第4話 いつか別れる為の握手

 クレアの身体は繰り返し再生する中で徐々に強度を増していき鉄のような硬度を手に入れていた。

 しかし、ナギの刀の一振りは皮膚を裂き、肉を切り、骨を断つ。

 ナギは自身の殺気をコントロールして相手の動きを誘導していた。

 だが、クレアの拳は一撃受けてしまえば容易に身体を破壊されるほどの力を有しており、攻め入る暇を与えてない。

 目の前に現れた相手に対し、両者は同じ感情を持ち始めた。

 ーーこの人/こいつ、私/俺より強いのか。

 一撃を入れれば勝てるはずのクレアは、より速く、より意表をついて攻め立てる。

 一閃を入れれば勝てていたはずのナギは、より多く、より再起出来ないように刀を突き立てた。

 気を緩めれば命を取られそうになる技の応酬は数秒か数十秒だったのかもしれないが、2人には数時間にも感じられるほどの緊張が走っている。

 刀の切先がクレアの頸動脈を切り裂き、鮮血が冥界の花を赤く染め上げる。しかし、クレアは距離を取ることもしなければ、一層ナギを翻弄するように足を旋回させて刀を蹴り飛ばす。

 武器を失ったナギに勝ち目はなかった。不死身のクレアに対し善戦していたのは間違いないが始めから勝負は決まっている。

 一太刀を入れた時からナギ自身もそれに気がついていたが、それでも手を緩めることは出来なかった。

 勝てない戦いであっても本気で戦うのがクレアへの礼儀であり、肉体が再生してしまい死ぬことが出来ない彼女を殺してやるのが彼女への優しさだと思っていたから。

 しかし、刀を遠くに蹴り飛ばされた今、ナギは緊張が緩み笑ってしまう。

「ハッ、強いなお前。どうやら不死身のようだがあと何回斬り伏せればお前は倒れるんだ?」

 ナギは殺気を無くし、死ぬ前にクレアに話しかけた。時間にしてほんの数分。こんなにも死を間近に感じた戦いは初めてで、嫉妬や悔しさとは無縁の心からの賞賛が口をつく。

「悪いが私は死なないらしい。あと何回切り刻まれても私が止まることはなかった」

 極限の緊張の末、立ち止まるナギの心臓はクレアの言葉を遮るように早打ちし、全身から汗を吹き出したナギがその場に尻をつき呼吸を落ち着けようと項垂れた。

 クレアは自分が蹴り飛ばした刀を拾いながら、自身の異変に改めて気づく。

 ーー私は体力まで無尽蔵になっていたのか。確かに汗はそれほどかいてないし、しばらく呼吸が乱れていないな。

 冥界に訪れる前に長い間瘴気の毒気にあてられ、心肺さえも破壊と再構築を繰り返していた為に無酸素運動になるような達人の連撃も相手がバテるまで受けきることが出来ていた。最もクレアでなければその前に絶命しているのだが。

 拾い上げた刀を見やり、クレアには一つの考えが浮かんでいた。果たして彼はどんな反応を示すだろうか。

 度重なる理不尽と長く続いた孤独のせいで怒りに支配されていた精神が、ナギとの戦いにより少しばかり社会性を取り戻していた。

 ナギは強引に肺の中の空気を吐き切り、脈拍に抗って大きく息を吸う。

 目の奥が明滅するのを堪えながら立ち上がり、背筋を伸ばしクレアに対峙した。

 自分の刀を拾い上げ、こちらへ歩みを進める彼女に対し口を開く。

「なぁ」「あの」

 お互いに相手が声をかけてくるとは予想しておらず、いざ遮られると自分が口に出そうとしていた言葉が不要で、場違いな内容に思えてしまう。

 クレアは拾ってきたナギに無言で刀を手渡そうとするも、アイレシア国には無い片刃のこの武器の正しい渡し方がわからず、そっとナギの前に置き、目線を切らないようにゆっくりと後退りした。

 その姿が獣を刺激しないように食事を与え、観察するように見え、ナギは思わず吹き出してしまう。

「ハッハッハ、お前の方が強いのに何を怯えているんだ」

「いや、貴方はアイレシアの人間ではないようだが、私はよその国の礼儀を知らない。この武器の扱い方もわからないから……」

 相手に気を遣いすぎたことを笑われてしまい、クレアは途端に恥ずかしくなり耳まで紅潮する。

 明確な敵意を向けられ続けていたことにより、相手を慮る気持ちが上手く身体を動かさない。

 さっきまで鬼神のような強さを見せたクレアが急に人見知りの少女のような振る舞いを見せたことが、ナギには滑稽に映りその様子に緊張が解ける。

「何だか色々と馬鹿らしくなっちまったな。なぁ、あんたの強さを見込んでお願いがあるんだが、俺の仇を討つのを手伝ってくれないか?」

 刀を鞘に納め、友好の証としてナギは右手を差し出し握手を求めた。

「俺はサムロのナギだ。……あ、聞いてなかったがあんたどこの国の人間なんだ?」

 見慣れない緑色の瞳からサクレアやボタレアの人間ではないと思い込んでいたことに気がつき、ナギは差し出した右手を罰が悪そうにプラプラと揺らす。

 クレアはナギの言葉の真意を掴みきれなかったが、国を問われ自身が姫であったことを思い出した。

「私は……」

 城の地下で生き埋めにされてから1年ほどの時間死に続けていたことをクレアは知らない。

 怒りが閉じていた記憶の蓋をナギの言葉が開いた。

「私はアイレシアの……アイレシアの第13代国王ジャックの娘クレア……」

「アイレシア……悪りぃけど知らねぇな。とりあえずボタレアじゃなくて良かったよ」

 サクレアから遥か西方に位置するアイレシアは小さい島国で育ったナギには馴染みのない国だった。

「え!? 国王の娘ってことはお姫様か!?そいつは随分と無礼を働いてしまって……」

 礼儀を知らないナギであっても王族がどんな立場にある人物かはわかる。自分なりの最大限の語彙で敬おうとするが、身に付いていない礼儀はクレアには挙動不審な動きにしか映らない。

「フフッ、自分のことも忘れていた私に王族としての扱いは不要です。今の私はただのクレアです」

 慌てるナギの右手を取り、改めて2人は握手をした。

 国や家族を失った2人は戦いの中で友を得る。

 復讐の為に手を組むことになる彼女らは、袂を分つ時にこの瞬間を思い出す。

 ナギの命を奪うことになるのは紛れもないクレアの右手とだった。


「しっかし、まさかお互いに国の生き残りだとはなぁ。クレアが手も足も出なかったってことはその男は相当強そうだな」

 鞄から自分の服をクレアに差し出し、ナギは改めて先程の戦いを思い返す。

 一対一という限定条件とはいえサムライの中で最強を自負していた自分が如何に世間知らずだったのかを痛感し、情けなくもなるがそれ以上に嬉しくある。自分より強い者がいるのであれば自分がもっと強くなれないこともない。ナギはまだ手に馴染みきっていない新たな武器を撫でながら笑みが溢れた。

「確かにあの男は強かった。でもここに着いた時の私はあそこの狼にすら勝てない程に弱かったんです。だけど今ならきっと……」

 激情したクレアに蹂躙されていた狼は突如現れたナギに対しても警戒を怠っていない。

 サクレアの人間が冥界を訪れることは稀にあった。他の国に比べて立ち込める瘴気が薄く、道のりも短いこともあり、祠で祈りを捧げていた者が迷い込む。そしてそれはサクレアでは神隠しと言われ、問題として取り立てられることもなかった為に冥界の存在が知れ渡ることもなかった。

 狼が怪訝な顔で2人を見つめる。クレアへの恐怖を抱きつつ、新たなナギというエラーの出現に本能が牙を剥く。

「な、なぁ一狼兄ちゃん。あいつどうするの?あの不死身のやつと同じくらい強かったけど……」

「馬鹿野郎!不死身のやつは不死身だから勝てなくたってしょうがないんだ。あっちの男はちょっと強いぐらいじゃ負けるはずないさ」

「ああ、何十年か前にここに来た人間もあの男と同じような格好をしていた。あの不死身の女が特別なだけだろう」

 3つの頭がお互いを鼓舞し合い、クレアとの距離を取りながらナギの隙を伺う。

 しかし、獲物を狩ろうとする時、相手もまたこちらを狩ろうとしていることを忘れてはいけない。

 ナギは視界の端に入る3つ首の狼に気取られないように微量の殺気を飛ばし挑発し続けていた。

「なぁ、あの狼はクレアにビビってるみたいだけど。今はもうクレアの方が強いのか?」

「そうですね。何度も殺されましたけどもう負けることはないでしょうね」

 山を思わせる巨躯、獰猛な6つの眼、容易に身体を貫くであろう無数の牙を前にサラリと言い放つクレアを見て、ナギは改めて闘争心を掻き立てられる。

 サムライは刀を抜き、狼へ不敵に歩み始めた。

「不死身の相手ってのは稽古には丁度良いのかもな」

「ち、ちょっと!私は死なないから何度も戦えたけど、貴方は生身の人間でしょ!?一回でも攻撃をくらえば死んでしまうかもしれないのよ!!」

「その狼より強いあんたの拳が俺に何回当たったんだ?まぁ、見てろって」

 狼は喉を唸らせ、ナギと対峙する。

 冥界の番犬としての役割を果たす為、外の世界の人間にそう何度も負ける訳にはいかなかった。

『一意専心』

 集中するナギには自分の鼓動以外の音が聞こえなくなる。針のように鋭い殺気を狼の心臓に飛ばし、相手と自らの鼓動のテンポをシンクロさせた。

 大顎を開き、涎を垂らしながら向かってくる狼の鳴き声も地面を揺らすほどの振動もナギは感じない。

『一撃必殺』

 ナギの一閃が狼を二分する。

 左右対称になった狼が音を立てて崩れ落ちた。心臓が止まった時、ナギの世界に再び音が蘇る。

「ふぅ……。心臓も3つあったら面倒だったがなんてことはないな。デカいだけの犬だ」

 ナギが編み出した必殺技は文字通り相手を一撃の元に斬り伏せた。クレアに使わなかったのは余裕からではなく対話がしたかったから。不死身の魔物が相手となれば技の鍛錬と考え出し惜しむことなどしない。

「すごい……」

 思わずクレアの口から漏れた感嘆にナギは得意気な様子で刀を回しながら見せつけるように鞘に納めた。

 練られた技は一撃で相手を仕留めてしまう為に繰り出すが機会は多くはない。ナギはこの必殺技の数少ない出番の為に格好つけたパフォーマンスの練習に時間を費やしてきた。

 剣の天才だからこそ、鮮やかに、魅せることを美徳する。

 もっとも、集団で戦う場面ではそんなことをしている暇はないのでナギのパフォーマンスが披露されることはその後殆どなかった。

 一国の姫として生きてきたこともあり、クレアは世間を知らない。同じ年頃の青年はアイレシア国にも当然いたが、自分よりも強い人は出会ったことがなかった。ましてや、何度も自分を痛めつけた魔物を一瞬で葬ってしまうなんて思いもしない。

 ーーこの人となら、あの赤い男を倒せるかもしれない。

「ナギ、貴方の強さを見込んで頼みがあります。その力を貸していただけませんか?」

 今度はクレアからナギヘ右手を差し出す。

 それは祖国の為、自分の目的の為の利己的な想いから来る行動ではあったが、それだけではなかった。

 ナギといれば自分はもっと強くなれるという確信と、同世代の男性に対する興味も含まれている。しかし、それは恋愛感情として芽吹くことはなく、よき友人として花開くことになるが、クレアにはまだその違いを理解出来ていない。

 クレアから差し出された右手を、ナギは自分の剣技への最大級の賛辞だと捉える。同様にクレアの力を欲していた彼にとっても断る理由のない提案となっていた。

「ああ、もちろんだ。そのクレアを負かした男ってのにも興味があるからな。その代わり、俺は俺の為にボタレアへ復讐をするつもりだ。その手助けもしてもらうぜ」

 かくして2人は復讐の為に仲間となる。

 青い青い冥界で祝福するように光の粒が発光していた。

 それが冥界に生じ始めた異変の前兆であることを2人が知る由もない。


 狼の異変に気がついたのはクレアだった。

 何度も戦ってきた彼女にとっては、それが異常事態に感じられる。

 地上への道を戻ろうとしていたナギがクレアに声をかけ、それに応える。

「あの狼……。もうとっくに再生を始めてもいい筈なのに甦りません……」

 本来であれば甦ることこそがおかしい筈だが、何度もそれを目の当たりにしたクレアにとっては未だ二分されたまま動かないその姿にこそ違和感を覚えた。

「生き返られる回数に限りでもあったんじゃないか?さっきのが最後の1回だったか……、それとも俺の必殺技は不死身の魔物すら倒してしまうものだったかな」

 ハッハッハと呑気に笑うナギであったが、その原因がナギにある点は間違っていなかった。

 マーテルの魔力を源として作られた狼は、同じくマーテルの魔力を由来とする魔石を用いることで不死身の力を断つことが出来る。

 人工的に魔石と化していたナギの刀は意図せずその力を発揮していた。

 再生するのに見慣れてしまったクレアからすると黙って死んでいる狼の姿が不気味に感じる。

 その不気味さは些細な違和感を気づかせる。

「ねぇナギ、この光の粒ってこんなに強く光ってませんでしたよね?」

「ん?この蛍みたいなやつか?いやぁ、こんなもんじゃないか?」

 ナギは冥界の滞在時間も短く、クレアとの戦いや狼との対峙といった、より集中すべきことに意識を割かれていたこともあり冥界の変化に気付けない。

 しかし、目を凝らせば、耳をすませば、それは着実に。

「……確実に何かが起こっています。下……いや上?」

 下や上だけでなく空気中でもその変化は始まっていた。

 エラーの生じた魂を分解する為の狼がいなくなったことを契機に何が起こったのか。

 それはエラーの生じた魂が分解されなくなった、という単純な話に収まらず、生まれ変わるはずだった魂のエネルギーが瘴気を媒介として形を成してしまった。それはつまり、肉体を持たない亡者として冥界を埋めていく。

 1人、また1人と朧げな輪郭が境界線を太くしていった。

「……おい、こいつらはどれぐらい強いんだ?」

「わかりません……。こんなの今までいなかったのに……」

 閑散としていた青い平原は数分もしないうちに祭りでも行うかのように亡者で埋め尽くされていく。

 最初期に現れた亡者は今や人と見間違うほどにハッキリとそこに存在し、ゆっくりとだがクレアとナギに向かって行進していた。

「この数はマズイな。クレア、行くぞ!」

 祠から来た道を戻るがそちらにも亡者は現れている。仕方なく刀で斬り伏せ道を作ると亡者達の狙いは明らかにナギへ集まっていった。

 ナギの強さは対峙する相手の呼吸や鼓動を読む洞察力や集中力と、微かな動きから次の動きを読む戦闘のセンスに由来する。相手が複数になることで意識が散漫になってしまい、体力や精神力が摩耗してしまうので本来の強さが発揮できない。

 その為、一撃で倒せるような力量の差があれど大量の敵に囲まれてしまうような戦闘を最も苦手としていた。徐々に数を増していく亡者達はナギにとっては天敵である。

「くっ……、雑魚どもが……」

 無数に沸いてくる敵の一人一人に対して無意識に呼吸を読み、最適な動きを考えてしまう。当然ナギの力があれば目の前の敵から最低限斬っていくのが負担が少ない。分かっているものの思考の取捨選択を苦手としたナギの消耗は加速度的に激しさを増す。

 敵の数を減らし安心して背中を預けられる仲間がいればーー

「ウリャャャァア!!」

 咆哮の中で鈍く硬いものをぶつけた様な音が響く。

 クレアは亡者を掴んでは力任せに投げ飛ばし、ドミノ倒しのように後続の亡者達が吹き飛ばされていく。投げられた亡者の勢いはおさまらず、先に亡者の身体が衝撃に耐え切れなくなり弾け飛ぶことでようやく止まった。

 クレアの拳の一突きが亡者達を吹き飛ばし、一蹴りが亡者達を薙ぎ倒していく。

 ナギはクレアの暴れっぷりに驚きながらも口元に笑みが溢れた。

 ーーこいつといれば俺はもっと戦える。

 頭を圧迫していた無駄な思考が敵の数と共に減っていくのを感じた。安心して背中を預けられる仲間の存在が、足りなかったピースをはめるようにナギの心を満たす。

「クレアッ!こいつらはいつまでも沸いてきそうだ。このまま逃げたほうがいい!」

 自分が来た道を指し示しながら、クレアを誘導した。群がってくる亡者を振り払いながらサクレアの祠に通じる横穴に飛び込む。

「ナギ!この道はどれぐらい続いてるの?」

「わからん!結構長かった!」

 いい加減だなとクレアは思わず吹き出してしまう。声色から大真面目なことは伝わってきたが、徐々にナギの人柄も掴めてきた。自分の感覚を信じ、勢いよく人を引っ張ることの出来る人間性に気持ち良さを感じるようになっている。

 暗闇の中、横穴に入ってもぞろぞろと亡者達はすぐ後ろまで迫ってきた。

「後ろ閉じますね!崩れたらごめんなさい!」

 ドゴォオ!!と大きな音と共に穴が揺れる。

 ナギの頭上に無数の石が降り注ぎ、後ろを振り向くが何が起こったのかわからない。

「クレアッ!大丈夫か!」

 返事がない。冥界へ向かっていた時と違い刀が発光していないので一寸先の様子も伺えない。

 クレア!ともう一度叫んだところで走ってきたクレアと思い切りぶつかる。勢いよく体当たりをされたことでナギの身体が穴の奥へと弾かれた。

「ご、ごめんなさい。ナギよね?暗くて見えなくて……大丈夫?」

「いっ……てぇ……。お前……自分が馬鹿力だって自覚してくれよ……」

 その身のこなしから殆どの攻撃を躱わすことが出来るナギは打たれ強いわけではなく、不意にくらうクレアの突進に悶絶する。

 息が止まりうずくまるがクレアの他に気配はない。あれだけ後ろを追ってきた亡者達の呻き声がまるで聞こえてこなかった。

「あ、あいつらは……」

「天井を砕いて穴を塞ぎました。恐らくもう追ってこないと思います。それより大丈夫ですか?おぶった方が良いですか?」

 ナギは暗闇で良かったと思ってしまう。自分が苦悶の表情を浮かべていることをいくらでも誤魔化すことが出来るから。

「い、いや大丈夫だ。ちょっと変なところにぶつけただけだ。さぁ、サッサとこんなところおさらばして外の空気を吸おう」

 ナギの取り繕った声は痛んでいるのを悟られたくないのだろうということが容易に伝わる上擦り方だったが、クレアは額面通りに受け止めてしまう。

 ーーナギは凄いな。思い切りぶつかってしまったから骨でも折ってしまったかと思ったけど。きっとあの特殊な戦闘技術のお陰なんだろうな。

 短い時間でクレアはナギヘ絶大な信用をするにまで至ってしまう。元々他人を疑う性格でなかったが、その上で自分の持ち得ない技を持つとなれば憧れにも似た感情を抱いていた。それは彼女が末の娘であり、蝶よ花よと可愛がられて育ったことにも起因するが。

 世間知らずのお姫様と田舎者のサムライは、国と家族を失い冥界に迷いこむという悲劇を演じながらも、地上への道をひたすらに走った。己の足でその悲劇を終わらすべく。友と一緒に。


 息を切らしながら2人が入江に戻る頃、外は朝日が昇ろうとしていた。

 ナギが横穴に入ってから外の世界では1ヶ月ほどの時間が経過し、小舟にはざらついた埃が薄く積もっている。

 冥界と外の世界では流れる時間の速度が違っていた。

 ナギは数時間程度の滞在だったが、クレアは赤い男に呪われてから1年ほど経過している。冥界では狼に数ヶ月単位で食い殺され続けていた為、「アイレシアの悲劇」からは3年が経とうしていた。

「久しぶりの太陽……。またこうして外に出られるなんて……」

 クレアはまだ世界の変貌に気がついていない。赤い男をはじめとした異星からの来訪者がシタニール人を支配し始めていることを。

 ナギはまだ海の向こうに広がる世界を知らない。サクレアが襲われた理由も異星からの来訪者が原因であることを。

「アイレシアがどんな国か知らねぇけど、サムロの太陽も綺麗だろ? 大陸の人間は太陽が嫌いなんだっけ?」

 シタニール人は地母神マーテルを奉るという価値観から地下深くにあるもの程、神聖であると考える。その為、空高くにある太陽は忌避されないまでも祈りの対象になることはなかった。

「嫌いってことはないですよ。綺麗だなとは思います。ただ、こんなに日の光がありがたいものだと思ったことはありませんでした」

 2人が乗れば手狭になる小舟を押しながら、眩しそうに目を細める。

「俺さぁ、結婚するまでは島を出て大陸で剣の腕を磨こうと思ってたんだ。まさかこんな形で島を出ることになるとはな……」

「私も国を出て武者修行をしようと考えてました……。え!?ナギは結婚してるんですか!?」

 出会い頭に戦った2人は苛烈な過去を持つという共通点がありながらも、お互いのことは何も知らなかった。長い旅の中で相手の好きな食べ物や苦手な人、何に怒るのかどんな言葉に喜ぶのかを知ることになる。

 勢いをつけ小舟に乗り込み、クレアが櫂を回すとグンッと舟は前に進んだ。

「おい!勢いがあるのはいいが、ボタレアは逆方向だ。太陽から逃げるように漕ぐんだ」

 小さくなっていく島を見てナギは手を合わせて拝んだ。サクレアにそのような祈りも作法もない。だが、故郷を離れるこの瞬間、島の人々に育てられたこれまでを想えば、何もしない訳にはいかなかった。ナギなりの最大限の敬意と感謝を込めて手を合わせる。

「ナギ、違う国で育った私達では身についた教えも信じるものも同じではないはずです」

 太陽から少しでも早く遠ざかろうとクレアは手を止めずナギに声をかけたり

「あくまでもアイレシアの……、おそらくシタニール人の教えですが『冥界を振り返ってはいけない』という言葉があります。亡くなった人を想って後を追わないように、という意味だと思います……」

 クレアはナギを怒らせてしまう覚悟で言葉をかける。なぜならシタニール人であっても国を離れる時、家族と別れる時に寂しさを抱くことに共感を持てるし、決意を持って島を出るナギにわざわざ言う必要はなかったかもしれない。

 しかし、クレアはまだナギのことを知らない。存在も知らなかった小さな島の田舎者が、シタニール人と同じ死生観を持つものなのか測れず言葉にしてしまう。

 それは根底に潜む見下しや差別、選民思想から現れていた。

 シタニール人と非シタニール人、ボタレアとサクレア、強者と弱者。

 ただし、クレアも王族という身分でありながら世間知らずの姫様に過ぎない。マーテルを信仰しない人々にも知恵があり、成熟した精神が備わっていることをまだ知らない。

 島に背を向けたナギは大きく深呼吸をしてクレアに相対した。

「『冥界を振り返ってはいけない』か……。サムロだと『死者に呼び止められても応えてはいけない』って言い伝えはあるな。意味は大体同じだろうから何処でも似たような教えがあるのかもな」

 それが大陸から島に伝わったものなのか、魂が直観的に気づく発想なのかはクレアにはわからない。わからないが魔石の有無や信じる神の違いは人の優劣や価値を決めるものではないのだと気づくきっかけとなった。

 櫂を漕ぐクレアには向かい合うナギの表情が逆光となり読み取れなかったが、どんどんと小さくなっていく島が彼の生まれ育った故郷だと思うと不思議とどんな顔をしているかわかる気がする。

 太陽から逃げるように2人は舟をボタレアへと進めた。


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