第32話 リリーの絵本

「あ、もうすぐマリーさんとの約束の時間だ」

 

 調理台を布巾でぴかぴかに拭き上げながら、ルカは気が付く。


 マリーは普段は日中にメイドとして働き、夜は自室で息子のエミールや娘のリリーと過ごしているが、時には作業が夜遅くまでかかる日もあった。


 今夜は執事補佐のエヴァルトが開く、使用人たちの定例会議がある。子供たちには二人で先に寝ていてもらうつもりだとマリーから聞いて、ルカが子守りを買って出たのだ。


「ハンスさん、味見ありがとう。明日もよろしくね」


 ハンスに別れを告げて、ルカはマリーたち三人が暮らす部屋へと向かった。


 城内にある親子の部屋は、三人が寝起きするには十分な広さがあった。必要な家財道具も一式そろっている。


 マリーの好みなのか、壁紙やカーテンからクッションなどの小物まで、すべてあたたかみのある暖色系の色あいで統一されていた。


「エミール、リリー、お待たせ。一緒にお片付けしよう」

「はーい!」


 いいお返事をするリリーと一緒に散らばっていた玩具や雑貨を拾い、だらだら寝転んでいたエミールを誘って寝台の敷布を整えた。


 洗いたての敷布をザッと広げてベッドの四隅にかける。ピシッと綺麗に敷けると、何だか気持ちがいい。


「ルカお兄ちゃん、りんごのにおいがするね」

「あ、さっきまで料理の試作をしてたんだ」


 エミールにくんくんと匂いを嗅ぎながら言われて、ルカは思い出した。


「今度、みんなの分もたくさん作るよ。一緒に食べよう」

「うん!」


 ルカはエミールの明日の身支度を手伝ってから、リリーの三つ編みに結っていた髪をほどいた。


 痛くないよう気をつけて、くしで優しく髪を梳かしていると、リリーがそっと振り向いた。 


「ルカおにいちゃん。絵本、よんでくれる?」

「もちろん。好きなの選んでおいで」

 

 快く答えると、リリーはぱっと明るい笑顔を咲かせた。

 

 リートベルク領の識字率は、他領が驚くほど高い。先代辺境伯の時代から領民の教育に力を入れているようで、エミールたちのような子供が無償で通える学校もあるし、庶民の間にも本が普及している。


 さすがに貴族の家のように大量の本を所蔵しているわけではないが、エミールやリリーも数冊の教科書や絵本を持っていた。


「おにいちゃん! この本がいい!」

   

 枕を並べるルカの元に、リリーが一冊の絵本を大事そうに抱えてとたとたと駆けてくる。


 可愛らしいレースの表紙がついた童話の本はリリーのお気に入りで、もう何度も読み聞かせをせがんでいるものだった。


「いいよ~」


 ルカは快く了承したが、エミールはえーっと不満そうな声をあげた。

 

「リリー、またこの話かよ?」

「だってリリー、これが好きなの!」

「まぁまぁ、エミール」

 

 ルカはエミールをなだめて、リリーから絵本を受け取った。


「リリーはこの本が好きなんだね」

「うん! だってね、これはおじょうさまからもらったの」

「アレクシア様から……!?」

 

 ルカは姿勢を正した。それは心して読まないといけない。


 ベッドの壁側にリリー、手前側にエミール。厚手の毛布をしっかりと二人にかけて、ルカは絵本を開く。

 

 お話の主人公は、とある貴族の家に生まれた少女だった。


 少女は実母を亡くし、父親の再婚で新しい母や姉たちができるものの、いじわるな継母からいじめられて働かされる。煤にまみれた姿を嘲られる少女は、お城の舞踏会に着ていくドレスも持っていない。しかしそんな薄幸の少女の前に魔法使いが現れ、不思議な魔力で美しく変身させてくれる──そんなストーリーだ。


「……『魔法使いは杖を振りました。するとかぼちゃはたちまち黄金色のすばらしい馬車に変わったのです』……」

 

 何度読んでもこのシーンで、リリーは目をきらきらさせ、食い入るように絵本を見つめる。


 エミールは退屈そうにしているものの、邪魔はせずに大人しく聞いていた。

 

 かぼちゃを馬車に変えた魔法使いはさらに、ねずみを白馬に、とかげを召使いに変身させてくれる。


「……『魔法の杖が触れると、着ていたぼろ布の服はまたたく間に、宝石をいっぱい散りばめた美しいドレスに変わりました』……」

 

 なぜ魔法使いが主人公の少女を助けてくれるのかはわからない。主人公に何か縁のある人物なのか。誰かの依頼でも受けているのか。それとも魔法使いにとっても利益を得られる行動なのか。そこまでは物語の中に書かれていない。

 

 とにもかくにも不思議な魔法の力で、少女は誰よりも美しいお姫様に変身し、舞踏会に参加して王子様に見初められる。


 いじわるな継母たちは少女をいじめた罰を受けて不幸になり、そして晴れて結ばれた二人は──。


「『そして二人は、いつまでも幸せに暮らしました』……」

 

 読み終わって本を閉じ、ルカはもう一度リリーとエミールに毛布をしっかりとかけ直した。


 まだ眠くない、もっと起きてたい、と言い張る二人をよしよしとあやしながら、ろうそくの火を吹き消す。


 やがて可愛らしい寝息がふたつ、すやすやと重なった時だった。


 ようやく仕事を終えたマリーが部屋に戻ってきて、ルカに礼を言ってくれた。

 

「ルカ様、ありがとうございます。お手数をおかけしました」

「マリーさんも遅くまでお疲れさま。二人ともよく寝てるよ」


 マリーと入れ違いに部屋を出て、ルカはふと思い出したようにつぶやいた。

 

「魔法使い、か……」

 

 リリーのお気に入りの絵本。

 継母に嫌われ疎まれていた少女が、魔法の力で美しく変身する物語。

 

 ルカも継母に嫌われていたことに関しては誰にも負けない。


 けれど現実には魔法などないし、魔法使いも存在しない。


 魔力とか、神力とか、聖なる力とか、そんなものはおとぎ話の中にしかない。


 それなのに。

 夢物語とわかっていても、特別な魔法でお姫様になった少女を羨ましいと、心のどこかで思ってしまう。

 

「いいなぁ……」

 

 ルカを一瞬で王子様にしてくれる魔法使いがいたなら、どんなにいいだろう。

 

「王子様か……」

 

 ふとルカは、この地に来る前に出会った本物の王子様のことを思い出した。


 婚約を破棄された、王宮でのパーティーの日。

 失意のルカの前に現れた、国王の第二王子リュディガー。


『──国家の祝祭の場で、婚約破棄の発表とはな』

 

 そう言って厳しいまなざしを向けたリュディガーは、誰もが認めるであろう白皙の美男子だった。


『王家主催のパーティーを、自分たちのための晴れ舞台か何かだと勘違いしているのか?』


 王子というやんごとない高貴な身分に、目をみはるような秀麗な容姿。


 マティアスたちに詰問する口調こそ辛辣だったが、言っている内容は正論そのものので、反論などしようもなかった。


『正式な認可も得ることなく、王宮で騒ぎを起こす者が、罪人と何が違う?』

 

 リュディガーにも、彼の兄である第一王子にも、手に入らないものなど何もないのだろう。


 そう、たとえ辺境伯の一人娘を望んだとしても、王子という立場ならば叶えられる。

 

 ルカは身分が欲しいわけではない。権力も地位も求めてはいない。


 ただ、アレクシアに求婚できる立場であること。それだけが、喉から手が出るほど羨ましかった。


 圧倒的な身分の差という障壁。この壁を打ち破ることのできる特別な存在になれたなら、どんなにか──。

 

「……」

 

 あるいは誰かに魔法をかけてもらうのではなく、ルカ自身に魔法の力があればどんなにいいだろう、と夢想する。


 もしもルカに特別な超能力や、偉大なスキルや、唯一無二の異能の力があって、アレクシアに重宝されることができれば、どんなにか自分が誇らしいだろう。


 もしくは亡くなったルカの実母が本当は平民ではなく、さる高貴な血筋の落胤らくいんで、ルカはその希少な血を受け継ぐ貴人だとしたら、どんなにか一足飛びにアレクシアに近づけるだろう。


「何を考えているんだろ……バカみたいだ」


 ルカは自嘲した。

 こんなことを考えてしまう、弱い自分が嫌になる。

 

 わかっている。

 この世には剣はあっても、魔法はない。

 動物や鳥はいても、魔獣や竜はいない。

 国籍や人種の違う人々はいても、妖精や精霊、人知を超えた存在はいない。

 

「こんなことを空想しても、現実は何も変わらない。……知っているのに……」

 

 便利な特殊能力はない。

 都合のいい血統の真実もない。

 ルカの血の半分は貴族とはいえ最下位の男爵で、半分は平凡な庶民だ。とうていアレクシアと並べる身分ではない。

 

 痛いほどよく承知しているのに、どうしてか今は無性に悲しみがこみあげて、ルカの胸を焦がした。

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