『癒えない傷跡』

@snow_03

『癒えない傷跡』

 初めて開けたピアスの事は今でも覚えている。高校生最後のあの日、大切な友人に開けて貰ったものだから。


 退屈な卒業式の後、賑わう学校から彼と二人、そそくさと抜け出して足早に自宅へと向かった。私は地元で就職が決まっていたが、彼は県外の大学に行くという事を卒業の少し前に知らされた。正確に言うならば彼が大学に行くという事自体は私も前から知っていたけれど、まさか県外の学校だったとは夢にも思わなかった。詳しく聞けば私よりも遥かに賢い彼のレベルで五分五分だったのだという。勉強嫌いで怠け者な私では逆立ちしたって入れないほど凄い大学だった。なんで教えてくれなかったのって平静を装いながら聞いたら、大々的に喋ってて受からなかったら恥ずかしいじゃん、と彼ははにかみ笑いを浮かべた。


 誰も居ない自宅に帰り、彼を自室に招き入れる。化粧品の類いを取る為に断りを入れてから洗面所に向かう。アイライナー、コットンと消毒液、昨日の晩から準備していたそれらをカゴに乗せてまた部屋へ戻る。

 コットンに消毒液を含ませて耳たぶを軽く拭き取り、卓上ミラーで位置を確認しながらアイライナーで印を付ける。勉強机に置きっぱなしの開封済み段ボールの中から昨日届いたばかりのピアッサーを取り出して彼に手渡した。スライダーを指差して、此処を押したらピアスが刺さる仕組みだよと伝える。彼は暫くの間、手渡したピアッサーをまじまじと見ていたが、思い出したかのように言った。


「そういえばさ、なんで僕なの? 普通こういうのって開けたいもん同士でやるもんじゃない?」


 真っ当なその質問を前に私の心は少しだけざわつく。今、言えないなら今後一生言う機会は無い。そうは思っていても、拒絶という最悪の展開が頭の片隅にこびりついて離れなかった。


「……君は当たり障りのない付き合いしかしてない人間相手ににピアス開けてって頼める?」


「うーん、まぁ無理かなぁ。見ず知らずって訳でも無いけど、普通に怖いね」


「それが私が君に頼む理由だよ」


 ピアッサーを握る彼の手を掴み、自らの耳元へ寄せる。


「私はさ、君の事それなりに信用してるし、頼めばきっちりこなしてくれると思ってる。だからさ、一思いにやっちゃってよ」


 彼はコクリと頷くと、アイライナーで書いた印の位置をもう一度だけ確認すると、スライダーにそっと指を掛けた。僅かに震える彼の手と不安気な視線に気付き、私は優しく見詰め返す。大丈夫、と唇だけ動かして嘘偽りの無い気持ちを伝える。彼の短い瞬きの間にその震えは治まっていた。そして、一瞬の静寂が訪れる。

 刹那、カチンという小気味の良い音と共に耳たぶに熱湯を溢したような鋭い痛みが走った。思わず漏れそうになる悲鳴を寸でのところで飲み込むと、痛みはじんわりと尾を引くような鈍いものにゆっくりとすり変わってゆく。


「スライダー、押しきってるか確認して、ゆっくりと指を離してから下ろしてね」


 彼は私に言われるがままに、スライダーを下ろして行く。ピアスをピアッサーに固定していたプラスチックパーツが床に落ちたのを確認して、それを手早く拾う。机の上に置かれたピアッサーはスライダーの部分が完全に分離されていて、注意書きにあった通り再利用出来なくなっており、瞬く間に燃えるごみへと成り変わっていた。

 卓上ミラーを手に取り、耳元を注意深く確認する。しっかりと貫通している事を確認したファーストピアスのキャッチを少しだけ緩めると、もう一度、コットンでピアス周りを軽く拭う。うっすらと滲む血を心配そうに私を見詰める彼に大丈夫だよ、と声を掛ける。

 言葉にすら出来なかった君への思いはピアスと共に身体に刻まれた。二度と叶う事の無い他力本願な私の願い。

 ありがとう、とその言葉は上手く言えなかったかもしれないけれど、今となっては彼がその答えを覚えているかも分かりっこない。


 その後は残った残骸とゴミの後片付けをして、お菓子を食べながら高校生活の思い出を振り返る。色々あったけれど、君と居た時が一番楽しかった。そう本心を告げると、少し恥ずかしそうにでも嬉しそうにありがとう、と彼はお礼を述べた。

 やがて日も落ち始め、彼が帰る間際、未練がましくも側に居て欲しくなって思わず彼の手を取ってしまう。不思議そうに此方を振り返る彼に伝えられたのは、また会えると良いねという心にも無い言葉だけだった。




 鏡を見る度に、ピアスを着ける度に、あの時の事を思い出す。彼の前では押し込める事が出来たはずの涙を今更ながらに溢した。後少しでも私が馬鹿で居られたら、自惚れていられたら、全てを投げ打つ覚悟があったなら。無限に湧き出る「たられば」と後悔の念。あれ程に恋い焦がれ、夢中になった人間など他には居ない。誰にどんな言葉を掛けられたとて、私の中の彼には決して敵わない。

 失ってから初めて失ったものの大切さが分かるとはよく言うけれど、私が失ったものは余りにも大きかった。最もそれは失ったものを求めるばかりで、何一つとして自分が無し得なかった事の証明でもあるのだが。

 これは未来から目を背け、失った綺麗な思い出だけを見続けた私の約束された結末だ。つまるところはただの自業自得。そして、これは現実のお話、残酷で無慈悲な地獄の如き世界。リセットもコンティニューも在りはしない。


 この一生を終えるその時まで、この心は彼が開けたピアスによって繋ぎ止められているのだろうな。誰も居ない殺風景な部屋の中、あの日刻まれた痛みを何度も繰り返し思い出して、私は一人そう願う事にした。

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