嘘つき

「この全てが嘘だったと言ったら、君は果たして怒るのかな。」


尾暮は、その青いジャージの背を向けながら知ったように戸浦に問いかけた。戸浦はまるで定番の蘊蓄でも語るように、冷静で慣れた口調で尾暮に返す。


「それは、どういう意味だ。ここが嘘の世界だって言うことか。だったら僕は怒れないよ、怒ったって仕方ない。こうなってしまったなら、怒るより先に何か役に立つ行動をするべきだろ。君に怒るなんてのは筋違いだ。」


「そうか。確かに起こってしまったことなら仕方ない。君の言うことは正しいように私は思える。そうだね、君は間違っていないよ。」


「それに、君は僕を出口に案内してくれているんだろ。この薄暗い世界から出る方法を知っているんだろ。それが嘘か実かは僕には分からないけど、それでも蜘蛛の糸のようなものだ。怒るなんてしないよ。」


戸浦はそう言って、尾暮の明るい青ジャージの背中を追って歩いている。


戸浦はつい数分前のことを思い出す。気付くと、戸浦は恐らくは学校と思われるところ廊下の真ん中に立っていた。恐らくは、と言っているのはその場所というのが何というか、異様に黒かったのだ。戸浦が立つ廊下は、無人の静寂が重く伸し掛かったような黒色の教室に挟まれている。黒。影が落ちたとかではなく黒ペンキのバケツを覗くような、ただただそこに存在する漆黒である。

直前のことを思い出せない。

戸浦は自分が制服を着ていることに気付くと、今度は声が出せるのかを確かめるように喉を動かす。


「ここは何処だ。」


思いの外大きく出た声はその黒い教室と白い廊下の通りで若干響いて、直ぐに吸い込まれて行った。それはこの場所というのがここにはただ戸浦のみがいるという事実を、暗に伝えているように思える。しかしその無風無音の静けさが示すものとは裏腹に、戸浦はその黒い教室の中から有象無象の視線が当てられているような恐怖を抱いた。教室の窓の奥に見える朱赤漆塗りの空は、戸浦には自身の孤独孤立を痛々しく照らしているようだった。喉元に刃物を突き付けられるような緊縛感を地面に吐き流す心持ちで、戸浦は真っ白い床をじっと睨み俯いている。


「戸浦くんは迷ってしまったんだね。」


戸浦くんは咄嗟に前を見る。そこには青いジャージを着た少女が立ってこちらを見ている。いつからここにいるたんだ。胸の名前枠には『尾暮』と書いてある。見掛けから中学2、3年ぐらいだろうか。戸浦にはこの少女が何処と無く見覚えがあるのだが、しかし覚えのない少女である。


「君は、誰だ。」


「さあ。私は誰なんだろうね。でも私は君を知っているよ、戸浦くん。限らず、私は何でも知っているよ、君のことならね。」


怪しい少女である。戸浦はこの状況の疑心から、この少女を睨んで言った。


「ここは何処なんだ。」


「さあ。それはきっと君がよく知っている所だよ。君は迷っているんだ。この嘘の世界、君の世界の隙間に迷い込んでしまったんだよ。」


少女は嘘の世界と言った。続ける。


「私なら、君をここから出すことができるけど、君はどうしたい。私なら君を出口に案内することができるけど、君はここを出たいか、それともまだ留まるか。どうしたい。」


「出たい。」


戸浦は衝動的に行った。これはこの薄気味悪い世界が嫌ってのものではなく、何処か使命的で焦燥感的なものだった。だからきっと、戸浦の言葉は出たいではなく出なくてはならないと言った方が正しかったのだろう。そんな戸浦の言葉を聞き入れて、少女は言った。


「分かった。着いてくるといいよ。」


「ありがとう、尾暮。」


戸浦は少女を尾暮と言った。それはそのジャージにその名が書かれていたそれに違いない。迷い戸惑いなく、戸浦は自然と少女をそう言った。


「戸浦くんの好きなように呼んでいいよ。どうせここには君しか居ない。君の好きなように私を思いなよ。」


そう言いうと、尾暮はくるっと回ってその青ジャージの背中を戸浦に見せて、そして歩き始めた。戸浦もそれに続いて、この嘘の世界を歩き出したのだった。



戸浦は尾暮の背中を追っている。辺りは変わらず廊下だった。両方から黒の教室の圧迫を受けた、奥の壁が見えない長い長い一本道だった。


「君は学校が好きかい。」


尾暮は言った。


「好きではないな、嫌いだよ。大っ嫌いだ。僕は学校で居場所がないんだ。浮いていて、孤立している。周りを見れば楽しそうに笑っている奴がいて、それが息苦しかった。」


「そうか、そうだね。君はそう言う奴だった。」


戸浦は尾暮に乗せられるように話を続ける。


「僕はいつも独りだった。周りは僕を腫れ物、触れず物のように扱うし、僕も誰かに触れることができなかった。常に僕は周りに睨まれているような、いや、きっとそんなことはなかった。ただ腫れ物で、どうにもできない可哀想な奴として見られていたんだ。」


「そうだね。君はいつも独りだった。」


普段の戸浦なら誰にも言わないようなことなのに、今は蛇口が壊れたみたいに自分の不満というのが次々漏れ溢れてくる。


「きっと僕を分かってくれる人なんていないんだ。学校の人も、家族も。でもきっとそれが普通なんだ。みんな誰かに分かられることなんてない。ただ分かられたように過ごしているだけで、他人に気持ちを悟られることも、他人の気持ちを掬うこともできないんだ。」


「ああ、きっとそうだと思うよ。誰かに分かられることなんて、それを成し得た人物なんてはきっと人類史においても居ない、1人ともいない。きっとそうだろうね。」


「自分のことが分かるのなんて自分だけだよ。誰かが誰かを分かっているなら、きっとそれは自分自身しかいない。人は常に孤独だ。だから孤独の中で安心する場所に身を置くんだ。自分を侵犯されない所に居たいんだ。その場所は、僕にとってその場所は、きっと学校じゃなかった。」


「そうだね、きっと君を真に理解してくれる人なんてのは何処にだって居ないんだろうね。でも私はきっと君を誰よりも知っているよ。ここでは、君に孤独を感じさせない。君はどうだい。ここは安心する場所かい。」


戸浦は頷いていた。それは後ろを歩いている戸浦にとってはその問いに対しては答える意義はない所だったのだが、しかし戸浦は自然と頷いていた、頷いてしまった。同時に、この分からない少女の言動に何処か暖かさ、冷たい暖かさを感じた。全くもって奇妙な気分だった。それに気付くと同時に、この尾暮という少女にも疑問が沸く。


「尾暮、君は一体何者なんだ。」


「私は一体何者なんだろうね。でもそれはきっと、戸浦くんが1番知っている。誰よりも私のことを、きっと戸浦くんは知っているんだよ。」


またも謎めいたことを尾暮は言った。続ける。


「どうする。ここで立ち止まるかい。」


「いいや、案内してくれ。僕はここから出なければいけないんだ。」


「そうか、いやそうだろうね。君は立ち止まらないことを私は知っている。」


尾暮は歩みを止めずに言った。戸浦は変わらず、尾暮の背中を見ながら歩いている。



尾暮は初めてそこで止まった。それを見て戸浦が前を向くと、そこには扉があった。その扉と周囲の壁は、異質なものだった。いや、白い壁に白い扉、戸浦のよく知る学校の扉だった。それがただただの黒一色に挟まれる中で、ただただ異質に目立っているのだ。しかし戸浦が更に驚いていたのは、さっきまで奥の壁が見えない程長く感じた廊下が、思ったより随分早くその壁に着いてしまったことだ。

尾暮はこちらを振り返らずに、無言で扉を開ける。奥には真っ黒な街並みと真っ白な道、そして真っ赤な空が見えた。風が吹き込んでくる。冷たくて乾いた風だ。その風はまるで扉を潜れと戸浦に囁いているようだった。それに従うように戸浦がその扉を通ったのは、尾暮が止めていた足を再び動かして扉の向こうに歩き始めたからである。

戸浦が完全に扉を越えると、先程の風とは違う力強い突風が吹き付けて来た。その風に視線を乗せて戸浦が後ろを向くと、先程まで戸浦が歩いて筈の廊下や、今に通った扉はまるで全てが真っ赤な嘘であったかのように消えていた。代わりにその奥にはあの恐ろしい赤の空が見える。そうして振り返止まっている戸浦を他所に、尾暮は歩いて行く。直ぐに後ろを追おうと思っていたが、戸浦はあと数秒間その赤を見つめていた。

この黒い街は戸浦が向く方向から心地良い風が吹き続けている。それは戸浦にとっていつでも感じていたいような心落ち着く風だが、同時に戸浦はその風に妙に晴れない後ろめたさを感じた。戸浦は尾暮の後に続きながら、この街を睨み付けるように観察した。街はやはり黒である。白い道に並ぶ街並みは、切り絵のように影も姿も等しく黒かった。その黒を浮き彫りにするように、それは濃淡なく真っ赤で赤々しい。太陽のようなものは見えず、仮にこの世界に昼夜があるのならきっと夜であろうと戸浦は思った。そしてそんな戸浦が踏む道はただ白い一本道である。ただ目が痛くなる程、目を逸らせない程に光り輝いて見える。それはまるで戸浦にこの道を歩くことを強要しているようだ。

そしてこの街には人がいない。尾暮が言ったようにこの世界には人が全く見られない。黒染めの街というのはまさしく夜の街と言ったように人1人いない。いや、この街に至ってはきっと寝静まった夜の静寂よりもさらに深々と静けさが染み入っている。街が寝ている。それは不気味というよりは酷い程に魅力的で恐ろしい程に幻想的で、戸浦は誰も居ない空間の解放感と快感からか、自然と涙が溢れそうになった。この世界にずっと居たいという思いが強く、強く込み上げてきて、同時にそれを上回る使命感で板挟みになった。


「戸浦くん、ここらで一旦休もうか。」


「……いや、案内を続けてくれ。」


そして最終的に、戸浦は帰らなければという結論にふらふらと行き着いて、結局足を止めないのであった。



突然、自転車の走行音が戸浦を後ろから追い抜いた。それは戸浦と尾暮が下り坂を歩いている時であったのだが、肝心の自転車は見えない。その音はきっと楽しさに由来するものだと戸浦は直感した。その静寂の中でその坂を勢いよく駆け下がる音というのは、全てから目を背けて独り勝手に晴々としている様を容易に想像できた。そしてその音というのに、場違いな程に苛立ちを覚えた。それは静寂の世界を破られた所から来るものではなく、ただ無性にその音に怒りが沸いたのであった。


「戸浦くんは自転車によく乗るのかな。」


戸浦の心情などまるで気にしていないように、尾暮は戸浦に問いた。


「よく乗るって言うか、毎日僕は自転車で登下校しているんだ。でもそれで遊びに行ったり出掛けたりはあんまりないかな。」


「そうか。じゃあ戸浦くんは自転車に乗るのはあんまり好きじゃないのかな。」


「まあ、そうだな。ツーリングに行く程好きってわけではないな。けど嫌いってわけじゃない。」


「と、言うと。」


尾暮は間の合った相槌を打つ。


「さっきも言ったけど僕は学校が嫌いだからさ、終礼が終わったら直ぐに帰るんだ。そうするとまだ殆どの人が下校していないから、何というか僕の下校路には僕しかいないみたいな優越感というか特別感があるんだよ。そのまま風を切っている時っていうのは、余計な煩いも悩みも全部忘れられるからさ。そういう所は僕は好きなんだよ。」


「そっか、そうだね。それが戸浦くんには似合ってる。」


尾暮はそう言うと、急に足を早めて坂を下りた。戸浦もそれに合わせるように早足で下りると、尾暮は坂の下で止まって何か地面の方を見詰めている。戸浦が尾暮の後ろに立って同じ所を見ると、坂と直交するように生えた横道の辺りで自転車が雑に倒れているのが見えた。


戸浦は驚いた。しかしそれは自転車が倒れていると言う状況に驚いたのではない。その自転車が、戸浦の自転車に物凄く似ているのだ。戸浦は時間が止まったように硬直した。似ている、いや、最早似ているなんて言葉では表せない。全てが戸浦の自転車に見えるのだ。戸浦にはそれが堪らなく恐ろしく、醜かった。毛虫や百足を見るような嫌悪感というのが、このただ寝ている自転車に対して沸いて来た。


「どうする。この自転車は君に合っていると思うけど、使うかい。そこの坂から下ってみるかい。ここには君しかいないし。」


「いや、いいや。今はそう言う気分じゃない。」


そう言う気分じゃなかった。ただ本当に、今は自転車なんかに乗りたくなかった。


「じゃあこのまま歩き続けたいかな。」


「ああ、歩き続けるよ。この自転車も要らない。たださっきみたいに、歩こう。」


「そうだね。戸浦くんならそう言うと思っていたよ。」


尾暮は止めた足を動かす。戸浦もその青いジャージを着た尾暮に張り付くように歩き出した。そして決して振り返らなかった。



真っ直ぐな一本道をただただ歩いて、尾暮はある家の前で足を止めた。その家は、周囲の真っ黒の街並みとは合わない、いつもの慣れ親しんだ色を持っている。周囲からは、的外れなサイレン音が微かだが聞こえる気がする。戸浦は聞きたくなかった。


分かった、いや、分かっていた。


「戸浦くんのポケットの鍵、渡してよ。」


後ろに伸ばした手に戸浦のポケットに入っていた鍵を渡した。鍵は2つあったが、尾暮はその内の1つを迷わず刺した。


ガチャリ。


そのまま扉は開く。やはり扉は何の引っ掛かりもなく弧を描いた。扉の向こうは黒と白の独特な配色ではなく、よく見慣れた色である。ただ異質なのは、玄関を超えた奥に、窓も横扉も何もない廊下が続いていることだ。そしてそのずっと奥には戸浦を待つように見慣れた木の扉が見える。きっと戸浦の部屋である。


尾暮は靴も脱がずに玄関の奥の廊下を歩き始めた。戸浦もそこに続くように、急いでその扉を潜る。


「……ただいま。」

戸浦は無意識に、そう呟いていた。そこはきっと、戸浦の家であった。立地や家の構造は勿論違うのだが、外見はいつも見慣れた様であった。表札には『戸浦』の文字があったし、戸浦の鍵で開いた。だからきっと、そこは戸浦の家であった。

戸浦は尾暮が開けっぱなしにした扉を閉めると、しっかりと鍵を閉めた。


ガチャリ。


「戸浦くんは家は好きなのかな。」


戸浦は答えない。


「そうか、好きなんだね。まあ学校なんかよりも人はいないし、楽と言えば楽だよね。じゃあ戸浦くんには何か好きなコンピューターゲームってあるのかな。」


戸浦は答えない。


「ゲームはしないんだね。今は小説を読むのにハマっているのか。最近読んだ小説はどういう所が良かったのかな。」


戸浦は答えない。


「そうか、主人公が自分に似てたんだね。もしいたら友達になれたのかな。あっでも自分と似たものどうしってのは、逆に気まずいよね。」


戸浦は答えない。


「分かるよ。でも友達なんて肩書よりも成り行きのグデグデの関係ってのも楽しそうだもんね。そういうのって実質的友達とか言うのかな。」


戸浦は答えない。


「じゃあ私は戸浦くんの友達に慣れたのかな。君の居場所に慣れたのかな。」


戸浦は答えない。


「戸浦くんはさ、本当にここを出たいのかな。」


戸浦は答えない。


「……着いたよ。ここが出口だよ。」


戸浦は答えない、が、フッと顔を上げる。

尾暮はそのまま扉を開けて、その奥にはただ一色の黒が広がっていた。尾暮は振り返る。


尾暮の顔は戸浦だった。


戸浦は息を飲んだ。思えば、戸浦は尾暮の顔というのを見ていなかった。いや、確かに戸浦は初めてあった時に尾暮を見ていた筈なのだが、きっと戸浦はよく見ていなかった、見なかった。よく見なかったから、よく覚えていなかったのだ。体つきも、初めは小さく女子中学生ぐらいに思えたが、今では戸浦と向き合っている。戸浦が尾暮を尾暮と知ったあの青いジャージも、尾暮は着ていない。尾暮は、いや、違う。そのヒトデナシは戸浦と同じ制服を着ている。そしてそのヒトデナシはその憎たらしい声で語りかけてくる。


「最後にもう一度聞くけど、僕はここを本当に出たいのかな。」


戸浦は答えない。答えないが、その声が腹立たしかった。その姿、その顔、その存在が頭をよぎるだけで戸浦はその服のシワですら憎く感じた。そのヒトデナシがこの世全ての醜い所を集めて来たような、そんな存在に思えて仕方なかった。同情は無い。哀れみも無い。ただただそこには真っ黒に燃える憎しみの炎だけがあった。


だから戸浦は、そのヒトデナシを打つかるようにしてその扉から退かせた。その後に、当たった所を手で拭って、拭った手を壁に擦りつけた。本当に、憎たらしかった。


「君は本当に嘘つきだね。」


ヒトデナシのその言葉を耳に流して、戸浦は扉の向こうの部屋のスイッチを押した。


パチッ。

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怖がらせることを目的としないホラーについて 端締 凝浪 @hitodenasi123

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