第3話 蟻とわたし
三國くんが転校してきて、2週間ほどが経ったころだった。
「それと、、、西城、お前今週の国語のノート提出してないぞ。先週に続けて2回目だ、次やったら校庭30週な」
クラスの女子がクスクスと笑う。
「えーまただって。こないだ家庭科の宿題も忘れてたよね」
「ね、勉強できるから宿題なんていりませーん、てか?」
「美人なら何しても許されると思ってんの?あいつ」
「サイアク」
わたしはやってしまったと、焦って学生カバンを開ける。
すると、くしゃくしゃになったプリントの塊が1つ、2つと床に落ちた。
「何あのカバン、きったな」
「ずぼら系女子狙ってんの?意外に隙あります、みたいな」
「ただがさつなだけでしょ、体育のときにさ、腕毛生えてるの見えたし」
「ね、それ笑ってたら、急に半袖伸ばそうとしててウケる」
「なんかさー、クラス変わったときは綺麗だから友達なりたいと思ったけど、さすがに見た目とのギャップえぐくて無理だわ」
「うんうん、仲良くなっても損しかなさそう」
「なにー?美人の横でおこぼれもらおうとしてたの?あんた」
わたしは、そんな声の中、なお焦ってしまって、カバンを床にごそっとひっくり返してしまった。
教科書やノートが、ざっと散らばる。
「落ち着け西城、後ででいいから、じゃ次回の授業は、、、、」
そこから先の先生の声は何も聞こえなかった。
矢沢さんが何かを言ってるような気がしたが、それも形にならずに雑音として鼓膜を叩く。
わたし、、、わたしは、、、、、ちゃんと、、、、。
雑音が、だんだんと質量を持って体に入ってくる。
目が回って、動悸がして、吐きそう。
汗も絶え間なく落ちてくる。
「西城、、、西城、、、、大丈夫か?」
三國くんの顔が、ふと目の前にあった。
ああ、なんて綺麗な瞳なんだろうと、状況に反してなんとも気楽に思ってしまった。
「あいつらひでぇなぁ、ちょっと宿題忘れただけじゃん。誰にも迷惑かけてないっつーの」
わたしは、ノートを拾ってくれた三國くんの手を握って止めた。
やめて。
これ以上、わたしに恥をかかせないで。
休み時間に入ったのか、クラスがふわっとざわつき、椅子を引く甲高い音が三國くんとわたしの間を切り裂く。
「迷惑、、、かけてるから。先生にも、それに注意の時間だって授業中だし。みんなの時間を奪った」
三國くんは掴まれた自分の手をじっと見て、
「へぇーーー、西城はすげぇな、大人だ」
「宿題忘れてるんだから、、、大人じゃないよ、、、きっと、わたしは大人になれない、、、」
涙が、通いなれた道を無意識に通るように、すっと顎から落ちた。
また馬鹿にされる。
こんなことで泣いてたら。
また、馬鹿に、、、。
手が震える。
落ちたノートを拾うこともままならないほどに。
涙が白く色を失った手の甲に落ちる。
誰か、わたしを、認めて、大丈夫だって、言って。
誰か、、、、。
三國くん、、、、、。
あの日の朝のように、わたしを、助けて、、、。
そんな都合の良い、女々しい声が脳内に響いた。
これじゃあの忌まわしい母と同じだ。
とっかえひっかえ、男にしなだれるあの女と。
わたしには、あいつの血が流れている。
嫌だ、、、嫌だ、、、こんなわたし、、、いなくなったほうが、、、
「西城さん!!、
そこには丸く太った1人のクラスメイトがいた。
「、、、、、え、、、万太郎くん?」
「そう万太郎。百太郎でも千太郎でもなく、万太郎。ほら、行こうよ」
万太郎くんが、そのアンパンみたいな手で涙に濡れたわたしの手を握って立たせた。
思っていたよりも強い力だった。
わたしは滑るように教室の入口まで引っ張られていく。
「あ、柚葵くん、あとはよろしくね」
万太郎くんは、あっけに取られている三國くんに一言だけ告げた。
「お、、、、、おう、、、、」
教室の喧騒も、わたしの涙も、クラスメイトの好奇の目も、すべてそこに置き去りにして、ぐんぐん廊下を引っ張られていく。
万太郎くんの力が強いのか、わたしの体に力が入っていないのか、分からない。
どうやって進んでいるのかも分からないまま、気づけば談話室まで来ていた。
「轟先生、万太郎です。コーヒーください」
「おい、お前はここを喫茶店か何かと勘違いしているのか、、、、っと、なんだ珍しいな」
そこにいたのはスクールカウンセラーの轟先生だった。
まだ若い、傍目には大学を出たばかりと映る、キャリアウーマン然とした女性だ。
パリッとした白いスーツに、赤いパンプスは、学校という空間には若干そぐわない。
「お前は、確か、2年の西城玲だな」
「、、、、、はい」
「そう、、、、、お前が、、、、まぁ座れ。紅茶とコーヒーどっちがいい?」
何か轟先生がにやついているのが気になるが、、、。
「コーヒーで、ブラックで、お願いいたします」
学校でコーヒーなんて、という思考は、あまりに自然に注文した万太郎くんの手前、あえて言わないほうがここでの礼儀なんだと思った。
学校の中に突如現れた異質な空間に、わたしの心は少しだけ軽くなった。
わたしに降る言葉の雨が、視線の日差しが、ここには届かないようだった。
「お前は、賢いな」
轟先生がそう言う。
いったいどこが、と反抗的な気持ちになる。
「無駄な会話のやり取りをしないよう、考えているのだろう?コーヒーと答えるところを、ブラックで、まで言う」
「そんなことは当たり前じゃ」
「当り前じゃないさ。社会人ならそうかもしれないが、お前はまだ子どもだ」
「褒められているんでしょうか」
轟先生は、その美形と言うべき高い鼻をさらに天井へと高くして、こちらを見下ろした。
「うーん、どっちでもない、かな。わたしには人を褒める、貶すの資格はないからね、お前はお前だ、それ以上でも以下でもない」
賢いと褒めたような気もするが、、、。
何か不思議な、普通の大人とは違う雰囲気のある人だ。
この人は、わたしの味方だろうか、、、。
「お前、今、私がどんな人間か、自分にとって敵じゃないか、考えただろう」
「、、、、そんなこと」
図星だった。
なぜ分かるのだろう。
「そして、それを言い当てられた今、お前は私を理解ある味方の大人だと思い始めている」
「、、、、、はい」
そこで轟先生は私に初めて、笑顔以外の表情を見せた。
真剣な、そして憐れむような細い瞳。
「まずはそこからだ、西城。敵か味方かなんて、そんな簡単に割り切れることじゃない。少し自分のことを理解してくれたとか、助けてくれたとか、波長が合うからって味方ではない。その逆も然り。コーヒーだって苦いからって不味いわけじゃないだろう?」
「はい、、、」
「まぁ、そんなことは重々分かってますよって顔だな」
「そんなことは、、、」
それから轟先生は黙ってコーヒーを出してくれた。
そのカップは明らかに学校の備品なんかではない、高そうなものだった。
「それで万太郎、今日もコーヒー出してやったんだ、何か対価をよこせ」
そう言えば轟先生との会話で完全に忘れていたが、この小さくて、天パーで、太っているクラスメイトは、なぜわたしをここに連れてきたのだろうか。
明らかに、轟先生がわたしを読んでいた訳じゃないことは分かっている。
「先生」
「なんだ」
「先生は、美人が好きなんですよね」
「そうだ、ただし、男・女に関わらず美しい顔立ちの人間が好きだ」
これまたストレートな趣味である。
「先生の目から見て、西城さんはどうですか?」
「極上だ、ずっと目はつけてたんだ。そこについては万太郎に感謝しよう」
え、なんか、雲行きが怪しい。
「それでですね、僕がここに西城さんを連れてきたのはですね」
そう。それが気になっていた。
まさか助けてくれたのだろうか、とわたしはほとんど確信していた。
とぼけたような、気の利かない印象だったが、それは間違いだったのだ。
その件は、ありがとう。
そう先に言わなければ、と思った、その刹那だった。
でも、そうであるならば、なぜ先生の趣味を確認した?
「彼女が教室の床に座り込んだ時、パンツがずっと丸見えだったんです!それで、先生がかねてより大好きだと公言していた、イチゴ柄のパンツだったんです!!!!」
は、、、、?
え、、、、?
なんだって、、、?
「それで、これはもうすぐに先生のところに連れてこないとと思って、先生にはいつもお世話になってるから」
轟先生の言葉は正しかった。
すぐに味方かどうかなんて判断してはいけない。
助けてくれたと思ったのは、早計だった。
こいつは敵だ。
「ほう、イチゴ柄か、どれ見せてみろ」
轟先生がハイヒールをカツカツ鳴らして、わたしの前でしゃがみ込む。
そして手慣れた仕草でスカートをめくり上げ、
「確かに。よくやった、万太郎」
「これからも精進します。先生」
わたしは怒る気にもならず、コーヒーを先生の白いスーツにかけた。
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「ちょっと待ってよー、西城さん」
とてとて、という効果音が正しい追いかけ方で万太郎が昇降口から迫ってくる。
談話室での一件後、存在感をなるべく薄くして1日を過ごした放課後だった。
「なに?変態。あ、変態って蛹が蝶々になるとかじゃないから、変質者って意味」
「へー、西城さん凄いね、僕、いま、蝶々になるの?って言おうとした」
その雑なとぼけ方が、今や本当なのか嘘なのかも分からない。
でも、そんなことはどうでもいい。
助けてくれたって思ってたのに、それが轟先生への貢ぎ物だったなんて、馬鹿らしい。
「轟先生がね、スーツ汚した弁償としてまた来いって」
「ゼッタイ嫌」
「えー、でも轟先生優しいよ」
「そんな問題じゃない。それからなんであんたついてくんのよ」
こいつは三國くんと同じ小学校だった。
ならば、明らかにわたしの帰り道とは別のはずだ。
学校の隣の、この
沼の中に、いくつもの小島があって、そこを桟橋があちこちに渡っている。
ちょうど沼の真ん中にある東屋の1つに着いた時だった。
夕暮れの日差しが、沼に吸収されていく。
だんだんと、物の線分が不明瞭になって溶け合っていくような時間。
風に草の匂いが混ざって、そのまま寝ころびたいような気持になる。
わたしは、なぜか心が落ち着いていくのを感じた。
なんでついてくるのか、その質問に答えないまま、万太郎くんは東屋に座って地面を見ていた。
わたしは「もう帰るのだ」という意思を示すために柱に寄りかかって立ったまま。
「蟻って知ってる?」
は?
何を言ってんだこの変態は、と顔に隠さずに露骨に嫌悪の顔をしてみせた。
「知ってるってなに?そんな話なら帰るけど」
万太郎くんはこちらの不機嫌など意にも介さず、そのまま続けた。
「蟻の2割は、サボり魔なんだって」
「ああ、そのこと、知ってる。必ずサボるやつがいて、そいつらがいなくなってもまたサボるやつがいるって話でしょ。でも実際はいざというときに働くためにサボっている」
そんなことか、と思った。
結局は、人間のなかで出来損ないのやつが、サボる理由を集団心理のせいにしているだけの、豆知識。
出来損ないの、2割。
それは間違いなく、わたしだ。
質が悪いのは、わたしにはやる気も、真面目さもあるのに、その2割の出来損ないということだ。
万太郎くんは、わたしに1から10まで言われて言うことがなくなったのか、地面の蟻を腕に這わせている。
蟻はどんどんと登り続け、ついには万太郎くんの天パの中に入って行った。
「ちょ、あれ、、あれれ、どこいった、、、あれ、、、どうしよう、、、」
情けない男だ。
いったいなんなんだこいつは。
わたしは決して助けまいと思っていたが、万太郎くんがおもむろに制服を脱ごうしたため、
「なにやってんだこの変態、変質者、覗き魔!!」
そのふわふわの頭を叩きながら慌てて止めた。
本当に変質者か、こいつは。
「ほら取れたよ」
「ありがとう、西城さんはやっぱり優しいね」
やっぱり?
どういうことだろう。
「で、わたしはもう帰るけど。夜ご飯の準備しないとだし」
「そっか、ごめんごめん」
「え、蟻の話は本当にそれで終わりなの?」
「あ、、、そうだった」
どこまでもとろいやつだった。
ただ、その表情は、およそわたしには理解できないような、ゆるやかな柔らかさを持っていた。
「僕はね、サボる蟻は、きっと何か別の大切なことを知っていると思うんだ」
「どういうこと?」
「外に出て、食べ物を持ってきたり、巣を作ったり、敵と戦ったりするよりも大切なことを知っているから、やる気がでないんだよ」
「そんなのはおかしいでしょ。集団で生活する以上、役割は果たさないと、働かないといけない。それはただのサボり」
「しないといけない、やらないといけない、って誰が決めたの?」
少しだけ語気が強くなる万太郎くんに、わたしも少しカッとなった。
「だってそれがルールでしょ、人に迷惑をかけちゃいけない、働かないやつは、人のためにならないやつは、いても、、、しょうがない、、、」
「それは誰が決めたの?僕にはずっと、それが分からないんだ。頑張ること、人の迷惑にならないこと、それがなんで正しいの?サボっている蟻には、ご飯を食べるより、働くより、人のためになるより、大事なことがあるかもしれないでしょ?」
それは、絶対に正しくない。
わたしは直観で分かる。
みんながそんなことをしたら、何もかもが成り立たなくなる。
「西城さんはネコ、好きでしょ?」
蟻の次はネコときた。
こいつ、話が取っ散らかって、何がいいたいのか分からない。
でも不思議と、その雰囲気に飲まれていく。
太陽が落ちて、暗闇にみなが平等に染まるよう。
そんな怖くて、でも全ての存在が薄くぼやけていって、何も気にしなくていい、誰も見ていないと、心が軽くなるような、そんな世界。
「なんでネコ好きなの知ってるの、こんどはストーカー?」
「うーん、校舎の裏で野良猫に話しかけてるの見たから」
「わたし、、、、なんて言ってた?」
万太郎くんは、ちょっと考える素振りをして、
「わぁぁ、ネコちゃんだぁ、ちゅっちゅしてもよろしいですかぁ、なんて高貴なお姿なんでしょう、野生で生き抜くその目がたまりませんねぇ、、」
「もう分かった、分かったからやめて、ごめん」
わたしが羞恥に耐えられないのと、万太郎くんのお世辞にも整ったと言えない顔から出てくるその強烈な言葉に吐き気がした。
「ほら、ネコだってさ、別に頑張ってないでしょ?」
「彼らは生きることが仕事であり、価値であり、この世の宝なの」
「それは人間だって一緒だよ」
でも、わたしたちは人間でしょ?
その言葉が、どうにも出てこなかった。
「ネコだって、サボってるわけじゃない。人間の目から見れば、だらけているように見えるだけだよ。彼らも、僕らが知らないだけで、何か大切なことを知っているんだ」
「分かった、分かった。あんたが言ってることは一理ある。一理あるし、どっかで聞いたこともある。でも所詮、わたしには能力がなくてサボりたいやつの戯言にしか聞こえない。だったら、なんであんたは学校に来てるわけ?それだったら、その他の、人様に迷惑かけてでも大切なものに時間を使えばいいじゃない。所詮あんたも一緒でしょ?」
その時、万太郎くんが初めて、わたしの、わたしそのものを見たような気がした。
パンツじゃなくて、なんて余計なことも頭に浮かんだが。
「そうだね。僕が学校に来てるのは、ある人が、それを大切だって思ってるから」
「あんたじゃなくて?」
「僕は、僕にとっては、その人が1番大事。だから今も、学校なんて行かずにその人のところにいたい。でも、その人が、学校を大事だと思っているから、僕はこうして来てるんだ」
その強い眼差しに、わたしは返す言葉が見つからなかった。
一陣の風に、木が、葉が、水が、1匹の蟻すら音を出しているようで。
ああ、なんて言うんだっけ。
夜寝る前、日課として国語辞典を読むようにしているのは、こういう時に逃したくないからだ。
美しいものを、言葉に置き換えて頭の中の書棚にそっと入れたいから。
そうだ__
万太郎くんは、わたしが見ていないもの、聞いていないものを、感じている。
彼と一緒にいると、その一部を借りているような気持になる。
「帰ろう、西城さん」
その言葉に、少しだけ残念な気持ちが沸き上がったことは絶対に教えてやらないと誓った。
わたし少女マンガのヒロインっぽいのに、対抗馬負け枠真面目系男子がブサイクすぎるんですが @shirano
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