エピローグ

「ありがとうございましたー!」



「ご苦労様です」



 宅配便に頼んでおいた引っ越しの荷物が届いた。配達員は一礼して、廊下の角を曲がっていく。バタンと玄関の扉を閉めると、途端に部屋の中が静かになった。耳の奥で、ぼんやりと波の音が聞こえるような気がする。


 彼と暮らし始めて3カ月くらいの頃に、波の音のような幻聴が聞こえ始めた。それは次第に大きくなり、まるで海に呼ばれているかのようだった。今だからわかるけれど、あの生活がストレスだったのだと思う。理由もなく嫌いだった海と故郷に帰りたくなった。今は幻聴もほとんど聞こえなくなっている。


段ボールを抱えて廊下を歩き、部屋の真ん中に転がした。いくら荷物が少ないとはいえ、引っ越し用の段ボールを2つ運ぶと腕がじんわりと痛んだ。カーテンの付いていない窓から太陽が入り込み、殺風景な部屋を照らしている。


 明るいのに何もない部屋は一種の廃墟みたいだった。ポケットからスマホを取り出すと、カメラを起動して部屋を画面内に収める。何もないから、シャッター音がよく響いた。


 そのままメッセージアプリを開き、「汐里」と書かれたアイコンをタップする。今さっき撮ったばかりの写真を送信し、『新居ついたよ! 何もない!』という文も続けて送った。


 スマホをまたポケットに入れ、照らされているフローリングを裸足で踏む。温かい。椅子もベッドもないので、無造作に置かれた段ボールに寄り掛かる。大したことはしていないはずなのに、新しい環境に来ただけでもう疲れてしまった。


 ブブ、とスマホが震えて、反射的に手を伸ばす。画面には彼からのメッセージがきたことを告げる通知があった。


 彼とのメッセージ欄には、笑っているんだかなんだかよくわからない猫のスタンプが貼られている。なんて返事をしようか、それとも返事の必要はないだろうか、なんてことを考えているうちに、彼からもう一文メッセージが送られてきた。



『風邪とか、引かないように』



 嬉しいとも、悲しいとも、虚しいともとれる感情が、心に渦巻いた。風邪とかってなに、とか大丈夫だよ、とか色々返事を打ちかけて、結局何も送れないままスマホを閉じる。雲が出てきたのか、部屋が徐々に暗くなった。寄り掛かっていた段ボールに突っ伏して、名状しがたい涙が頬を伝っていくのを感じる。


 ざらついた箱から、少しだけしーちゃんの家の匂いがする気がした。それがひとりになった寂しさのせいか、恋しさのせいかはわからない。



「一緒に住んでるときに、言ってほしかったなあ」



 誰にも届かない独り言をそっとつぶやく。日が差し込まなくなったせいで、足先が徐々に冷たくなっていった。



 ほんの少しだけ顔を上げて、スマホへ手を伸ばす。



『気を付けるね』



 それだけ書いて送ると、手を精一杯伸ばしてスマホを遠ざけた。もう見たくない、振り回されたくない。


 新しく買った家具が届くまであと2時間。本当は他の荷物と同じタイミングで届いているはずだったのに、時間指定を間違えた。彼がここにいたらどんくさいと笑っただろう。


 肺にたまった息を空っぽになるまで吐き出した。ため息をついても、ちらりとこちらを見る視線がないのはいいことだ。


 ずるりと体を滑らせて、床の上に仰向けで横たわった。何もない床を独占して寝転ぶのはなんだか贅沢な気がする。


 目を閉じた。もう水の中の夢は見ない。

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緩やかで、穏やかな 阿良々木与太 @yota_araragi

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