第65話 ヴォルフリック・ヴィクトル・リートベルク
ヴィクトルの右肩にエリザベートが、左肩にヴォルフリックが乗って、大きく手を振っている。
孫たちが赤子の頃は怖くて触れられないと言っていたヴィクトルだが、さすがに五歳と三歳ともなれば恐怖心も薄れたようだ。
子供たちも誰よりも大柄で背の高い祖父の肩は、見晴らしがよくて楽しいらしい。ルカとアレクシアを乗せた馬車が出発し、遠ざかり、街道の先に消えていくまで、ずっと手を振って見送っていた。
「リザぁ……ヴォルフぅ……義父上ぇぇぇ……」
ルカも城の遠景が見えなくなるまで、名残惜しそうに車窓に張りついていたが、やがて涙を拭いて、向かいの席のアレクシアに問いかけた。
「となりに行ってもいい?」
「ああ」
愛する義父と子供たちと離れる寂しさを癒すには、最愛の妻を摂取する以外にない。
ルカは席を立って、アレクシアのとなりに腰を下ろした。
結婚して何年も経って、もう二人も子供がいるというのに、未だに彼女と手が触れ合うだけでドキドキするし、香りを吸うだけで心が回復する。
さらりと流れる黒髪は、先ほどまでルカにしがみついて泣いていた息子と同じ色だ。ルカは愛おしそうに、長い髪をすくってキスを落とした。
「ヴォルフ、ますます君や義父上に似てきたよね。嬉しいな」
ヴォルフリックは父のルカよりもむしろ祖父のヴィクトルによく似ていた。幼いながらに勇ましさと強靭さを秘めた瞳は、まるで獅子の子のような風格がある。
ヴォルフリックは活発で負けず嫌いで好奇心旺盛で、おとなしい性格をした姉のエリザベートに比べると、格段にわんぱくに育っていた。
移動は基本歩くよりも走り、棒があれば拾って振り回し、水たまりがあればためらわず飛び込み、自分の背丈よりも高い塀によじ登っては華麗に飛び降りる。
城内で一番大きな階段の手すりをすべって降りて、階下に置いてあった花瓶と激突したこともある。花瓶は粉々に砕け散ったものの、ヴォルフリックは無傷だった。
娘はしなかった行動ばかりする息子に、驚くやら頭が痛いやら。
二人目だから少しは育児にも慣れた気がしていたのに、動きの激しさから服を汚してくる頻度まで、娘とはまるで比較にならない。
少々やんちゃ過ぎるのではないかと心配するも、ブリギッタからは「アレクシアお嬢様のお小さかった頃にそっくりです」とすわった目で言われたので、それ以上何も言えなかった。
「そっかぁ、ヴォルフは昔の君に似てるんだね。そう思うとますます可愛い……! 可愛すぎる……!」
出会う以前のアレクシアを知らないことは、ルカにとってこの世で最も無念なことの一つなのである。
乳児のアレクシアや、幼児のアレクシアや、少女のアレクシアも見たかった。心の底から見たかったが、時間の巻き戻る魔法などこの世にはないのだからどうしようもない。
そんな悲しさを軽くしてくれる天使が、母親似の息子である。
ありあまる体力。良すぎる運動神経。怖いもの知らずの無鉄砲さ。いくら叱っても懲りずに無茶をくりかえすところまで含めて、最高に可愛い。
「ヴォルフには早めに武芸を仕込んだ方がいいかもしれないな」
体力を発散させるためだけではない。礼儀礼節を教えるためにも、そろそろ騎士団の訓練に連れていってもいいかもしれない──とアレクシアは思案した。あの身体能力を正しい方向に伸ばしていくことは、本人にとっても利になるはずだ。
――それにしても、とアレクシアは腕を組んだままくすっと笑う。
二人目の妊娠が判明した後、ルカは真剣に悩んでいたのだ。それが今ではすっかり息子を溺愛している。――いや、こうなると思ってはいたが。
初めはエリザベートに弟か妹ができることを無邪気に喜んでいたルカだったが、やがて出産が近づくにつれ、表情を曇らせることが多くなってきた。
『もしかして、嬉しくないのか?』
『嬉しいよ! すっごく嬉しい! ……けど……リザが余りにも可愛すぎて……次の子を同じくらい愛せるのか自信がなくて……』
きょうだいで差をつけるなんて最低だ。ルカは長い間、異母弟と差別され、露骨に冷遇されてきた。
だからどちらか一人だけに親の愛が偏るなんて、絶対にダメだとわかっている。
それなのにエリザベートはますます可愛らしく成長していて、目に入れても痛くない。
では生まれてくる第二子にも同じだけの愛情を注ぐことができるのかと考えると、不安でたまらないらしい。
ルカは本気で苦悩していたのだが、アレクシアはまったく真に受けなかった。夫の悩みをさらっと流し、
『私は心配していない。ルカは大丈夫だ』
とだけ、あっさりと言い放った。
アレクシアの予言は的中した。
ルカは生まれてきた息子をひと目見て、「アレクシアと義父上と同じ黒髪! 最高!」と大喜びし、姉弟のツーショットに「か……可愛いの大渋滞……!」と悶絶したのだ。
『二人とも世界一可愛い!』
愛情に差が生じるなど杞憂だった。ただ同率一位が二人になっただけだった。
"Wolfric"とは「狼の支配者」「狼を統べる者」という意味である。野生の狼が
王国法は貴族の爵位について、男子を優先すると定めている。この法に
辺境伯家の次代相続人となった息子に「
『本当にこの名前でいいのか? 狼だぞ?』
『え? ダメかな?』
『ルカはこの地に来た初日に狼に襲われて殺されかけただろう。怖くないのか?』
『怖くなんかないよ。狼は僕を君に出会わせてくれた、聖なる神の使いだと思ってる』
初めてリートベルクに来た日。狼に襲撃されて危うく死ぬ寸前だったルカだが、恐怖心は特にないらしい。
むしろ最愛の妻に一目惚れするきっかけをくれた奇跡の存在として崇め、聖獣扱いしていた。
なお、姉のエリザベートのミドルネームは「アレクシア」ですんなり決まり、迷う余地もなかったのだが、ヴォルフリックのミドルネームについては揉めに揉めた。父と祖父が、だ。
『絶っ対に! 義父上の名を付けたいです!』
強固に主張したのはルカである。自らも「ヴィクトル」の名をミドルネームに持つ身だが、辺境伯家の後継者である息子にも同じミドルネームを名乗ってほしいと強く言い張った。
ちなみにヴォルフリックの頭文字はW、ヴィクトルはVなので、イニシャルが重複することはない。
『何を言うんだ! ルカ君の名にしなさい!』
ヴィクトルもそう抗戦した。
『私の名はもう君が継いでくれている。それで充分だ! 君以外なんて必要ない!』
『義父上は偉大な辺境伯で、僕の知る最も強くて雄々しくて格好いい男性なんです! 息子には義父上のような男の中の男になってほしいんです!』
婿と舅は本気で言い合っていたのだが、はた目にはただの相思相愛な痴話喧嘩にしか見えなかった。
互いに一歩も譲らず揉めに揉め、いよいよ正式に届け出なくてはならないタイムリミットが迫る頃、根負けしたのはヴィクトルだった。
この先もしもまた男の子が生まれたら、次は必ずルカの名を与えると約束して、ヴォルフリックのフルネームは「ヴォルフリック・ヴィクトル・リートベルク」に決定したのだった。
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