20年後の郵便物

鈴ノ木 鈴ノ子

20ねんごのゆうびんぶつ


 電車の音と共に世界は一歩先へと進んでいく。いや、正確には風景がと言うべきなのかもしれない。

 手の中には東京発山梨行きの電車の切符がある。通勤で使いなれているスマートフォンに入っている交通系電子マネーを使えば抜けられる自動改札を通過せずに、駅員のいる改札を抜けて切符を切ってもらった。実際にはスタンプを押されただけだけれども。


「自動改札に切符を入れて下されば通れますよ?」


「ちょっとですね、記念切符を作らなければならない事情があるのです」


 駅員の怪訝そうでいて営業顔のちょっと不可解な表情に、不快感を覚えるというより、面白いと思いながら、事情を説明してどうにかスタンプを押してくれた。駅員の彼女、ネームプレートには神林尊とあって、小顔のショートヘアが良く似合うその子に、お礼と神様めいた名前にこの旅が成功裏に終わります様にとの願掛けをして5月の下旬、初夏から飛ばし気味の暑さ厳しい東京の地を発った。


『つとむさん、このようなものが届きましたけれど…いかがいたしましょう?』

『なんです?』


 田園調布に江戸の頃より邸宅を構える我が家である藤堂家は、その町が発展したと同じように、三流の家から一流の家へと変貌を遂げた、要するに庶民から成り上がり、金を貯え、地位を作り、人を従えて生きてきたと言っても過言ではない。戦中を乗り切り、連合国軍総司令部の命令にも従い、悟られぬように親族を切り離して企業経営を続けて、やがて日本が独立後に素知らぬ顔をしてすべて元に戻すということをやってのけた。

 財閥系企業でここまであからさまなことをしたのは我が家だけではないだろうかと思うが、小学校から大学までの歴史の先生方は、明確にそこを指摘しては下さらなかった。まぁ、下手なことを言って寄付金が大幅に減額されてしまうという愚の骨頂を侵さないようにしていたのかもしれないけれども。

 

 父も母もそこから生まれ出でた私自身、藤堂家の呪いからは逃れることができないでいる。

 それは、「藤堂」という家名を背負うという呪い。

 藤堂産まれた者は藤堂で死す、藤堂でない者は親類とは成らぬ。まるで藤原氏や平氏のそれと似通った言い回しを定めたのは、戦後すぐのこと、私の祖父、貞吉が定めたモノであった。呪術分類にすると比較的新しい呪いの類ではある、だが、あの戦後の混乱期から現代に至るまで、我が家は藤堂となった数多くの人を招き入れた。それを行ってきたが故に藤堂家と藤堂コンツェルンは発展を遂げてきたのだ。


 大邸宅とまではいかないが、庭先で小規模なパーティーくらいならできる箱庭を持つ我が家の無駄に広い自室で、久方ぶりの休日にスマートフォンで投稿系の小説サイトを眺めながらソファーに寝転がっていた時のこと、秘書も兼業している妻の橙子がそれを持ってきたのだった。


「なに、それ?」

「分かりません。今日届きました郵便物の中に入っておりましたので、お持ちした次第です」

「そうか、なんだろうね、あとその口ぶり、直しなさいよ」

「ごめんなさい、慣れなくて…」

「いいさ、一緒に見てみようか」


 橙子は父が我が家へと連れてきた孤児だ。

 出自については詳しくは知らない、5歳年上の姉のような存在であったが、私への歪んだ愛情と性癖によって心体を蹂躙された挙句、一昨日、入籍を済ませて妻となり、来月には挙式する予定となっている。友人に言わせれば法的には問題ないが、倫理的には問題があるらしい、まぁ、藤堂を名乗るので親族会は誰一人として文句を言うものはいない。


 それは郵便物で長い年月を経て色褪せたであろう封筒であった。

 表書きには「藤堂 つとむ 様」と宛名書きされており、裏面には「藤堂貞吉」と差出人の名前があった。その脇に『山梨県郵便事業記念:20年後に送る郵便物』とスタンプが押されていた。封を破ろうと手を掛けると橙子が鋏を持ってきて差し出してくる。私は面倒臭いのは嫌いだが、橙子はそんなところは口煩いし許さない。


「はい、つとむさん」

「ありがとう」


 眼光と鋏を素直に受け取りそれの封を切る。

 中から出てきたのは一枚のパンフレットと何かのチラシの裏に書いた手紙のようなもの、そして古びた切符が1枚であった。便箋には懐かしい筆跡の歪んだ文字が並んでいた。


 『拝啓、つとむ 君


 元気だろうと推察する。もし、元気でないのであれば君もそこまでである。

 さて、祖父である私と君は旅をした。それは幼い君にとってはとても単調でつまらないものであったかもしれない。今一度、その道を辿ってみよ。そして、願わくば、何かを発見することを、期待している。


                                祖父より

                                  敬具』

 

 その便箋は、いや、表面にはガリ版刷りで郵便事業記念のあらましが印刷されていたから、実際は裏紙でメモ紙のようなモノに記されたのだろう、パンフレットには『山梨県:昇仙峡』とあり見どころが所せましと印刷されていた。


「おじい様と行かれたの?」

「全く覚えがない、少なくとも橙子が来る前の、かなり小さい時のことだと思うのだけれどね、まぁなんにせよ、手紙で書かれた通り、単調でつまらないものであったのだろうさ」


 手紙の主がそう仰せなのだから、きっと酷く単調な旅だったのだろう。パンフレットの端にいくつもの子供の落書きがあったから、それが雄弁実を物語っている。

 だが、問題は手紙をしたためた主が祖父であることだ。すくなくとも祖父とは一緒に住んでいても忙しさで触れ合うことが少なく、父親も母親も仕事で家を空けることが多かった。もっぱら私は橙子と2人でこの家で暮らしているようなものであった。だから橙子は歪んだし、そして私の世話を焼き続けてくれているという幸運にも恵まれたと言う訳だ。


「ねぇ、明日と明後日はちょうど予定が入っていないわ、行ってみたらどうかしら?」

「え?」

「だって面白そうじゃない」

「そんなに目を輝かせなくても…」

「じゃぁ決まり。私は車で行くから貴方はおじい様の道を辿って電車で」

「ええ?切符が入っていたからってそれは…」

「つとむさん、いいわね」

「はい」


 有無を言わさぬように物事が決まる。そして私は旅客の身の上となって揺られているのだった。


 甲府駅に着いたのは午後1時を回っていた。

 東京駅と同じように有人改札を潜り切符を記念品のように持ち、北口から甲府城山手御門の傍を小さなスーツケースを引きずりながら歩いてゆく、甲州夢小路のショッピングモールが橙子との集合場所で、橙子のGPS信号はその中の餅で有名な和菓子屋に留まっていた。メッセージを入れてもメールを打っても電話をしても、うんともスンとも反応がない。たまにこういったことをして私を手の平で転がすようにして楽しむ癖が橙子にはある。案の定、そこのイートインスペースでパフェを堪能している最中であった。

 珈琲を注文して席で幸せそうな橙子の真後ろへと控える様に立つ。


「太るぞ」

「うるさいわよ、馬鹿」


 女性という生物はどうしてなのだろうか、もうすぐ挙式で妙に絞ったウエディングドレスをチョイスして痩せねばならないなどと、自宅での節制生活に私も巻き込まれているというのに、目の前の橙子はハイカロリーの権化を頬張って嬉しそうに頬を緩ませている。

 思わずそのまま口を突いて出た言葉に、橙子と周囲の女性客から非難の視線が集まった。


「もうすぐ食べ終わるから、待って」

「ああ、構わないよ。私も珈琲を頼んだからね」

「じゃぁ、大丈夫ね、あなた」


 ジャケットも脱がずに椅子へと腰を下ろすと橙子の視線が少しだけ険しくなったが、舌鼓を打つ甘さのためだろう険しさが緩んでいく。店員の運んでくれた淹れたての珈琲を味わいながら長旅の疲れをひと時で癒し、やがて、橙子が食べ終わる頃に一匙で掬われた甘味と愛情のご相伴に預かる誉を得た。黒蜜とアイスの味わいがとても上品な美味さで正直に言えば今からでも同じものを注文したいと思考する一品であったが、橙子が食べ終わった以上、現地へと赴かなければならない。


「ねぇ、ちょっと寄り道してもいいかしら?」

「かまわないけどね、どこに行くのさ?」

「隣の水晶アクセサリーの専門店と、御団子屋さん、そしてワイナリーよ」

「ちょっとでは…ないね」

「ちょっとよ、ちょっと」


 同じ小路沿いに水晶アクセサリーの専門店に連れ立って入り、アクセサリーを眺めている時のことだった。大粒の水晶石でできたティアドロップのネックレスを気に入ったようで鏡で何度も合わせをしている橙子に見惚れながら、ふと記憶が蘇った。たしか水晶の研磨体験を祖父と共に行ったような気がしたのだ。


「どう?似合うかしら?」

「うん、いいと思う…」

「上の空ね」

「いや、祖父との旅は何も覚えていないと言ったけれど、昇仙峡で水晶を磨いた体験をしたことを思い出してね」

「あら、どこのお店か覚えているの?」

「いや、場所までは…」

「じゃぁ、聞いてみればいいわね」

「聞くって誰に?」

「決まっているでしょ、店員さんに」


 ネックレスを持った橙子に手を引かれてそそくさとレジカウンターで会計を済ませることになった。薄紫のワンピースに黒色のロングカーディガンを羽織った少し早い夏の装いの橙子にとてもよく似合っていた。そのまま付けて行きたいと子供じみたことを珍しくいった橙子にそれを聞いた女性定員は嬉しそうに笑いながら、私が製作者です、と言って驚かせてくれた。税込み3万8千円、お支払いは私であったことにも驚愕する始末ではあったけれども。


「あ、もし分かれば教えて頂きたいんですが」

「はい、どんなことでしょう?」

「昇仙峡に水晶を磨く体験をする施設などはありますか?夫が幼い頃に祖父とそのような体験をしたらしいのです、ちょっとそこに行ってみたくて」

「あら、素敵ですね、私にはわかりかねますが…、あ、先輩の児玉さんなら分かるかもしれませんから聞いてみますね」

「ごめんなさい、お手数をお掛けします」


 店員さんが小走りに走ってゆくのを、3万8千円、の領収書を財布へとしまいながら見送る、やがて出てきたのは腰の曲がった老婆と言っても差し支えないほどの女性であった。話を伺えば、このお店も元は昇仙峡にあったそうで、数件が今も営業と加工業を生業として行っているらしい。20年の歳月で研磨体験を行っていた店舗は無くなりつつあるが、1店舗だけは残っていて、そこでは行えるとのことだった。


「先代もこぴっとしてらっしゃるから、聞いてみるのも良いかもしれませんね」


 そう言って老婆に笑顔で送り出される。商売上のつながりがあるらしく、いくかもしれないとの連絡もしておいてくれるという丁寧ぶりに、私達はしっかりとお礼を伝えてお店を後にした。

 夢小路と線路沿いの小道を進んでゆき、やがて大きな踏切を渡ってすぐ、目の前が甲府城のところに、きび大福を売る小さな和菓子店がある。この近くのワイナリーで働いている橙子の高校時代の同級生がお土産として我が家に持ってきてくれたことがあったことを思い出し、是非ともそれを食べたいと寄ったらしい。みたらし団子ときび大福を購入してから元来た道を戻ると、駐車場に留め置かれていた橙子の愛車であるコンパクトカーのワインレッドのリリスに荷物を積み込んで、ようやく、助手席でようやく安息の場を得た。


「はい、つとむさん」

「ありがとう」


 ペットボトルのお茶を飲み終えて一息をつく、そして車内で買ってきたお団子を頂いてから、昇仙峡へとカーナビをセットしてハンドルを握った橙子と助手席に座った私は現地へと赴くのであった。ワイナリーについては宿をその近くに取っているそうで、ホテルに車を置いて、試飲したいという至極身勝手な言い訳で後回しとなった。


 山梨大学を通り過ぎ、急こう配の緑の美しい剣道104号線を昇仙峡へと一路、車は進んでいく。ハンドルを握るのが大好きな橙子と、ハンドルを握ることがとても億劫な私にとってこのドライブは最適解な配置である。


「そう言えば入っていたパンフレットにヒントはなかったの?」

「ヒントか…どうだろう」


 膝上に置いたハンドバックからタブレットを取り出して、出かけにスキャナーに掛けてきたデータを開く。橙子が酷く怪訝そうな顔をして前方を見ていた。


「あのね、現物を持ってくるべきじゃないの?」

「持ってきてるけど出すのがめんどくさい。あ、言い訳するなら無くしたら嫌だなぁと思ってさ」

「で、スキャナーに掛けたと?」

「うん、まぁ、その方が見やすいからね…」


 ダブルタップを繰り返しながら拡大と縮小を繰り返しながら隅から隅までを改めて見つめてみるが、そこに目立った部分は無い。祖父の筆跡は無く、ただ、四方に私の書いたであろう幼い悪戯書きがあるだけだ。


「まぁ、現地に着けば何かわかるでしょ」


 助手席の窓から車窓を眺めながら、どうにか深淵の記憶の坩堝へとつるべを落としてみるが、中々に記憶は掬い上げられては来ず、いらぬ不要な記憶が、この場合は大抵が苦渋に塗れたものになるが、掬い上げられてきては気分を辟易させる。ほとほとで切り上げて現実世界に思考を戻せば、車内には10万歳を優に超えた閣下の美声がほどよい音量で耳と思考を劈いてくる。

 しばらく聞き入りながら外を眺めていたが一向に思い出すこともなく、車は一路、紹介して頂いたお店の駐車場へでその歩みを止めたのだった。


「ここでいいみたいよ」

「ありがとう、お疲れさま」

「楽しい道だったわ、閣下の歌も最高だったし」

「それは重畳だね」


 時刻は4時近くで駐車場にも辺りにも止まっている車は見受けられなかった。閉店ぎりぎりであるかもしれないと慌てて店内に駆け込むと、店員さん達は店内のショーケースなどを今後の季節へと衣替えの最中で、お気になさらずと言ってくれ招き入れてくれた。


「児玉さんからお電話を頂いた方でしょうか?」

「あ、そうです。藤堂と申します」


 店舗の奥から同じように腰を曲げて出てきたのは、児玉さんと瓜二つと言っても過言ではない、いや、児玉さんが冗談を言って現れたかと思うほどに、そっくりな老婆であった。


「おほほ、驚かせてごめんなさいね。私、児玉の双子の姉の中井と申します。夫が所用で今先ほど出かけてしまいましたので私が代わりですが、研磨体験をご希望ですか?」

「いえ、ちょっとですね、幼い頃に私が祖父とこの辺りのどこかで研磨体験をさせて頂いたらしいのです」

「はぁ」

「で、ですね、最近になりまして、こんな手紙が届いた次第で、思い切って行ってみようと妻が進めてくれたのですが、といっても幼すぎる故に記憶が不鮮明でして、思い出せたのが研磨体験だけだったのです」

「なるほど、20年前と伺っておりますから…、当店かどうか」

「これなのですが、どこの発行のものか覚えておられませんでしょうか?」


 鞄から手紙とパンフレットを入れたクリアファイルを取り出して、中井さんへと差し出し一読して頂くようにお願いをすると、不思議そうな顔をしながらも受け取ってくれ、近くの席へと腰を下ろした。橙子は店内を見て回ると離れて行き、私は中井さんに隣の席を進められて腰を下ろした。


 ポケットから分厚く使い古された老眼鏡をかけて、郵便事業の表書きと裏面の祖父の手紙に目を通して、懐かしさを抱かせるような微笑みで見つめたのちに、視線をこちらへと移して嬉しそうな笑顔を向けてきた。


「藤堂様、今でも覚えておりますよ、このパンフレットは私共の店で制作したものでございます、そこに囲炉裏の付いた机が見えますでしょう、あそこで貴方はこの紙に落書きをなさったのですよ」

「え?」


 右手の人差し指で店の奥に据え付けられている長年使い古され、ところどころに傷とそれ以上の宝石のような艶やかさを見せる机を指さした。


「ロープウェイを楽しまれた帰り道に当店へと寄ってくださったのです。男性のお年寄りと小さな小さな男の子のお2人だけでしたから印象深く残っております。同じくらいの夕暮れ時でしたでしょうか、お疲れでおじい様に背負われておいででした。店先で休ませてほしいと仰って、そこをお貸ししたのです。当時は長椅子でしたから横に寝かせ、汗まみれのおじい様に冷えたお茶をお出ししました。世間話を少ししたところでしたでしょうか、ああ、あれを見れば詳しいこともしっかりと思い出せますわね、多恵ちゃん、申し訳ないけど、売り場の20年前の日報を持ってきてもらえるかしら?」


 飾り付け途中の多恵ちゃんと呼ばれた女性が振り返って頷くと店の奥へと入って行き、やがて色褪せて所々が痛んでいる黒背表紙の綴りを持ってきてくれる、中井さんはそれを軽々と受け取りペラペラと捲ってはやがて目的のページに達したのか、そこに挟まれたメモ用紙を取り出した。


「書きつけておいてよかったわ、こうしてお会いすることが叶ったのですもの」


 そのメモ用紙は祖父の手紙と同じ用紙で郵便事業の表書きがなされたものだった。その裏面に目を通しながら中井さんの口が水の流れのように軽やかに、在りし日が目の前で今繰り広げていられるように話を始めた。


「ご実家はご商売をされておられますよね、甲府へのお仕事の帰りに夫婦でお寄りになられたこともあったそうです。奥様を引退直前に亡くされて、ふと、お孫様の藤堂様とそこを巡ってみたいとお考えになられたようで、一緒に伴ってやってきたと仰っていました。きっとお仕事一筋でお孫様の相手などほとんどなさったこともないでしょうに、この辺りでの姿は優しいおじい様としてしばらく噂になるほどでしたよ。我儘の諭し方も私たち母親になり立て世代にとってもとても参考になる言い回しでございました。お茶だけ頂くのは申し訳ないとおじい様は仰って、藤堂様はぐっすりと寝ておられましたから、研磨体験をご希望されて、店の奥に見えます大きな作業場で体験されておられました。あ、そうそう、途中で藤堂様も目を覚まされて、お手を止められたお祖父様にお気になさらずと私とお絵描きをして遊んだのです。これがその時のパンフレットですわね。磨き作業の終盤に藤堂様がお祖父様の方へと走って行かれてしまって、途中で手を止められたお祖父様と一緒に最後は水晶を磨かれていました」

 

 話を聞いていてありありと記憶が蘇ってくる。

 ロープウェイなどを2人で楽しんで、祖父が一緒に遊んでくれることが、嬉しくて、嬉しくて堪らなくてはしゃいでいた。物の配置が変わってしまった店内の店の奥の作業場へと続く廊下を走って祖父の元へと駆け寄っていき、祖父の膝の上に座りながら作業台で一緒に手を合わせて水晶を磨いたのだ。

 蘇った記憶が懐かしくて切なくて涙腺が緩んでゆくのが分かる。なぜ忘れていたのだろうと申し訳なさが溢れ出でてきた。きっと店内に流れているAmazing Grace のサウンドがそうさせたのかもしれない。


「体験を終えられましてから、ふっと、幼いが故にこの思い出もいずれ忘れてしまうのだろうなぁと少し寂しそうに仰っていたのがとてもお辛そうで、ちょうど、この郵便事業のイベントがありましたので、宜しければとお勧めしたのです。案内の裏面にこのお手紙を書かれて、ちょっと意地悪だろうかと微笑んでおられたのが印象的でございました。もし訪れた際はよろしくしてやってくれと言っておられましたけれど、まさか、こんな日を迎えることができるとは思いもよりませんでした。妹から連絡に心底驚いたものです」


 つぅと頬を何かが流れ落ちた。隣にはいつの間にか橙子が腰を下ろして寄り添うように居てくれている。


「手紙を読んで訪れてくれる、素直なお孫様を持たれてきっと喜んでおられますわね」


 そう言い残して中井さんは立ち上がると帳簿を持ったまま、何かを思い出したかのように店の奥へと足早に去って行く。

 祖父と2人で行った最初で最後の旅行、幼い私にとってはその後の楽しみに淘汰されて上書きされてしまった思い出は、祖父にとってはなによりも得難く、なによりも大切な思い出となったのだろう。


 その証拠を今ありありと思い出すことができる。


 家で見せていた笑顔の、何十倍もの眩しい輝きを放つ笑顔が、私に向けられていた。


「大切なこと、思い出せたみたいね」

「うん」


 橙子に差し出されたハンカチで涙を拭いながら囲炉裏の机を眺める。幼い頃の自分と祖父の姿が浮かんできて、私がせがんでお絵描きしていたパンフレットを一緒に封筒に入れてもらったのだ。


「こちらをお渡ししますね、お店が無くなるまではお預かりしますとお祖父様とお約束をしておりましたから」


 差し出されたのは年月を感じさせるほどに変色した長方形の小箱、その表書きに祖父の文字があった。


『藤堂つとむ君に捧ぐ』


 裏返した裏面にはただ一言だけこう書かれていた。


『おじいちゃんより』


 小箱を受け取ってただただそれを眺め続けた。

 死ぬ直前まで仕事に邁進し時間が取れなかった祖父の最初で最後の、そして最大の想いの深さに、そして、この思い出に再会を紡いでくれた、最愛の妻と、すべての人達に、心の底から感謝して。

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20年後の郵便物 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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