第15話

 あの日から、1カ月が過ぎた。開け放した窓からはツクツクボウシの鳴き声が聞こえている。流れ込んでくる風は生ぬるく、決して涼しいとは言えない。けれど水咲はこれがちょうどいいと言って、窓を開けている。



「……本当に出ていくの」



 最後の段ボールにガムテープを貼り終えた彼女に、そう問いかける。黒のマジックのふたを開け、側面に「服」とだけ書くと水咲は顔を上げた。



「出ていくよ」



 さらりとそう答える彼女に、胸の奥が寂しさできゅっと絞まった。



「なあに? しーちゃん寂しいの?」



 水咲はそう言って笑い、段ボールを少し端へ避ける。彼女の引っ越しが決まったのは2週間前だった。


 あの海に行った日より前から、彼女はこの家を出ていくことを考えていたらしい。2人で住むのには狭すぎたことと、お互いストレスをため続けている状況をなんとかしたいとのことだった。それを聞いた時は、ひどくショックだった。


 彼女の荷物が片付いた部屋は、がらんとするわけでもなく、ただほんの少し物の配置が変わった程度だった。水咲の荷物はたった2箱の段ボールに納まり、彼女がこの家に来てからほとんど物が増えていないことを思い知らされる。こんな部屋では、水咲はきっと自分が居候のように感じていたことだろう。


 水切り網程度で文句を言わなければよかった。彼女が引越しの話をするのを、もっと真剣に聞けばよかった。そういう後悔が、出て行くと話をされた日からずっと心に積もっている。



「寂しく、は、ないけど」



 その言葉が嘘なのを、水咲はすぐに見抜いただろう。くすくすと口元を手で押さえて笑っている。



「別れるわけじゃないし、ちょっと離れたところに住むだけだよ。しーちゃんがひとり暮らし始めたときもそうだったでしょ」


 確かに、大学に入ってひとり暮らしを始めたのは俺が先だった。水咲は実家から大学に通っていたけれど、俺にはそれができなかった。でも、あの頃はまだ水咲と付き合っていない。



「大丈夫だよ」



 水咲は俺を安心させるようにそうつぶやく。本当は、行かないでくれと言いたかった。それがわがままで自分勝手なのもわかっているけれど、このまま水咲が離れていきそうで心配だった。最初にきっかけを作ったのは自分のくせに、と自分の中の誰かが責める。



「しーちゃんは、悪くないから」



 その言葉が余計に罪悪感を掻き立てて、ぐっと唇をかんだ。水咲は多分、本当に俺が悪いとは思っていない。いや、思っていたとしても全部が俺のせいだとは思っていないのだろう。



「……水咲」



「なあに」



 ベッドに座っていた俺の隣に彼女も腰かける。呼んだくせになんて声をかければいいかわからず、しばらくの間黙り込んだ。



「仕事、頑張って」



 結局出てきたのはそんな他愛もない言葉だった。水咲はたったそれだけのことで嬉しそうに笑う。



「しーちゃんも、頑張ってね、色々」



「色々って、何」



 つられて笑いが込み上げる。これから彼女が出て行くとは思えないほど、穏やかな時間だった。

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