第63話 祈り

「お母さま。こんやはお母さまといっしょにねたいです」


 ヴィクトル様が不在の夜。アレクシアは枕を抱いて、私たちの寝室を訪ねてきた。


 無鉄砲で怖いもの知らずな子だけれど、甘えん坊なところもあって可愛い。


「ええ、いいわ。いらっしゃい」


 いつもヴィクトル様と寝ている大きなベッドは、私とアレクシアが横になってもまだ余裕があるので、ヴィクトル様のかわりにくまのぬいぐるみを寝かせた。


 子供の時にお父様に買っていただいた思い出のぬいぐるみは、いい大人になった今でも私の大切なお友達だった。この地にお嫁に来る時も一緒に連れてきた、長い付き合いの「くまさん」だ。


「くまさん、お父さまみたい」

「そうでしょう? よく似ているの」


 くまさんの顔には、偶然にもヴィクトル様と同じ位置に傷がある。昔、破れてしまった時にエリーゼお姉様が直してくださった跡だ。お姉様の愛を感じられる傷も含めて、くまさんは私の宝物だった。


 ベッドサイドの燭台をともして、絵本を開く。


 美しいレースの背表紙のついた絵本は、オステンブルクの両親がアレクシアへと贈ってくれた童話だった。


「……『魔法使いは杖を振りました。するとかぼちゃはたちまち黄金色のすばらしい馬車に変わったのです』……」

 

 娘とくまさんに絵本を読み聞かせながらも、胸の奥にこごるような黒いもやを感じる。


 うつる病気ではないのが幸いだけれど、胸に水が溜まっているのか、声がかすれてしまうのが心苦しい。


 最近は体調が悪化して、アレクシアと一緒に出かけることもできなくなってしまったから、私にしてあげられることはこのくらいしかないのに。


「……『魔法の杖が触れると、着ていたぼろ布の服はまたたく間に、宝石をいっぱい散りばめた美しいドレスに変わりました』……」


 聞き苦しいはずなのだけれど、アレクシアは文句を言うこともなく、食い入るようにじっと絵本を見つめていた。


──アレクシアも女の子なのね、と私は目を細める。やっぱりロマンティックな愛の物語に興味があるのだわ。


「……『そして二人は、いつまでも幸せに暮らしました』……」


 読み終わって絵本を閉じると、アレクシアは真剣な顔で尋ねてきた。

 

「お母さま、まほうつかいにはどうしたらなれるのですか?」


 そっち?


「魔法使いのことを考えていたの? 王子様とお姫様のことではなくて?」

「おうじさまもおひめさまもどうでもいいです」

「どうでもいい……」


 ばっさり切り捨てる発言に、あ然としてしまう。


 女の子はロマンスに憧れるものではなかったかしら……? と疑問符を浮かべていると、アレクシアはあどけない口元を結んだ。


「わたしもまほうつかいになりたいのです。だってまほうがつかえたら、お母さまを元気にできるから」


 愛も恋も興味はない。王子様もお姫様もどうだっていいから、魔法使いの不思議な力がほしいのだ──とアレクシアは言った。


「お母さまのびょうきをなおしたい。お母さまに……元気になってほしいの……」


 愚かなことに、私はこの時やっと気が付いた。


 アレクシアが私と一緒に眠りたいと願ったのは、寂しいからではなかった。甘えているのでもなかった。


 この子は私を守ろうとしている。ヴィクトル様がいない夜、私に異変が起きないか守るために、一緒にいようとしてくれたのだ。


「アレクシア……」


 胸が詰まった。

 病魔よりもはるかに強くてあたたかいもので、身体がいっぱいに満たされる。


「……ありがとう。心配させてごめんなさい」


 抱き寄せて頭を撫でると、アレクシアも両手を伸ばして強くしがみついてきた。


 まだ子供らしくて柔らかい髪は、黒曜石を溶かしたような漆黒。ヴィクトル様に似た、私の大好きな色だ。


「アレクシア、この世に魔法はないの……」


 現実に魔法はない。超能力も、異能の力も、聖なる力もない。


「不思議な力が存在するのは、おとぎ話の中だけ……」


 この世に魔法使いはいない。守護してくれる天使も、助けてくれる妖精も、力を貸してくれる精霊もいない。


 人智を超えた奇跡は起こらない。私に許された時間はあとわずかだ。


 だから元気になるとは誓えない。病気が治るとも約束できない。言えば嘘になってしまう。──けれど。 


「愛しているわ、アレクシア。私の大切な娘」


 けれど、この言葉だけははっきりと言える。


 愛している。私のたった一人の子。

 この命が終わっても、変わることなく愛している。


「……私はもうすぐ、あなたと一緒にいられなくなるかもしれない……」


 でも、と私はかぶりを振った。


「そばにはいなくても、いつだってそばにいるわ」


 矛盾した言葉になってしまったけれど、アレクシアはこくんとうなずいた。


 その純粋でまっすぐな瞳を見つめながら、この子がお腹にいた頃のことを思い出す。


 アレクシアを妊娠していた時、私は毎日神様に祈っていた。──どうかヴィクトル様に似た子を授かりますように。


──辺境伯としてこの地を統べるにふさわしい、強い子が生まれますように。


(私の願いは……叶っていたのだ……)


 私の祈りは届いていた。アレクシアは私が望んだものを持って生まれてきてくれた。


 もう思い残すことはない。私の人生は長くはなかったけれど、言葉に尽くせないほど幸福だった。


(……天国には、行けないかもしれない……)


 そう思った。愛するものが地上に多すぎて、天には昇れないかもしれない。


 窓の外を仰げば、リートベルクを囲む雄々しい山脈が美しい三角の形に尖っている。夜のとばりの中にも、険峻な高峰が清らかな万年雪をいただいているのがわかる。


 この不自由な肉体から自由になったら、私はあの純白の雪になるだろう。


 この地に広がる森の中に流れて、湖へと注ぐ水のひとしずくに。

 山と山とを橋のようにつないで、空に架かる虹のかけらに。

 娘が生まれた日のような、ひだまりを含んだ春の風に。

 闇夜の中にきらめいて、愛する人たちを見守る天嶮てんけんの星になるだろう。


 そして私は祈る。私の生涯で最後の願いを。

 

──どうかこの子の人生が愛で包まれますように。


 アレクシアを尊重し、いたわり、大きな愛を捧げてくれる相手が──私にとってのヴィクトル様のような人が、この子にもどうか現れますように。






Fin.








読んでいただきありがとうございました!

絵本は前作32話で登場したのと同じものです→https://kakuyomu.jp/works/16817330668647312702/episodes/16817330668701918765


次回からは本編の続きをお送りします

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る