは何本ある!?ありったけ持ってこい!」
「何本あったってこの距離じゃ叩けねぇだろ!クソッタレ!だから海になんか出たくなかったんだ」
海には多くの魔物が棲息している。しかし、シタニール人にはそれを討つ戦闘技術が無かった為に大陸の外に広がる大海は異界と見做されていた。
いかに重い一撃を喰らわせるかという武力は狭い船上では真価を発揮出来るわけもない。
「ベアトリーチェ!どうしたらいい!?」
「そんなこと私に言われても」
激しく傾く船から振り落とされないようにすることに必死になりながらもベアトリーチェはこの死地を抜ける方法を探す。
ーー何か、何か無いか。あの烏賊を倒す方法は。何故か銃もまともに効いてないみたいだし……。あれだけ大きい烏賊であれば大量の墨が手に入りそう。普通の烏賊の墨はベタベタしているがあれだけ大きくても同じなのかな。寒冷地の屋根や壁に塗ったら蓄熱効果はないかな。いや、生臭そうだし無理か。
ベアトリーチェは窮地に立ちながらも目の前の魔物をどこに売るか、何がお金になりそうかを考えてしまう。それは自身に染みついた性でもあったが、浮かばない打開策に対する諦めや自棄にも由来していた。
時間は何も解決してくれず、船の揺れに耐えきれず海に投げ出される者が出てくる分、刻一刻と状況は悪化している。
「ベアトリーチェ!なんとかしてくれ!」
無責任な叫び声に怒る余裕も無く、船のメインマストにつなぐロープにしがみつくことしか出来ない彼女は、ある違和感に気がついた。
「何、あれ」
二十本烏賊から船に向かって何かが飛んでくる。触手の欠片かと思わせたそれは勢いよく飛んでくる、人だった。
「うわぁぁぁぁあ!!」
船の帆に飛び込み、猫のように身を翻しながらベアトリーチェの目の前に落ちてきた人物は、長い黒髪を一つに括り、大事そうに刀を抱えては息を切らしていた。
揺れがあるとは言え、甲板という名の地面を懐かしむようにしながら息を整えている。
平時であれば女性にも見間違いそうな凛とした顔も慣れない飛行による恐怖と緊張感で歪んでいた。
「し、死ぬかと思った……。クレアのやつ自分が死なないからって人のこと物みたいに扱いやがって」
「な、何よ貴方は!?どこから飛んできたの!?」
空から男が現れたことでベアトリーチェの心には警戒と淡い期待が生まれていた。
絶望的なこの状況を打破するには、イレギュラーな存在が必要だったから。
殲滅されたはずのサクレアの衣服に身を包んでいることなど気にも留めず、藁にもすがる思いで男に声をかけた。
数分前、クレア達の漕ぐ舟がボタレアの船に近づき、ようやくナギにも視認できるようになった頃、その異変に先に気がついたのはナギだった。
「何か……いるな」
殺気のコントロールに長けた彼は、敵から向けられるそれに対しても敏感に察知するが暑さからくる疲労で平時より集中力に欠け、それがすぐそばに近づくまで気配に気がつくことが出来なかった。
「何かいるんですか?上には……海鳥がいますけど、あれじゃないですよね?」
キョロキョロと辺りを見回す2人が殺気を放つ存在が舟の下にいることに気づくのに時間はかからない。
目を合わせるだけで交わす言葉もなく、2人は回す櫂に更に力を込めた。この海上で襲われてはひとたまりもない。泳いで逃げたとしても身を隠すための岸も見えない。
あるのは遥か遠く、帆船であることが微かに把握できるようになった目当ての船だけだった。
海面から2人の行く手を阻むように数本の触手がぬるりと顔を出す。刀を抜いたナギが舟に立つが、足場の不安定な小舟の上では威嚇すらまともに出来はしない。
「おいおい……、こんなのが海にはいるのかよ。世界は広いな……」
「大きな……烏賊ですかね。これじゃあの船に辿り着く前に沈められちゃいますよ」
冥界から戻ってきたクレアは以前に比べて肝が座るようになっていた。それが不死身からくる余裕とはいえ、同じトラブルに巻き込まれたナギは落ち着いてはいられない。
「クソッ!海の魔物にどこまで通じるかわからないがやるしかねぇな。クレア、この烏賊の足を任せるぞ!」
揺れる舟の上でナギは目を閉じ、精神を集中させる。冥界で狼を斬り伏せた時のように呼吸を落ち着け殺気を研ぎ澄ませた。針のように尖らせた殺気を烏賊の心臓へ……。
「なぁ!!烏賊ってどこに心臓があるんだ!?」
触手が互いに絡まないように2人の小舟を襲う。無防備だったナギを抱き締めるように抱え、クレアは間一髪で触手の攻撃を躱し、そのまま触手の上に着地した。
ズブリと膜を破るように烏賊の胴体が白日の下に晒される。
船の方から矢のようなものが飛んでくるが、烏賊の体表を微かに削るだけで致命傷にはほど遠い。
「これは……しょうがないですね。ナギ、私がこの烏賊を何とかしますから先にあの船で待っていてください」
刀を落とさないでくださいね、と言い抱えたナギを担ぎ、大きく振りかぶる。
「お、おい……、まさか……」
「舌を噛まないでくださいね。舌を噛んでも死ぬことはありませんが結構苦しいですから」
触手の上で助走をつけ、クレアはまだまだ遠い船に向かってナギを思い切り投げ飛ばす。
「バッカヤロォォォォォ……」
「大丈夫ですよ!ちゃんと帆に向かって投げましたからー!……さて」
クレアは振り向きざまに身体を触手に巻きつかれる。海から突き出した烏賊の胴体はまるで氷山のようで、ギョロリとクレアを見つめる眼球は子供の背丈ほどの大きさをしていた。
ヒィィッ!っと思わず声を上げてしまい、クレアは自分の泡立つ肌を見て自覚する。
ーーあ、私は不死身なだけで気持ち悪いと思うものや苦手なものが無くなった訳じゃないんだ。
死なない身体になってしまったことで、最早人間ではなくなってしまったと思っていたクレアは、人らしい感情に嬉しくなり思わず笑みが溢れる。生臭さやぬらりとした軟体動物の質感、細かくうごめく巨大な眼球の気味悪さからクレアは上手く身体に力が入らなくなり、されるがままになる。
圧倒的な力を手に入れたクレアであれば、二十本烏賊を破壊することは難しくなかった。
だが、人が虫に驚き狼狽えるように、苦手なものの前には無力になることもある。まして、クレアは不死身の身体を手に入れたことで目の前の魔物に対して恐怖を一切感じなくなっていた。あるのは気持ち悪い、出来れば触りたくないという生理的嫌悪感。
化け物じみた強さを手に入れたことで場違いな状況で感じられた人間らしさ。
それに喜んでいるクレアの姿は、巨大な烏賊とはまた別の、人の姿をした怪物のようだった。
クレアに投げ飛ばされたナギはその身のこなしのお陰でどうにか帆船の甲板に着地する。
「な、何よ貴方は!?どこから飛んできたの!?」
ベアトリーチェは突然現れた人物に戸惑い、それが味方なのか敵なのかも判断がつかず慌てふためく。
「ん?……ああ、急にすまない。でも自己紹介は後にしよう。とりあえず今はあのデカい烏賊を倒させてくれ」
「倒せるの?あの魔物を」
彼女の質問に答える前にナギは船のヘリまで駆けていき、二十本烏賊に向かって大声をあげた。
「クレアァァァ!!俺は大丈夫だぁぁ!!」
ナギの大声に反応するかのように二十本烏賊は触手を活発に動かし海に潜る。
その反動でもう一度船は大きく揺れた。甲板にしがみついていた者達が叫び声をあげる中でベアトリーチェは這いながらナギの元へ辿り着く。
「に、二十本烏賊が……。貴方が何かしたの?」
「いや、俺の仲間があの烏賊をぶん殴ったか噛みつきでもしたんだろう」
「な、何言ってるの?」
ベアトリーチェは事態が飲み込めず、魔物がいた辺りを見つめることしか出来ない。
さっきまで魔物がいたはずところからはもがくように触手が何本も突き出しては海面を打つ。
「大丈夫かよ、あいつ……。なぁ、この船をもうちょっとあの烏賊に近づけられないか?」
「無理に決まってるでしょ!あんな大型の魔物に近づいたらこの船ごと沈められるわ!」
「じゃあ小舟とか無いか?俺が1人で行くから」
ベアトリーチェはナギの話す言葉が理解できなかった。もちろん意味はわかるが、意図を汲むことが出来ず、目まぐるしく変わる状況に適応が出来ていない。
しかし、彼女はデイジニアで初めて天使を見た時と同じ感情を抱き初めていた。
自分の人生が変わるような、欠けていたパズルのピースを見つけたような。
「貴方はあの魔物を倒せるの?」
「……俺1人じゃ無理かもな。でも今仲間があの烏賊と戦ってるんだ。あいつがいれば倒せるはずだ。だから行かなくちゃ」
ベアトリーチェに時間は無かった。目の前の男が信じられるのか、その仲間とは何者なのか、自分にとって害を成すものなのか判断がつかない。
ただ一つ言えることは、目と鼻の先にいる二十本烏賊がこのままどこかに行ってくれるのを祈るだけでは助かる可能性は限りなく少なかった。
「ついてきて!小さな小舟しかないけど!」
銃が効かないような魔物を前にして、ベアトリーチェは怪しい男を頼ることにする。名前も出自も何を信じる人なのかも知らなかった。しかし、同じ敵を倒そうとしている目的だけは伝わっており、今の彼女にはそれだけわかれば十分だった。
既に船員の誰かがこの窮地を脱するのに持ち出され、残り一隻となった救命用の小舟でナギとベアトリーチェは荒れる海へと飛び出していく。
「おい!もっと早く漕げないか?クレアと言えど海中の魔物を相手取るのはキツいと思うんだ」
「そう思うなら漕ぐのを手伝って!私の力じゃこれが精一杯よ!大体着いて行くつもりなんてなかったんだから」
息を切らしながらベアトリーチェは一心不乱に小舟の櫂を回し続けた。
ナギはそんなベアトリーチェに背中を向けて、目指すべき二十足烏賊の触手がのたうち回る水面を真正面から見据えている。
波がベアトリーチェの努力を無駄にするように舟を押し返した。
「……全然近づけない。どこまで近づく気?それに貴方の仲間はどこにいるって言うの?」
「たぶん烏賊のどこかにしがみついていると思う。その証拠に烏賊がさっきよりもがいてるからな」
「海の中で?そんなの……、とっくに死んでるに決まってるわ……」
「いや、あいつは死なない」
ナギは希望ではなく事実として口にしたが、ベアトリーチェには無愛想な意気込みにしか聞こえない。
2人の舟はなんとか転覆はしないまでも大きく波を被り続け、舟の中の水も多くなっていった。
「このままじゃ沈むわ!もう引き返しましょう!」
「ここまでか……。よし、しっかり舟に捕まってろ!」
ナギは刀を抜く。深く呼吸を整えて練りに練った殺気を烏賊の心臓に目掛けて飛ばす。
が、ナギは大事なことを思い出した。
「そうだ!心臓がどこにあるのか分からないんだ……。なぁ、烏賊の心臓の場所を知らねぇか!?」
相手の心臓の鼓動と共鳴するナギの技は、敵の心臓の位置がわからないのであればその効果を発揮できない。
「こんな時に何言ってるのよ!」
「いいから!烏賊の心臓がどこにあるか知ってるのか!?知らないのか!?」
「うるさいわね!胴体の真ん中あたりに3つ!二十本烏賊がどうかは知らないけど、普通の烏賊はそうよ!」
「でかした!」
ナギは乱暴にベアトリーチェを褒めるともう一度深呼吸をして殺気を突き刺す。後ろでベアトリーチェが悪足掻きのように舟の水を掻き出しながら悪態をついているが、もうナギの耳には届かない。
ドクン、ドクン、ドクンとゆっくりとナギは海中の魔物の鼓動とリンクしていく。
『一撃必殺』
振りかぶった刀の一閃が海面に水柱を立てた。海を割るような奇跡は起こらないが、何本かの触手を断ち切る。痛みによるものかナギの殺気に当てられたか再び魔物は海面に大きな胴体を突き出した。
舟に立つナギの身の丈をゆうに超える高さの波が、ベアトリーチェの甲斐甲斐しい努力を無にし2人は海中に沈められる。
ーーもう無理……。なんでこんなことに……。あの男なんか信じなければ良かった。
勢いよく海底へ落ちていくベアトリーチェが心の中でナギヘの悪態をついていた頃、海面には2つの魔物の影が揺らめく。
それはナギの一閃が二十本烏賊を分断したことにより生まれた2つの巨体によるものだった。雲のように広がって行く黒い墨がベアトリーチェを包んでいく。薄れていく意識の中で人影がベアトリーチェとナギを抱えて水面へ浮上していった。
ベアトリーチェが意識を取り戻した時、目の瞑りたくなるような青い空が広がっていた。
さっきまでの騒ぎが嘘のように波は穏やか、風も落ち着いているが、彼女の全身はベタついた烏賊の墨で汚れ、飲み込んだ墨と海水のせいで空模様とは真逆の最悪な目覚めとなる。
「ゲホッ、ゲホッ……。ここは……船?」
頭痛と吐き気を伴った苦痛の中で、混濁した意識が状況を必死に理解しようともがく。
「ゲホッ、烏賊は……?みんなは無事?」
結果として被害は甚大で、船はボタレアへの帰還を決めていた。シタニール人もウェニール人も差別なく数人が海に落ち、何名かは騒ぎに乗じて逃げ出している。当初の人員の半分以下しか船に残っていない上に、海の魔物を目の当たりにした船員は、一刻も早く揺れのない地面の上に戻ることを決断した。中には計画通りにサクレアへ向かう考えを持つ者もいたようだが、船員同士の争いを経て意見は一つにまとまる。どうやら人の数が減っているのは烏賊がいなくなった後の人同士の醜い争いが理由でもあるようだが、ベアトリーチェがそれを知ることはなかった。
「気がつきました?貴女がナギの手助けをしてくれたんですね。ありがとうございました」
同じく墨まみれになったクレアがベアトリーチェに頭を下げる。溺れたところを助け介抱までしてくれた命の恩人はクレアの方であったが、義理堅く深々と頭を下げる。
同様にクレアに助けられたナギといえば、刀の手入れも終えて褌姿で衣服を乾かしていた。故郷の敵であるボタレアの船に乗ることに思うところはあったが、魔物との一戦を終えた直後に暴れる気にはならず、ぼんやりと心身の回復に努めている。
クレアからおおよその状況を聞いたベアトリーチェは船の行く先について意見を述べる気にはなれず、漫然と流れに身を任せることにした。
自分の暮らしを良くするために知識を蓄え、天使の存在を知り、ウェニール人の隊商に加わり、サクレアの開拓に参加することで自分の地位を上げようとした思惑は無惨にも破綻する。運良く一命を取り留めたものの、初めて死の淵に立ったことを意識したベアトリーチェは身体の震えが止まらなくなる。
「だ、大丈夫ですか?!寒いですか?ナギ、その服を彼女にかけてあげてください」
「だから濡れたままの服は脱がせた方が良かったんだ。ほら、これを着せてやれ。あいつらが変な気を起こさないように見張っててやるから」
震えは体温の低下からくるものではなかったものの、2人の優しさや気遣いはベアトリーチェの心を暖め徐々に落ち着きを取り戻した。
初対面にも関わらず自分のことを助けてくれたクレアとナギ、これまで自分達を虐げてきたはずが魔物の前では無力であったシタニール人、奇跡とされていたものの二十本烏賊を傷付けることが出来なかった天使から授かった機械の銃。
ふとした時の様子から2人は自分よりもいくらか若いように感じる。人の強さや優劣とは何なのかベアトリーチェは考えた。
「ねぇ……、2人はどこへ向かっていたの?」
ピクリと、2人が動きを止める。
カラッとした空気が、ピンと張り詰めた。
ベアトリーチェが気のせいかと思うほどにそれは一瞬だったが、2人の瞳にはギラついた殺気が込められる。
「私は、私の国を滅ぼした男を探しています」
「俺はサムロのみんなの仇を討つ為にボタレアを目指している」
まさかお前は自分の敵ではないよな、と。
返答次第で容赦はしない、と。
そう訴える4つの眼がベアトリーチェの背筋を凍らせる。汗が虫のように背中を這う。
「そ、そうなんだ……。助けてもらった御礼もしたいしボタレアで宿や食事ぐらいは用意したいけど……。仇の国なんかで過ごすのは嫌?」
探るように問いかけるベアトリーチェの心配を他所に、ナギはあっけらかんとした。
「いや、復讐するにしても無計画に暴れればいいってもんじゃないしな。拠点は欲しいしそうしてもらえると助かるよ」
先程まで場を満たしていた殺気が嘘のように、クレアも穏やかにうなづく。
ベアトリーチェから宿と食事という言葉を聞いて2人は腹の虫を鳴らし、疲れを誇張するかのように甲板に横たわった。
「お腹減った……。私最後にまともな食事したのいつだろう……」
「俺も布団の上で眠りてぇな……。この際、天井と壁さえあればいいや」
気を抜いた2人から年相応のあどけなさを感じたが、そんな余裕すらもベアトリーチェには強さに見えた。年端もいかぬ少年少女が過酷な状況でも自棄にならず、ましてシタニール人も天使の銃も歯が立たなかった海の魔物を倒してしまう。
ベアトリーチェは2人に興味を抱いていた。それは自分のコンプレックから来る野心や、シタニール人に虐げられてきた民族としての歴史や、好奇の目に晒される容姿や、知識量に対する嫉妬とは無縁だからこそ。
「自己紹介がまだだったわね。私はベアトリーチェ。デイジニアの生まれよ。今は隊商に加わって旅をしていたんだけど、もし良かったらしばらく貴方達の目的の手伝いをさせてもらえない?」
跳ね上がるように身体をお越し、クレアはベアトリーチェの手を取り飼い主を見つけた犬のように満面の笑みを向ける。
甲板に寝転がるナギは猫の尻尾のように手をヒラヒラとさせるだけの返事をした。
ベアトリーチェはこの2人と行動を共にすれば、金が稼げると感じた。利益の為に、夢の為にこの2人を利用するのだと自分に言い聞かせる。
誰に言い訳をしているのか、彼女は心の中で打算的な考えを巡らせた。それは2人から向けられた純粋な好意に、爽やかな感情にあてられたことへの反射でしかない。
風は西向き。日は天頂に位置し甲板から影が無くなっていた。
ベアトリーチェに顔が赤く染まっている理由を彼女の心だけが知っている。
もしも太陽が崇められない世界なら定番ファンタジーがどうなるか考えてみた アミノ酸 @aminosan26
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