【本編】襲爵編

第64話 門出の日

58話の4年後のお話になります。

よろしくお願いします! 

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 リートベルクにとっての晴れの日は、まさに抜けるような晴天に恵まれた日でもあった。


 どこまでも澄んだ蒼穹には、太陽が燦々と輝いていた。山波がくっきりとした稜線を描き、若草の茂る野辺が緑色の海のようにそよいでいる。凪いだ湖面は天空の色を映し取って、深い青碧の光をたたえていた。


 まさに青天白日。リートベルクの新たな門出にふさわしい、絶好の晴天に恵まれた日だった。


 丹念に手入れされた毛づやの良い馬たちが、車をながえを揺らしながら、誇らしげにいななく。


 門前には城に務める使用人たちがずらりと並んで、王都に旅立つ若夫婦を見送っていた。


「……お二人とも、道中お気をつけて」


 ブリギッタは旅装に身を包んだアレクシアの手をぎゅっとにぎって、しわだらけの目元を細めた。


「アレクシア“お嬢様”……こうお呼びするのも最後なのですね……」


 感慨深そうにつぶやき、ブリギッタは目尻に浮かぶ涙をぬぐった。


 ブリギッタが情熱を注いで育ててきたアレクシアは、まもなく「辺境伯令嬢」ではなくなる。


 この地を発ち、王都に入城した後、王宮を舞台にして建国記念の宴が開かれる。その直前に設けられる叙勲の儀をもって、アレクシアは女辺境伯となるのだ。


「私のお嬢様が……当主になられる日が来るなんて……」


 アレクシアの淑女教育はとうの昔にあきらめ、今はエリザベートに夢中なブリギッタだが、それでもどんなに心が折れようとも、どんなにがみがみ叱ろうとも、ブリギッタにとっての「私のお嬢様」はやはりアレクシアなのである。


 感極まるブリギッタの背を優しくさすって、アレクシアは父のヴィクトルを振り返った。


「行ってまいります。お父様」

「ああ、行ってこい」


 ヴィクトルが辺境伯の地位を退くと言い出したのは、ちょうど一年ほど前のことだった。


 自身は今のアレクシアよりも若い時分に当主の座を継いで以来、三十年以上にわたって辺境伯の責務を担ってきた。


 だからもう潮時だ、充分働いた――というのがヴィクトルの言い分だったが、話し合いの末にぽろっと「これからは孫たちと遊んで暮らすんだ!」と駄々をこねたあたりに本音がもれていた。


 爵位の継承は当主の死亡時であることがもっとも多いが、先代当主と次期当主の同意があれば、生前退位も認められている。四年前に突然の当主交代で世間をにぎわせたアーレンブルク公爵家もそうだった。


 特に辺境伯は異国と接し、防衛に努め、辺境管区に睨みをきかせる軍事の長でなくてはならない。


 その性質上、死亡時まで当主を担う者はむしろ少なく、後継者が育った時点で譲位し、先代当主は後見と補佐に徹するのが慣例となっていた。


 貴族の襲爵しゅうしゃくは何かと煩雑な手続きが多い。代替わりごとに王家の承認を得て、国王直々に襲爵を許されなくては当主とは認められない。


 一年をかけてこつこつと準備を進め、提出した申請書も無事に受理され、あとはようやく叙勲の儀式を残すところまで来ることができた。


「こちらのことは心配いらん。孫たちと待っているからな」


 ヴィクトルは早くも肩の荷を下ろしたような顔で、目に入れても痛くない二人の孫の肩に、大きなてのひらを置いた。


 五歳のエリザベートと、三歳のヴォルフリック。


 ヴォルフリックはエリザベートの弟だ。祖父や母によく似た漆黒の髪を持って生まれ、ヴォルフの愛称で呼ばれている。


 ルカはしゃがんで、娘と息子の目をじっと見つめた。


「リザ、ヴォルフ。義父上の言うことをよく聞いて、いい子でいてね」

「はい、お父さま──」

「やだあぁぁ!!」


 エリザベートはお利口にうなずいたが、ヴォルフリックは泣きながら父にしがみついた。まだ三歳とは思えないほど力が強く、一度こうなると大人でも容易に引き剥がせない。


「いっちゃやだぁぁぁ! 父上がいないとさびしくてしんじゃうぅぅ!!」

「僕もだよおぉぉ愛してるぅぅぅ!!!」


 父と息子はがしっと抱き合った。


 姉のエリザベートと同様、ヴォルフリックも生まれた時からずっと父の無償の愛を注がれて育った。


 子供とは一番そばにいて世話を焼いてくれる相手になつく生き物なのである。


 健やかなるときも病めるときも、ルカが常に愛し、世話し、見守り、看病し、夜泣きに付き合い、遊び相手になり、毎日ご飯を作って食べさせてきた結果、ヴォルフリックはすっかり立派なパパっ子に成長したのだ。

 

「ヴォルフ。お父さまをこまらせちゃだめよ」


 エリザベートは年上らしく弟をなだめた。


 声も動きも大きくて元気いっぱいの弟に対し、姉はおとなしくて聞き分けも物わかりもいい。同じように育ててきたつもりなのに不思議である。


「おじいさまもわたしもいるから、さびしくないでしょう?」

「あねうえぇ……」


 ヴォルフリックは泣きべそをかきながら姉を見上げたが、父にしがみついた手はゆるむ気配がなかった。アクアマリンの瞳には涙が浮かび、漆黒の髪がくるっとやんちゃにはねている。


「……リザ、ヴォルフ。ほら、を渡してくれる?」


 ルカが子供たちの耳元でひそひそとささやくと、二人ははっとした。


 姉弟は目と目を合わせ、一通の手紙を取り出すと、二人で一緒に持ってアレクシアにさしだした。


「おかあさま!」

「おてがみ、かいたよ!」

「手紙?」


 アレクシアは封筒を受け取って、青い目を丸くした。

 

「いつの間に……?」

「お父さまにおそわったのです」


 五歳のエリザベートは最近、ルカに習って少しずつ文字が書けるようになってきていた。そこで人生で初めての手紙を、出立する母に向けて書くことにしたのだという。


 アレクシアは封を切って手紙を開いた。便箋の上にはたどたどしい子供の字で、叙勲への祝いと道中の安全を祈るといった内容がしたためられている。


 手紙の後半には、丸と点と棒を組み合わせた人間らしい絵がふたつ並んでいるが、これは三歳のヴォルフリックが描いた両親の似顔絵だそうだ。


「とても上手に書けているな。ありがとう、リザ、ヴォルフ」


 アレクシアが褒めると、子供たちはぱあっと嬉しそうな笑顔を浮かべた。かわるがわる両親に抱きついて、甘えた声でせがむ。


「お父さま、お母さま、はやくかえってきてね」

「かえってきてね!」


 ああ、とうなずいて、アレクシアはもらった手紙を大切にふところにしまった。服の上から手を添えて、そっと一人ごちる。

 

「私が死んだら棺桶に入れてもらうかな……」

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